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スナップ360  作者: 丸鶴
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16/23

浴衣

朝の空気はまだ少し涼しかった。

アパートの前でヘルメットを被りながら、岡田かおるは深呼吸をひとつする。

今日の行き先は湯原温泉。

ショップ主催のツーリングイベントで、自分の名前を冠した「かおるツーリング」の第三回だった。

雑誌モデルになって半年。

参加者の前で挨拶をすることにも、写真を撮られることにも慣れてきた。

慣れてきた、というだけで、得意になったわけではない。

それでも昔の自分なら、人前に立つことすら考えられなかった。

「じゃあ、出発!」

店長の声に頷き、エンジンをかける。

乾いた排気音が朝の空へ溶けていった。


山道を走り続けるうちに、心は少しずつ空っぽになる。

コーナーをひとつ、またひとつ。

考え事をする余裕もなく、視線は路面だけを追う。

この時間が好きだった。

誰かと走っていても、一人で走っているような静けさがある。

昼前、湯原へ到着した。

「一時間半くらい自由時間!」

店長の声で、参加者たちは温泉へ向かったり、土産物屋へ歩き出したりする。

「かおるちゃん、ちょっと。」

スタッフに呼ばれ、女性用の更衣室へ案内される。

「え?」

袋を渡される。

開くと、中には淡い藍色の浴衣。

「え?」

もう一度、同じ声が出た。

「せっかく温泉地まで来たんだからさ。雑誌の撮影もあるし。」

「聞いてません……。」

「サプライズ。」

「サプライズされる側なんですけど。」

スタッフは笑うだけだった。


「……。」

鏡の前に立つ。

浴衣なんて、高校の文化祭以来かもしれない。

帯を締めてもらい、髪を少し整えられる。

鏡の中にいるのは、自分なのに、自分ではない誰かみたいだった。

(絶対、恥ずかしい。)

(みんな笑う。)

(やっぱりやめたい。)

胸の奥がざわつく。

逃げたい。

でもイベントの顔は自分だ。

今さら「無理です」とは言えない。

「行こっか。」

襖が開く。


店長が大きな声を上げた。

「みんなー! ちょっと注目!」

参加者が一斉に振り向く。

(無理……。)

足が止まる。

「ほら。」

背中を軽く押された。

一歩。

また一歩。

視線が集まる。

頭が真っ白になった。

次の瞬間。

「おおーー!」

拍手だった。

「似合ってる!」

「かわいい!」

「雑誌よりいいじゃん!」

「温泉来て正解だった!」

笑い声。

シャッター音。

誰も笑っていない。

笑われているんじゃない。

喜んでいる。

「……え?」

思わず口から漏れた。

店長が小さく笑う。

「だから言ったろ。」


そのあとは忙しかった。

旅館の縁側。

川沿いの遊歩道。

橋の上。

「こっち向いてー!」

「そのまま笑って!」

「みんなで一枚!」

参加者のおじさんが、

「娘と同じくらいなんだけどねぇ。」

と照れくさそうに話しかけてくる。

若いライダーは、

「また来年もやってください!」

とはしゃいでいる。

いつの間にか、自分も笑っていた。

「そこ、そんなに急がなくても。」

「転びますよ?」

「写真ならあとで送りますね。」

言葉が自然に出る。

人と話すのが怖かった自分は、どこへ行ったのだろう。


帰る前。

カメラマンが液晶を見せてくれた。

「今日のベスト。」

そこに写っていたのは浴衣姿だった。

でも、自分が見たのは浴衣ではなかった。

参加者に囲まれて笑っている、自分の顔だった。

肩の力が抜けている。

作り笑いではない。

画面の中の自分は、本当に楽しそうだった。

「……私。」

「うん?」

「こんな顔、するんですね。」

カメラマンは少し考えてから答えた。

「いや。」

「みんながそういう顔にしたんだよ。」

胸の奥が熱くなる。

ヘルメットの中でしか隠れていなかった自分を、少しずつ外へ連れ出してくれた人たち。

バイクが道を広げてくれた。

そして今日は、一枚の浴衣が、人との距離を縮めてくれた。


夕暮れ。

浴衣を脱ぎ、いつものライディングウェアに袖を通す。

革の感触が妙に懐かしい。

バイクにまたがり、エンジンを始動する。

店長が親指を立てた。

「お疲れ、看板娘。」

かおるは照れ笑いを浮かべる。

「……浴衣って、疲れるんですね。」

「そう?」

「でも。」

少しだけ空を見上げる。

茜色に染まる山並み。

川面を渡る風。

さっきまで浴衣の袖を揺らしていた風が、今はジャケットの裾を揺らしている。

「また着ても、いいかもしれません。」

そう言ってヘルメットをかぶると、誰にも見えないところで、小さく笑った。

その笑顔は、もう誰かに見せるためのものではなかった。


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