ガラス瓶
大学の近くの雑貨屋で買ったガラス瓶だった。
麦茶を入れるためだったか、パスタを入れるためだったか、もう真由は覚えていない。
ただ、その瓶はいつも食卓の真ん中にあった。
向かい側に座る祐希の顔を、真由はよく瓶越しに見た。
ガラスが光を拾って、輪郭を少しだけ曲げる。
「なんか変な顔」
そう言うと、祐希も瓶の向こうから覗き込んできて、
「そっちこそ」
と笑った。
二人で笑うたび、瓶の中の光が揺れた。
その頃のことを思い出すと、真由は今でも不思議な気持ちになる。
本当にあんな日々があったのだろうか、と。
祐希が大学院へ進学した春。
真由は卒論を出せなかった。
最初は留年するつもりだった。
それから休学も考えた。
気づけば何も決まらないまま大学を辞めていた。
「しばらくここにいればいい」
そう言った祐希の言葉に甘えた。
甘えたというより、すがったのかもしれない。
アパートの窓から見える空は狭かった。
昼になる。
夕方になる。
夜になる。
研究室から帰らない祐希を待ちながら、時計ばかり見ていた。
テーブルの上のガラス瓶だけが昔と同じ場所にある。
真由は瓶越しに向こう側の空席を見る。
そこには何もない。
コンビニで働き始めてから、少しだけ時間が動き出した。
レジを打つ。
品出しをする。
弁当を並べる。
体を動かしている間は余計なことを考えずに済む。
それでも夜になると疲れが残った。
アパートへ帰る。
祐希はまだ帰っていない。
電気のついていない部屋。
ガラス瓶。
沈黙。
蛇口から落ちる水の音。
真由は瓶を洗いながらぼんやり思う。
いつからだろう。
二人で話さなくなったのは。
ある日、閉店後の棚卸しが長引いた。
いや、正確には棚卸しだけではなかった。
バイトの後輩たちが残っていた。
鷲尾賢治と木下鷹雄。
二人とも祐希の研究室の後輩だった。
就活の愚痴。
研究室の先輩の話。
教授の話。
他愛のない話だった。
真由は時々笑いながら聞いていた。
時計を見た時には一時間近く経っていた。
「やば」
鷲尾が顔を上げる。
「真由先輩、帰らなくていいんですか」
「あっ」
慌ててバッグを掴む。
その時だった。
木下が苦笑して言った。
「高橋先輩には俺たちと話してたって言わない方がいいですよ」
真由は首を傾げた。
「なんで?」
「いや、なんか」
鷲尾が頭を掻く。
「何もないのに変に思われるのも嫌だし」
「俺たちも嫌ですしね」
二人とも笑っていた。
本当にそれだけだった。
だから真由も笑った。
けれど帰り道になって、その言葉だけが妙に耳に残った。
部屋の明かりがついていた。
珍しく祐希が先に帰っていた。
テーブルには夕飯が並んでいる。
「遅かったね」
真由は靴を脱ぎながら答える。
「棚卸し」
嘘ではない。
棚卸しはあった。
祐希は「ああ」と頷いた。
それだけだった。
それだけなのに。
真由の喉の奥に何かが引っ掛かった。
味噌汁を飲む。
祐希も黙って食べている。
ガラス瓶の向こうに祐希の顔があった。
真由はふと目を上げる。
輪郭が曲がる。
鼻筋が歪む。
目の位置がずれる。
前からそうだったはずなのに。
その日初めて見た気がした。
それからも生活は続いた。
賢治と鷹雄は相変わらずだった。
店で会えば挨拶をする。
休憩時間に雑談する。
忙しい日には手伝ってくれる。
真由も笑った。
自然に笑えた。
気づけば二人の前では肩の力が抜けていた。
「高橋先輩、最近も忙しいんですか」
そう聞かれる。
「うん」
「大変そうっすね」
「そうだね」
その程度の会話。
その程度のはずだった。
それなのに仕事の日が少しだけ楽しみになっている自分に気づく。
制服に着替える。
髪をまとめる。
店へ向かう。
レジの向こうで二人が手を振る。
真由は思わず笑い返す。
胸の中で何かが弾けるように軽くなる。
久しぶりだった。
誰かと話すことがこんなに楽しいなんて。
その夜、帰宅は遅くなった。
アパートは静かだった。
祐希は研究室らしい。
真由は一人で夕飯を食べた。
食卓の向こう側は空いている。
ガラス瓶だけが真ん中に立っていた。
真由は手を伸ばして瓶を少し回した。
部屋の灯りが曲がる。
壁が曲がる。
自分の指も曲がる。
小さく息を吐く。
疲れているのだろう。
そう思った。
本当にそうだろうか。
分からなかった。
深夜近くになって玄関が開いた。
祐希が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
それだけのやり取り。
祐希は冷蔵庫から麦茶を出した。
ガラス瓶の中で氷が鳴る。
かすかな音。
真由はその音を聞いていた。
不思議なくらい穏やかな気持ちだった。
何かが解決したわけではない。
何も始まってもいない。
それでも今は少しだけ眠れそうだった。
祐希が向かい側に座る。
真由は瓶越しに彼を見る。
相変わらず顔は歪んで見えた。
けれど、その歪みさえも昔からそこにあったものなのだと思う。
ガラス瓶は何も変わっていない。
変わったのは、自分なのかもしれない。
そう思いながら、真由は目を伏せた。
瓶の中で揺れる光だけが、静かに二人の間を漂っていた。




