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スナップ360  作者: 丸鶴
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10/17

下駄

真由は旅館の鏡の前で帯の端を指先で撫でた。

「似合ってるよ」

背後から聞こえた高橋の声に、曖昧に笑う。

ありがとう、と返したものの、その声は自分でも驚くほど小さかった。

窓の外では温泉街の灯がともり始めている。

せっかく誘ってくれた旅行なのに。

ここ数か月、二人の間に積もったものは、まだそこにある。

奨学金の振込日を気にする高橋。

生活費の話になると口数が減る自分。

浴衣の袖を整えながら、真由は息を吐いた。

長かった。

ずっと。

少し前まで、隣にいるだけでよかったはずなのに。


温泉街は思ったより賑やかだった。

射的の音。

湯気の匂い。

提灯の明かり。

下駄の歯が石畳を叩く。

からころ、からころ。

高橋は土産物屋の看板を眺めながら歩いている。

その背中を見つめながら、真由は何度か声をかけようとしてやめた。

謝ろうか。

何を。

お金のことを。

今さら。

そんな言葉ばかりが頭を巡る。

鼻緒が少し痛い。

けれど、その痛みの方が考え事より楽だった。


角を曲がったあたりで、足が引っ掛かった。

「あっ――」

鋭い痛み。

次の瞬間には石畳が目の前に迫っていた。

高橋が振り返る。

真由は慌てて立ち上がろうとした。

だが足に力が入らない。

鼻緒の擦れた場所が熱を持っている。

「ごめん」

反射的に口から出た。

高橋はしゃがみ込み、足元を見る。

眉を寄せる。

その表情だけで、胸がきゅっと縮んだ。

また迷惑をかけた。

また。


「先輩?」

聞き覚えのある声だった。

顔を上げる。

鷲尾と木下。

大学の後輩。

真由の心臓が嫌な跳ね方をした。

よりによって。

二人とも事情を聞くとすぐに駆け寄ってきた。

昔のことを思い出す。

飲み会の帰り道。

曖昧な誘い。

断ったはずの視線。

高橋は知らない。

知らないままだ。


「薬局探してくる」

高橋はそう言った。

「旅館までなら俺たちが送りますよ」

鷲尾が言う。

「任せた」

高橋は即座に頷いた。

合理的だった。

間違っていない。

歩けない自分。

薬も必要。

旅館も近い。

誰が考えてもそうする。

真由にも分かる。

だから何も言えない。

唇を噛む。

大丈夫。

それしか言えなかった。


左右から支えられる。

浴衣の袖が触れる。

体温が近い。

鼻緒の痛みより、その状況の方が落ち着かなかった。

「すみません」

「気にしないでください」

木下が笑う。

その優しさに救われる。

救われてしまう。

それが苦しかった。


高橋は少し先を歩いていた。

人混みの向こう。

提灯の明かりの下。

見慣れた背中。

その背中だけを見ていた。

見失わないように。

見失いたくないように。

そのとき。

高橋が角を曲がった。

姿が消えた。

ふっと。

本当に一瞬だった。

なのに胸の奥がひどく冷えた。

置いていかれたわけじゃない。

分かっている。

すぐ先にいる。

旅館で待っている。

薬を探している。

全部分かっている。

それなのに。

急に息が苦しくなった。

喉の奥がつまる。

肩に置かれた手。

支えられる腕。

助けられている事実。

申し訳なさ。

ありがたさ。

恥ずかしさ。

情けなさ。

どうしようもなさ。

いくつもの感情が一度に押し寄せてきて、何を感じているのか自分でも分からなくなる。

ただ、

高橋がいない。

それだけが鮮明だった。

真由は視線を落とした。

浴衣の裾が揺れている。

鼻の奥が少し熱い。

泣くほどじゃない。

泣く資格もない。

そう思うのに、胸だけが勝手に痛んだ。


旅館の灯が見え始めた頃には、石畳の音も少し遠く感じられた。

足の痛みはまだある。

けれど、さっきほどではない。

木下が何か話している。

鷲尾も相槌を打っている。

真由はぼんやりと聞いていた。

夜風が頬を撫でる。

少しだけ涼しい。

そのとき不意に、

もし今ここに高橋がいたら。

そんな考えが浮かんだ。

特別なことじゃない。

何か言ってほしいわけでもない。

答えを出してほしいわけでもない。

ただ。

肩を貸してくれたら。

少し体重を預けられたら。

それだけでよかったのかもしれない。

そう思った途端、視界が滲んだ。

慌てて瞬きをする。

提灯の灯が揺れる。

真由は顔を伏せた。

「もう少しですよ」

鷲尾の声が聞こえる。

「……はい」

返事をした声は、自分でも驚くほど弱かった。

温泉街の喧騒はまだ続いている。

けれど真由にはもう遠かった。

ただ旅館の向こうにいるはずの高橋のことだけを考えながら、彼女は小さく息を吐いた。


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