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スナップ360  作者: 丸鶴
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5/10

扇風機

病院の裏手にある職員用の出入口から入るときも、美月の足取りは変わらなかった。

休日なのだから誰に見られても問題はない。それでも、片手に抱えた小型の扇風機が妙に目立つ気がして、廊下の角を曲がるたびに周囲を見回してしまう。

個室の前で一度だけ呼吸を整え、ノックした。

「入れ」

聞き慣れた声だった。

扉を開けると、中嶋はベッドを起こして座っていた。痩せた肩に病衣が余り、窓は半分ほど開いている。

「本当に持ってきたのか」

「先生がうるさいからです」

「空調は嫌いだ」

「知ってます」

美月は短く答え、持ち込んだ扇風機を窓際に置いた。

羽根が回り始める。

生ぬるい風が病室を巡った。

「田山花袋を思い出すな」

「またですか」

「まただ」

中嶋は目を細めた。

「お前、居残りで読まされたろう」

その一言で、美月の肩が少し下がる。

あの頃の教室。

放課後。

夕日。

原稿用紙。

文学史の補習。

そして。

誰よりも厳しかった国語教師。

「忘れてくださいよ」

「忘れん」

「私は忘れたいです」

思わず漏れた声に、自分でも少し驚く。

扇風機は同じ速度で回り続けている。

中嶋は楽しそうだった。

美月だけが昔へ引き戻されている。

あの頃の先生は大きかった。

声も大きく、歩く姿にも隙がなく、居残りを言い渡されるだけで胃が重くなった。

なのに今は。

骨ばった手がシーツの上に置かれている。

その手を見ていると、胸の奥に重たいものが沈んでいく。

窓から入る熱気も、扇風機の風も、どちらも中途半端だった。

「暑いですね」

「夏だからな」

「当たり前です」

「当たり前のことを言うな」

そのやり取りさえ、どこか昔のままだった。

だから余計に疲れる。

美月は椅子にもたれ、長く息を吐いた。

そのときだった。

「……すまん」

中嶋が視線を逸らした。

「どうしました」

「トイレに行きたい」

美月は反射的に立ち上がる。

「看護師呼びます」

「今日は休日だろう」

「それはそうですけど」

「お前がいる」

短い沈黙。

扇風機だけが回る。

美月は思わず瞬きをした。

「……転んだら困りますからね」

そう言って立ち上がった。

トイレまでの数歩。

中嶋の腕を支える。

驚くほど軽い。

少し体重を預けられただけで、昔との違いが分かってしまう。

ほんの数年前なら。

こんなふうに支える側になるなど想像もしなかった。

トイレの中はさらに蒸していた。

風は届かない。

額に汗が滲む。

美月は仕事の手順通りに介護着を整え、必要な動作を補助する。

指は迷わない。

患者相手なら何度もしていることだ。

けれど目の前にいるのは患者でありながら、中嶋でもあった。

不思議な感覚だった。

緊張しているのに、どこか別の自分が冷静に観察している。

視線の置き場を探しながら、美月は喉を鳴らした。

中嶋は俯いている。

昔なら見られなかった表情だった。

頼る側の顔。

弱さを隠せない顔。

その事実が胸の奥で形を変えていく。

戸惑いだったものが、ゆっくりと熱を帯びる。

服を整える。

腕を支える。

歩幅を合わせる。

そのたびに中嶋は美月に頼る。

美月がいなければ立てない。

美月がいなければ戻れない。

美月がいなければ。

ふと。

口元が緩みそうになった。

慌てて引き締める。

だが一度芽生えた感覚は消えなかった。

先生は私がいないとだめなんだ。

そう思った瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。

ベッドへ戻るころには、美月の足取りは軽くなっていた。

シーツを整える。

枕を直す。

扇風機の向きを変える。

窓から流れ込む夏の熱気が、回転する羽根にかき混ぜられて病室へ広がる。

中嶋は疲れたように目を閉じた。

「助かった」

珍しく素直な声だった。

美月はその言葉をしばらく味わう。

それからベッドの脇に腰を下ろした。

細くなった手を取る。

骨の感触が伝わる。

昔は恐ろしいほど大きく見えた手だった。

今は自分の掌の中に収まっている。

美月はゆっくり息を吐いた。

扇風機の風が髪を揺らす。

窓の外では蝉が鳴いていた。

「先生」

「なんだ」

美月は少しだけ身を寄せる。

そして、誰にも聞こえない声で囁いた。

「ちゃんと私を頼ってくださいね」

中嶋は目を開く。

美月は微笑んだ。

「だって先生、今は私がいないと困るでしょう?」

返事はなかった。

ただ握った手だけが、ほんの少し力を返してきた。

その温度を感じながら、美月は静かに目を細めた。

回り続ける扇風機の音が、蒸し暑い病室をゆっくり満たしていた。


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