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スナップ360  作者: 丸鶴
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7/11

ビー玉

 朝、職員室の窓から差し込む光はまだやわらかかった。

 佐伯加奈は出席簿を開きながら、小さく息を吐いた。

 胸の奥で、ころり、と何かが転がった気がした。

 ビー玉だ。

 もちろん本物ではない。ただ、あの悪童二人組――大地と蓮の顔を思い浮かべた瞬間、透明な玉がひとつ、肋骨の裏へ入り込んできたような感覚があった。

「今日は何個かな……」

 自嘲気味につぶやいて、席を立つ。

 その時点では、まだひとつだけだった。

 一時間目。

「先生ー! 蓮が消しゴム食べましたー!」

「食べてねえよ!」

「口に入れてた!」

「それは本当だけど!」

 教室中の笑い声。

 加奈は額を押さえた。

 ころん。

 もうひとつ。

 ころころ。

 さらにひとつ。

 体の中でビー玉が増えていく。

 叱っても、説明しても、別の騒ぎが始まる。

 授業の終わりには、歩くたびに腹の中で玉同士がぶつかるようだった。

 昼前になるころには、玉はずいぶん増えていた。

 階段を上るだけで重い。

 給食の時間、大地が牛乳をこぼし、蓮が雑巾を振り回し、別の子が泣き出した。

 ころころころころ。

 数えきれない。

 喉の奥までビー玉で埋まりそうだった。

「先生、大丈夫?」

 隣のクラスの教師が尋ねる。

「ええ、まあ」

 そう答えた声は、自分でも驚くほど細かった。

 午後。

 ついに口を開くのも億劫になった。

 椅子に腰掛けると、全身が沈んでいく。

 体内のビー玉が重しになっているみたいだった。

 そんな加奈を見て、真っ先に異変に気付いたのは大地と蓮だった。

「先生?」

「なんか顔白くね?」

 二人が机の横から覗き込む。

 いつもなら叱る距離だ。

 だが今日は、その元気な顔がやけに近かった。

「……別に」

「別にじゃないだろ」

「腹痛?」

「熱?」

 顔を寄せ合って相談する二人。

 その様子を見ているうちに、加奈の胸の中でビー玉が騒ぎ始めた。

 ころころ。

 からから。

 がちゃがちゃ。

 喉の奥までせり上がってくる。


 息が浅くなる。

 何か言わなければ。

 でも何を。

「君たちのせいよ!」

 気付けば声が出ていた。

 二人が目を丸くする。

「朝から騒ぐし! 授業は聞かないし! 牛乳はこぼすし! 廊下は走るし! 毎日毎日毎日!」

 胸の中のビー玉が一斉に飛び出していく。

「先生だって疲れるの! 先生だからって平気なわけじゃないの!」

 言葉は止まらなかった。

 溜め込んだ玉を投げつけるみたいに。

 ひとつ残らず。

 全部。

 教室は静まり返った。


 大地も蓮も黙っている。

 加奈ははっとした。

 やってしまった。

 子供相手に。

 教師失格だ。

 そう思った瞬間――


「ごめん」

 大地が言った。

「俺ら、そんな疲れさせてた?」

 蓮も続く。

「先生、いつも元気そうだったから」

 その声は思いのほか小さかった。

 加奈は言葉を失った。

 体の中を探ってみる。

 あれほどあったビー玉が見当たらない。

 空っぽだった。

 ただ、抜けた場所に風が通るような感覚だけが残っている。


 放課後。


 教室の整理をしていると、机の上に小さな袋が置かれていた。

 中にはビー玉が二つ。

 青と緑。

 そして紙切れ。

『先生へ

 ストレスたまったらこれ投げていい

 でも俺らじゃなくて壁にしてください

         大地・蓮』

 思わず吹き出した。

 その拍子に肩の力が抜ける。


「ほんとにもう……」

 笑いながらつぶやく。

 そのとき教室の戸が開いた。

「何をそんなに楽しそうに?」

 現れたのは隣のクラスの教師、高橋悠人だった。

 加奈は慌ててビー玉を隠す。

「内緒です」

「へえ」

 悠人は微笑む。

「でも、今日は少し顔色がいいですね」

 夕陽が差し込む教室で、その笑顔を見た瞬間。

 胸の奥で、ころり、と何かが転がった。

 今度のビー玉は重くなかった。

 むしろ、光を閉じ込めたようにきらきらしていた。

 加奈はそれを追い払わず、そっと胸の中に残しておいた。


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