団扇
花火大会の会場へ向かう人の流れは、まだどこか整然としていた。
岡田かおるは左右の手に大きな団扇を持ち、人波の中を歩いていた。
隣には鷲尾先輩。
反対側には木下先輩。
二人とも浴衣姿で、楽しそうに屋台の話をしている。
「今年は人多いな」
「毎年こんなもんだろ」
そんな会話を聞きながら、かおるは一歩ずつ足を進めた。
団扇は大きい。
風を送るためというより、ほとんど盾だった。
まあ、大丈夫。
誰もそんなに他人なんか見ていない。
そう自分に言い聞かせる。
けれど胸の奥から、じわりと嫌な熱が広がってきた。
白いTシャツ。
その背中にも胸にも。
大きく、
「Washio Kinoshita Love」
と書いてある。
家を出る前は勢いだった。
絶対ウケると思った。
少なくとも可愛い暴走くらいには見えると思った。
今は違う。
「……はぁ」
小さな息が漏れる。
なんでこんなの着てきたんだろう。
団扇をもう少し高く持ち上げる。
誰か大学の友人がいたら終わりだ。
写真なんて撮られたら生きていけない。
考えれば考えるほど面倒になってくる。
もう帰りたい。
花火は見たい。
でもこのTシャツは見られたくない。
歩く。
隠す。
歩く。
隠す。
同じことの繰り返しだ。
「かおる?」
鷲尾が振り向く。
「ん?」
「暑そうだけど大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!」
思わず声が裏返った。
団扇を握る指に力が入る。
二人は気づいていない。
気づいていないはずだ。
そう思うほど落ち着かなくなる。
胸元は隠せているだろうか。
背中は見えていないだろうか。
人とぶつかるたびに団扇の角度がずれる。
そのたびに心臓が跳ねる。
前から来た集団を避けようとして、
右の団扇が鷲尾に当たり、
慌てて引けば左の団扇が木下に当たった。
「あ、ごめんなさい!」
「おっと」
「大丈夫大丈夫」
二人は笑う。
かおるだけが笑えない。
顔が熱い。
どっちを隠せばいいのか分からない。
前か。
背中か。
右か。
左か。
団扇は二枚しかない。
人は四方八方にいる。
もう何が正解なのか分からなくなってきた。
けれど会場が近づくにつれ、空気が変わった。
屋台の灯り。
子供たちの声。
遠くから聞こえる打ち上げ準備のアナウンス。
不思議と足取りが軽くなる。
「見えてきたぞ」
木下が堤防を指さす。
「急ごう」
気づけばかおるは先頭に立っていた。
団扇を振り回しながら人の隙間を見つけ、
「あっち空いてます!」
と二人を呼ぶ。
さっきまでの重たい気分が少しずつ薄れていく。
二人と一緒にいる。
それだけで嬉しい。
堤防へ上がる坂道を駆けるように進む。
やがて土手沿いへ出た。
視界が一気に開ける。
川面の向こうに夜空が広がっている。
その瞬間。
一発目の花火が上がった。
轟音。
続いて咲く大輪の光。
「わぁ……!」
思わず声が漏れる。
胸がいっぱいになる。
赤。
青。
金。
次々と夜空を埋める光。
鷲尾も見上げている。
木下も見上げている。
二人の横顔が花火に照らされる。
綺麗だった。
花火よりも。
そう思ってしまうくらいに。
鼓動が速い。
息が浅い。
もっと近くにいたい。
今だけでいい。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
気づけば手が動いていた。
団扇が指から離れる。
一枚。
もう一枚。
草の上へ落ちる。
「ん?」
木下がこちらを見る。
かおるは答えなかった。
右手で鷲尾の手を。
左手で木下の手を。
ぎゅっと握る。
二人とも驚いた顔をした。
けれど振り払わなかった。
花火の音が続く。
夜風が吹く。
握った手の温かさが伝わる。
胸の中で暴れていたものが、少しずつ静かになっていく。
「あったかいですね」
自分でも変な言葉だと思った。
けれど二人は笑った。
「そうだな」
「風は涼しいけどな」
その返事を聞いて、かおるも笑う。
もうTシャツのことなんてどうでもよかった。
落ちた団扇が足元で揺れている。
夜空には大きな花火。
左右には大好きな二人。
その真ん中で、かおるはそっと息を吐いた。
長く。
ゆっくりと。
まるで一晩中抱えていたものを手放すように。




