扇風機
病院の裏手にある職員用の出入口から入るときも、美月の足取りは変わらなかった。
休日なのだから誰に見られても問題はない。それでも、片手に抱えた小型の扇風機が妙に目立つ気がして、廊下の角を曲がるたびに周囲を見回してしまう。
個室の前で一度だけ呼吸を整え、ノックした。
「入れ」
聞き慣れた声だった。
扉を開けると、中嶋はベッドを起こして座っていた。痩せた肩に病衣が余り、窓は半分ほど開いている。
「本当に持ってきたのか」
「先生がうるさいからです」
「空調は嫌いだ」
「知ってます」
美月は短く答え、持ち込んだ扇風機を窓際に置いた。
羽根が回り始める。
生ぬるい風が病室を巡った。
「田山花袋を思い出すな」
「またですか」
「まただ」
中嶋は目を細めた。
「お前、居残りで読まされたろう」
その一言で、美月の肩が少し下がる。
あの頃の教室。
放課後。
夕日。
原稿用紙。
文学史の補習。
そして。
誰よりも厳しかった国語教師。
「忘れてくださいよ」
「忘れん」
「私は忘れたいです」
思わず漏れた声に、自分でも少し驚く。
扇風機は同じ速度で回り続けている。
中嶋は楽しそうだった。
美月だけが昔へ引き戻されている。
あの頃の先生は大きかった。
声も大きく、歩く姿にも隙がなく、居残りを言い渡されるだけで胃が重くなった。
なのに今は。
骨ばった手がシーツの上に置かれている。
その手を見ていると、胸の奥に重たいものが沈んでいく。
窓から入る熱気も、扇風機の風も、どちらも中途半端だった。
「暑いですね」
「夏だからな」
「当たり前です」
「当たり前のことを言うな」
そのやり取りさえ、どこか昔のままだった。
だから余計に疲れる。
美月は椅子にもたれ、長く息を吐いた。
そのときだった。
「……すまん」
中嶋が視線を逸らした。
「どうしました」
「トイレに行きたい」
美月は反射的に立ち上がる。
「看護師呼びます」
「今日は休日だろう」
「それはそうですけど」
「お前がいる」
短い沈黙。
扇風機だけが回る。
美月は思わず瞬きをした。
「……転んだら困りますからね」
そう言って立ち上がった。
トイレまでの数歩。
中嶋の腕を支える。
驚くほど軽い。
少し体重を預けられただけで、昔との違いが分かってしまう。
ほんの数年前なら。
こんなふうに支える側になるなど想像もしなかった。
トイレの中はさらに蒸していた。
風は届かない。
額に汗が滲む。
美月は仕事の手順通りに介護着を整え、必要な動作を補助する。
指は迷わない。
患者相手なら何度もしていることだ。
けれど目の前にいるのは患者でありながら、中嶋でもあった。
不思議な感覚だった。
緊張しているのに、どこか別の自分が冷静に観察している。
視線の置き場を探しながら、美月は喉を鳴らした。
中嶋は俯いている。
昔なら見られなかった表情だった。
頼る側の顔。
弱さを隠せない顔。
その事実が胸の奥で形を変えていく。
戸惑いだったものが、ゆっくりと熱を帯びる。
服を整える。
腕を支える。
歩幅を合わせる。
そのたびに中嶋は美月に頼る。
美月がいなければ立てない。
美月がいなければ戻れない。
美月がいなければ。
ふと。
口元が緩みそうになった。
慌てて引き締める。
だが一度芽生えた感覚は消えなかった。
先生は私がいないとだめなんだ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
ベッドへ戻るころには、美月の足取りは軽くなっていた。
シーツを整える。
枕を直す。
扇風機の向きを変える。
窓から流れ込む夏の熱気が、回転する羽根にかき混ぜられて病室へ広がる。
中嶋は疲れたように目を閉じた。
「助かった」
珍しく素直な声だった。
美月はその言葉をしばらく味わう。
それからベッドの脇に腰を下ろした。
細くなった手を取る。
骨の感触が伝わる。
昔は恐ろしいほど大きく見えた手だった。
今は自分の掌の中に収まっている。
美月はゆっくり息を吐いた。
扇風機の風が髪を揺らす。
窓の外では蝉が鳴いていた。
「先生」
「なんだ」
美月は少しだけ身を寄せる。
そして、誰にも聞こえない声で囁いた。
「ちゃんと私を頼ってくださいね」
中嶋は目を開く。
美月は微笑んだ。
「だって先生、今は私がいないと困るでしょう?」
返事はなかった。
ただ握った手だけが、ほんの少し力を返してきた。
その温度を感じながら、美月は静かに目を細めた。
回り続ける扇風機の音が、蒸し暑い病室をゆっくり満たしていた。




