ビー玉
朝、職員室の窓から差し込む光はまだやわらかかった。
佐伯加奈は出席簿を開きながら、小さく息を吐いた。
胸の奥で、ころり、と何かが転がった気がした。
ビー玉だ。
もちろん本物ではない。ただ、あの悪童二人組――大地と蓮の顔を思い浮かべた瞬間、透明な玉がひとつ、肋骨の裏へ入り込んできたような感覚があった。
「今日は何個かな……」
自嘲気味につぶやいて、席を立つ。
その時点では、まだひとつだけだった。
一時間目。
「先生ー! 蓮が消しゴム食べましたー!」
「食べてねえよ!」
「口に入れてた!」
「それは本当だけど!」
教室中の笑い声。
加奈は額を押さえた。
ころん。
もうひとつ。
ころころ。
さらにひとつ。
体の中でビー玉が増えていく。
叱っても、説明しても、別の騒ぎが始まる。
授業の終わりには、歩くたびに腹の中で玉同士がぶつかるようだった。
昼前になるころには、玉はずいぶん増えていた。
階段を上るだけで重い。
給食の時間、大地が牛乳をこぼし、蓮が雑巾を振り回し、別の子が泣き出した。
ころころころころ。
数えきれない。
喉の奥までビー玉で埋まりそうだった。
「先生、大丈夫?」
隣のクラスの教師が尋ねる。
「ええ、まあ」
そう答えた声は、自分でも驚くほど細かった。
午後。
ついに口を開くのも億劫になった。
椅子に腰掛けると、全身が沈んでいく。
体内のビー玉が重しになっているみたいだった。
そんな加奈を見て、真っ先に異変に気付いたのは大地と蓮だった。
「先生?」
「なんか顔白くね?」
二人が机の横から覗き込む。
いつもなら叱る距離だ。
だが今日は、その元気な顔がやけに近かった。
「……別に」
「別にじゃないだろ」
「腹痛?」
「熱?」
顔を寄せ合って相談する二人。
その様子を見ているうちに、加奈の胸の中でビー玉が騒ぎ始めた。
ころころ。
からから。
がちゃがちゃ。
喉の奥までせり上がってくる。
息が浅くなる。
何か言わなければ。
でも何を。
「君たちのせいよ!」
気付けば声が出ていた。
二人が目を丸くする。
「朝から騒ぐし! 授業は聞かないし! 牛乳はこぼすし! 廊下は走るし! 毎日毎日毎日!」
胸の中のビー玉が一斉に飛び出していく。
「先生だって疲れるの! 先生だからって平気なわけじゃないの!」
言葉は止まらなかった。
溜め込んだ玉を投げつけるみたいに。
ひとつ残らず。
全部。
教室は静まり返った。
大地も蓮も黙っている。
加奈ははっとした。
やってしまった。
子供相手に。
教師失格だ。
そう思った瞬間――
「ごめん」
大地が言った。
「俺ら、そんな疲れさせてた?」
蓮も続く。
「先生、いつも元気そうだったから」
その声は思いのほか小さかった。
加奈は言葉を失った。
体の中を探ってみる。
あれほどあったビー玉が見当たらない。
空っぽだった。
ただ、抜けた場所に風が通るような感覚だけが残っている。
放課後。
教室の整理をしていると、机の上に小さな袋が置かれていた。
中にはビー玉が二つ。
青と緑。
そして紙切れ。
『先生へ
ストレスたまったらこれ投げていい
でも俺らじゃなくて壁にしてください
大地・蓮』
思わず吹き出した。
その拍子に肩の力が抜ける。
「ほんとにもう……」
笑いながらつぶやく。
そのとき教室の戸が開いた。
「何をそんなに楽しそうに?」
現れたのは隣のクラスの教師、高橋悠人だった。
加奈は慌ててビー玉を隠す。
「内緒です」
「へえ」
悠人は微笑む。
「でも、今日は少し顔色がいいですね」
夕陽が差し込む教室で、その笑顔を見た瞬間。
胸の奥で、ころり、と何かが転がった。
今度のビー玉は重くなかった。
むしろ、光を閉じ込めたようにきらきらしていた。
加奈はそれを追い払わず、そっと胸の中に残しておいた。




