巾着
研究室の窓から、夕暮れの光が長く床を舐めていた。
高橋は論文を閉じ、机の上を片付け始める。
「帰るか。」
誰に言うでもない独り言だった。
今日は実験も予定どおり終わった。データも悪くない。冷静な一日だった。
なのに、机の隅に置かれた小さな布袋が目に入ると、気分だけが少し沈んだ。
金糸で刺繍された文字。
**『観自在先輩』**
……あれは、佐藤郁の悪ふざけだ。
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神社のお守り袋そっくりの小さな巾着を差し出してきた日のことを思い出す。
「持っててよ。」
「何これ。」
「お守り。」
「違うだろ。」
「お守り**風**。」
「風か。」
「財布に入れてても恥ずかしくないでしょ。」
そう言って笑っていた。
財布に入れて持ち歩け。
つまりそういうことらしい。
「……生意気。」
呟きながら、高橋は巾着を指先でつついた。
そういうところが妙に可愛いから困る。
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翌朝。
高橋はいつものように研究室へ向かう前、駐車場で車を見上げた。
そして、小さく笑う。
「よし。」
ルームミラーに結びつけられた赤い巾着が、朝日に揺れていた。
交通安全のお守りよろしく。
観自在先輩。
「財布なんかに入れるか。」
誰に聞かせるでもなく呟き、エンジンをかける。
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昼休み。
「裕君ー。」
研究室の窓から郁が顔を出した。
「昼行きません?」
「ああ。」
二人で駐車場へ向かう。
何でもない会話。
何でもない昼。
……のはずだった。
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郁が助手席側へ回った瞬間。
動きが止まった。
「…………。」
視線が上へ。
ルームミラー。
赤い巾着。
金糸。
『観自在先輩』
「…………。」
「…………。」
長い沈黙。
高橋は平然と鍵を開ける。
「乗れ。」
郁は乗らない。
「あの。」
「何だ。」
「あれ。」
「見れば分かる。」
「いやそうじゃなくて。」
「持ち歩いてる。」
「そういう意味じゃないんですよ!」
声が一段高くなった。
高橋はようやく笑った。
「財布じゃ窮屈だろ。」
「そういう問題じゃありません!」
「ちゃんと交通安全だ。」
「違います!」
「研究安全にもなる。」
「なりません!」
郁は真っ赤な顔で背伸びし、巾着を外そうと手を伸ばす。
届かない。
「裕君!」
「ん?」
「外してよ!」
「嫌だ。」
「嫌じゃないよ!」
「せっかく作ってくれたんだ。」
「だからって!」
「毎日見える。」
「見ないでください!」
「無理だ。」
高橋はあっさり答える。
「車に乗るたび見える。」
「…………。」
「嬉しい。」
その一言で。
郁は完全に黙った。
伸ばしていた腕が止まり、視線だけが泳ぐ。
耳まで赤い。
「…………。」
「…………。」
しばらくして、小さく息を吐く。
「……もう。」
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諦めたように助手席へ乗り込む。
シートベルトを締めても、信号待ちになるたび、視界の端で赤い巾着が揺れる。
見るたびに目を伏せる。
見るたびに頬が熱くなる。
その様子を横目で見ている高橋は、何も言わずハンドルを握っていた。
ただ一度だけ。
信号が青に変わる直前。
口元だけが少し緩んだ。
郁はその笑みを見逃さなかった。
「……ユウ君。」
「何だ。」
「性格悪いよ。」
「知ってる。」
車は静かに走り出す。
ルームミラーの下で、『観自在先輩』の小さな巾着が、二人の揺れに合わせてゆっくりと揺れていた。




