下駄
真由は旅館の鏡の前で帯の端を指先で撫でた。
「似合ってるよ」
背後から聞こえた高橋の声に、曖昧に笑う。
ありがとう、と返したものの、その声は自分でも驚くほど小さかった。
窓の外では温泉街の灯がともり始めている。
せっかく誘ってくれた旅行なのに。
ここ数か月、二人の間に積もったものは、まだそこにある。
奨学金の振込日を気にする高橋。
生活費の話になると口数が減る自分。
浴衣の袖を整えながら、真由は息を吐いた。
長かった。
ずっと。
少し前まで、隣にいるだけでよかったはずなのに。
温泉街は思ったより賑やかだった。
射的の音。
湯気の匂い。
提灯の明かり。
下駄の歯が石畳を叩く。
からころ、からころ。
高橋は土産物屋の看板を眺めながら歩いている。
その背中を見つめながら、真由は何度か声をかけようとしてやめた。
謝ろうか。
何を。
お金のことを。
今さら。
そんな言葉ばかりが頭を巡る。
鼻緒が少し痛い。
けれど、その痛みの方が考え事より楽だった。
角を曲がったあたりで、足が引っ掛かった。
「あっ――」
鋭い痛み。
次の瞬間には石畳が目の前に迫っていた。
高橋が振り返る。
真由は慌てて立ち上がろうとした。
だが足に力が入らない。
鼻緒の擦れた場所が熱を持っている。
「ごめん」
反射的に口から出た。
高橋はしゃがみ込み、足元を見る。
眉を寄せる。
その表情だけで、胸がきゅっと縮んだ。
また迷惑をかけた。
また。
「先輩?」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げる。
鷲尾と木下。
大学の後輩。
真由の心臓が嫌な跳ね方をした。
よりによって。
二人とも事情を聞くとすぐに駆け寄ってきた。
昔のことを思い出す。
飲み会の帰り道。
曖昧な誘い。
断ったはずの視線。
高橋は知らない。
知らないままだ。
「薬局探してくる」
高橋はそう言った。
「旅館までなら俺たちが送りますよ」
鷲尾が言う。
「任せた」
高橋は即座に頷いた。
合理的だった。
間違っていない。
歩けない自分。
薬も必要。
旅館も近い。
誰が考えてもそうする。
真由にも分かる。
だから何も言えない。
唇を噛む。
大丈夫。
それしか言えなかった。
左右から支えられる。
浴衣の袖が触れる。
体温が近い。
鼻緒の痛みより、その状況の方が落ち着かなかった。
「すみません」
「気にしないでください」
木下が笑う。
その優しさに救われる。
救われてしまう。
それが苦しかった。
高橋は少し先を歩いていた。
人混みの向こう。
提灯の明かりの下。
見慣れた背中。
その背中だけを見ていた。
見失わないように。
見失いたくないように。
そのとき。
高橋が角を曲がった。
姿が消えた。
ふっと。
本当に一瞬だった。
なのに胸の奥がひどく冷えた。
置いていかれたわけじゃない。
分かっている。
すぐ先にいる。
旅館で待っている。
薬を探している。
全部分かっている。
それなのに。
急に息が苦しくなった。
喉の奥がつまる。
肩に置かれた手。
支えられる腕。
助けられている事実。
申し訳なさ。
ありがたさ。
恥ずかしさ。
情けなさ。
どうしようもなさ。
いくつもの感情が一度に押し寄せてきて、何を感じているのか自分でも分からなくなる。
ただ、
高橋がいない。
それだけが鮮明だった。
真由は視線を落とした。
浴衣の裾が揺れている。
鼻の奥が少し熱い。
泣くほどじゃない。
泣く資格もない。
そう思うのに、胸だけが勝手に痛んだ。
旅館の灯が見え始めた頃には、石畳の音も少し遠く感じられた。
足の痛みはまだある。
けれど、さっきほどではない。
木下が何か話している。
鷲尾も相槌を打っている。
真由はぼんやりと聞いていた。
夜風が頬を撫でる。
少しだけ涼しい。
そのとき不意に、
もし今ここに高橋がいたら。
そんな考えが浮かんだ。
特別なことじゃない。
何か言ってほしいわけでもない。
答えを出してほしいわけでもない。
ただ。
肩を貸してくれたら。
少し体重を預けられたら。
それだけでよかったのかもしれない。
そう思った途端、視界が滲んだ。
慌てて瞬きをする。
提灯の灯が揺れる。
真由は顔を伏せた。
「もう少しですよ」
鷲尾の声が聞こえる。
「……はい」
返事をした声は、自分でも驚くほど弱かった。
温泉街の喧騒はまだ続いている。
けれど真由にはもう遠かった。
ただ旅館の向こうにいるはずの高橋のことだけを考えながら、彼女は小さく息を吐いた。




