浴衣
朝の空気はまだ少し涼しかった。
アパートの前でヘルメットを被りながら、岡田かおるは深呼吸をひとつする。
今日の行き先は湯原温泉。
ショップ主催のツーリングイベントで、自分の名前を冠した「かおるツーリング」の第三回だった。
雑誌モデルになって半年。
参加者の前で挨拶をすることにも、写真を撮られることにも慣れてきた。
慣れてきた、というだけで、得意になったわけではない。
それでも昔の自分なら、人前に立つことすら考えられなかった。
「じゃあ、出発!」
店長の声に頷き、エンジンをかける。
乾いた排気音が朝の空へ溶けていった。
山道を走り続けるうちに、心は少しずつ空っぽになる。
コーナーをひとつ、またひとつ。
考え事をする余裕もなく、視線は路面だけを追う。
この時間が好きだった。
誰かと走っていても、一人で走っているような静けさがある。
昼前、湯原へ到着した。
「一時間半くらい自由時間!」
店長の声で、参加者たちは温泉へ向かったり、土産物屋へ歩き出したりする。
「かおるちゃん、ちょっと。」
スタッフに呼ばれ、女性用の更衣室へ案内される。
「え?」
袋を渡される。
開くと、中には淡い藍色の浴衣。
「え?」
もう一度、同じ声が出た。
「せっかく温泉地まで来たんだからさ。雑誌の撮影もあるし。」
「聞いてません……。」
「サプライズ。」
「サプライズされる側なんですけど。」
スタッフは笑うだけだった。
「……。」
鏡の前に立つ。
浴衣なんて、高校の文化祭以来かもしれない。
帯を締めてもらい、髪を少し整えられる。
鏡の中にいるのは、自分なのに、自分ではない誰かみたいだった。
(絶対、恥ずかしい。)
(みんな笑う。)
(やっぱりやめたい。)
胸の奥がざわつく。
逃げたい。
でもイベントの顔は自分だ。
今さら「無理です」とは言えない。
「行こっか。」
襖が開く。
店長が大きな声を上げた。
「みんなー! ちょっと注目!」
参加者が一斉に振り向く。
(無理……。)
足が止まる。
「ほら。」
背中を軽く押された。
一歩。
また一歩。
視線が集まる。
頭が真っ白になった。
次の瞬間。
「おおーー!」
拍手だった。
「似合ってる!」
「かわいい!」
「雑誌よりいいじゃん!」
「温泉来て正解だった!」
笑い声。
シャッター音。
誰も笑っていない。
笑われているんじゃない。
喜んでいる。
「……え?」
思わず口から漏れた。
店長が小さく笑う。
「だから言ったろ。」
そのあとは忙しかった。
旅館の縁側。
川沿いの遊歩道。
橋の上。
「こっち向いてー!」
「そのまま笑って!」
「みんなで一枚!」
参加者のおじさんが、
「娘と同じくらいなんだけどねぇ。」
と照れくさそうに話しかけてくる。
若いライダーは、
「また来年もやってください!」
とはしゃいでいる。
いつの間にか、自分も笑っていた。
「そこ、そんなに急がなくても。」
「転びますよ?」
「写真ならあとで送りますね。」
言葉が自然に出る。
人と話すのが怖かった自分は、どこへ行ったのだろう。
帰る前。
カメラマンが液晶を見せてくれた。
「今日のベスト。」
そこに写っていたのは浴衣姿だった。
でも、自分が見たのは浴衣ではなかった。
参加者に囲まれて笑っている、自分の顔だった。
肩の力が抜けている。
作り笑いではない。
画面の中の自分は、本当に楽しそうだった。
「……私。」
「うん?」
「こんな顔、するんですね。」
カメラマンは少し考えてから答えた。
「いや。」
「みんながそういう顔にしたんだよ。」
胸の奥が熱くなる。
ヘルメットの中でしか隠れていなかった自分を、少しずつ外へ連れ出してくれた人たち。
バイクが道を広げてくれた。
そして今日は、一枚の浴衣が、人との距離を縮めてくれた。
夕暮れ。
浴衣を脱ぎ、いつものライディングウェアに袖を通す。
革の感触が妙に懐かしい。
バイクにまたがり、エンジンを始動する。
店長が親指を立てた。
「お疲れ、看板娘。」
かおるは照れ笑いを浮かべる。
「……浴衣って、疲れるんですね。」
「そう?」
「でも。」
少しだけ空を見上げる。
茜色に染まる山並み。
川面を渡る風。
さっきまで浴衣の袖を揺らしていた風が、今はジャケットの裾を揺らしている。
「また着ても、いいかもしれません。」
そう言ってヘルメットをかぶると、誰にも見えないところで、小さく笑った。
その笑顔は、もう誰かに見せるためのものではなかった。




