水着
倉庫街の朝は、海の匂いがした。
錆びたシャッターが半分だけ開き、そこから白い光がコンクリートの床へ長く差し込んでいる。
「岡田さん、バイクここで止めてもらえます?」
スタッフに案内され、かおるは愛車をスタンドに掛けた。
ローンがまだたっぷり残っている、人生で一番高い買い物。
表紙モデルに選ばれたと聞いたときは、正直、意味が分からなかった。
(私……コスプレ写真は上げてるけど、グラビアなんてやったことないし……。)
更衣室で渡されたのは、夏号らしいスポーティーな水着と、メッシュのライダースジャケット。
鏡を見る。
「……思ったより、悪くない?」
反り腰気味の姿勢のおかげで妙にスタイルだけは良く見える。
SNSのフォロワーが「脚長い」「尻きれい」と騒ぐ理由が、少しだけ分かった気がした。
「岡田さん、準備いいですか?」
「は、はい!」
スタジオへ戻ると、一人の男がカメラを組み立てていた。
三十代半ばだろうか。
日に焼けた腕。
首には使い込まれたカメラ。
編集長が紹介する。
「こちら、今日のカメラマン。木下鷹雄さん。」
「よろしくお願いします。」
木下は顔を上げた。
そして。
視線が止まった。
……
…………。
「木下さん?」
編集長が首をかしげる。
木下は返事をしない。
いや、できない。
(嘘だろ。)
胸が苦しい。
喉が乾く。
目の前にあるのは、一台の黒い中型バイク。
その隣に立つ黒髪の女の子。
(このバイク……。)
(この子だ。)
間違えるはずがなかった。
あの日。
町外れのコンビニ。
偶然、信号待ちで見かけた一人のライダー。
何が起きていたのかは本人にとって一生忘れたい黒歴史だったろう。
木下も、その出来事そのものより、「必死になって顔を真っ赤にしていた女の子」の姿を忘れられなかった。
思わずシャッターを切った。
職業病だった。
写真は逆光で、ナンバープレートはぶれ、人物も小さい。
誰なのか分からない。
名前も住所も分からない。
なのに。
その一枚だけが、一週間、頭から離れなかった。
仕事をしていても。
飯を食っていても。
寝ようとしても。
(あの子、誰だったんだろう。)
そう思い続けていた。
そして今日。
編集部から送られてきたモデルの名前なんて、覚えていなかった。
現場へ来て。
バイクを見て。
本人を見て。
全部がつながった。
(見つけた。)
「木下さん?」
編集長がもう一度呼ぶ。
「あ、ああ……すみません。」
プロだ。
仕事だ。
切り替えろ。
木下は深呼吸した。
「じゃあ、撮影始めましょう。」
「右肩だけ少し抜いて。」
「はい。」
「顎を五ミリ上。」
「ご、ごみり?」
「そのくらい。」
カシャ。
「目線だけ海。」
カシャ。
「笑わなくていい。」
カシャ。
「そのまま。」
カシャ。
木下は驚いていた。
ファインダー越しの彼女は、不思議なくらい絵になった。
作っている笑顔ではない。
緊張しているのに、どこか芯が強い。
バイクにまたがる姿は、モデルというより、本当に乗る人間の重心だった。
「いい。」
思わず声が漏れる。
かおるが赤くなる。
「え?」
「いや……すみません。」
編集長が笑う。
「木下さん、珍しいですね。そんな声出すの。」
「……。」
木下は誤魔化すしかなかった。
昼休憩。
スタッフが弁当を配り始める。
かおるはスポーツドリンクを飲みながら海を眺めていた。
木下が隣へ来る。
「岡田さん。」
「はい?」
少し沈黙。
木下は苦笑した。
「……やっと見つけた。」
「え?」
「ずっと探してた。」
「…………はい?」
かおるは瞬きを繰り返す。
「えっと……どこかで会いました?」
「会ってはいない。」
「ですよね。」
「見かけただけ。」
「え?」
「去年。」
その瞬間。
木下が、ある交差点の名前を口にした。
かおるの顔色が変わる。
「……え。」
さらに近くのコンビニ名。
「…………。」
最後に。
「黒いバイクで。」
世界が止まった。
(うそ。)
(うそ、うそ、うそ。)
(まさか。)
「あ。」
全部思い出した。
人生から抹消したかった、あの日。
「え。」
「え。」
「えええええええええええっ!?」
スタジオ中に響いた。
スタッフ全員が振り返る。
「ど、ど、ど、どうして知ってるんですかぁぁぁ!?」
「見かけた。」
「見かけただけ!?」
「うん。」
「写真とか!」
「撮った。」
「えええええっ!?」
「でも人物もナンバーも全部ぶれてる。」
「そこじゃなーーーーい!!」
頭を抱えてしゃがみ込むかおる。
耳まで真っ赤だった。
「終わった……。」
「終わってない。」
「私の人生終わった……。」
「終わってない。」
「黒歴史を唯一知る人がカメラマンとか聞いてない……。」
木下は困ったように笑った。
「ごめん。」
「ごめんじゃないです!」
「でも。」
一拍置いて。
「本当に、あの日から気になってた。」
「……。」
「名前も知らなかった。」
「……。」
「だから今日、バイクを見た瞬間、分かった。」
かおるはゆっくり顔を上げた。
そこにいたのは、からかう男ではなかった。
ようやく長年探していた落とし物を見つけたような、どうしようもなく嬉しそうな顔をした男だった。
その表情を見た瞬間。
怒るタイミングを、完全に失った。
「……ずるい。」
「え?」
「そんな顔されたら、怒れないじゃないですか。」
編集長が遠くから声をかける。
「岡田さーん! 午後の撮影いきまーす!」
「はーい!」
立ち上がったかおるは、まだ頬を赤くしたまま木下を睨んだ。
「あとで詳しく聞きますから。」
「はい。」
「逃げないでください。」
「逃げない。」
「約束ですよ。」
「約束。」
午後の撮影で、編集長は首をかしげた。
「不思議だなぁ。」
「何がです?」
スタッフが聞く。
「午前より二人とも自然なんだよ。」
ファインダーの中では。
照れている二人が、一番いい表情をしていた。




