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スナップ360  作者: 丸鶴
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14/19

笹舟

 ホテルの部屋を出る前、郁はノートパソコンを閉じ、発表スライドをもう一度だけ見返した。

 誤字はない。図表の番号も揃っている。質疑で聞かれそうな点は頭の中で何度か反芻した。隣で高橋がベッドに腰掛け、スマートフォンを弄びながら笑う。

「まだ見るの?」

「癖だから」

 自分でも肩をすくめる。完璧にしても不安は消えない。なら、確認だけはしておく。

「九份なんて逃したら後悔するよ。」

「学会をさぼったことの方を後悔しそうだけど。」

「半日くらい大丈夫。」

 そう言われて、小さく息を吐いた。

 窓の外では台湾の午後が白く霞み、雨上がりの街が鈍く光っていた。

 学会を半日抜け出すなんて柄じゃない。

 そう思いながらも、高橋の後を追って部屋を出た。

 列車の窓には、濃すぎるほどの緑が流れていく。

 額をガラスへ預けると、湿った風がわずかに入り込んだ。

 青い匂い。

 竹とも草ともつかない。

 胸の奥で何かがかすかに動いた。

 息を吸い直す前に、そっと窓から離れる。

「眠い?」

「少し。」

 そう答えて目を閉じる。

 眠いわけではなかった。

 理由もなく、胸のあたりが重かった。

 九份の石段は思ったより急だった。

「学会より体力使うかも。」

「運動不足。」

 高橋が笑う。

 郁も笑い返したが、足取りはどこか緩慢だった。

 人波に流され、土産物屋を覗き、赤い提灯の列を眺める。

 景色は美しい。

 写真も撮った。

 なのに心だけが景色へ追いつかない。

 早くホテルへ戻って、スライドでも見直そうか。

 そんなことを考える自分が、少し嫌だった。

 ランタンへ願いを書く番が来る。

「何にする?」

「査読通過。」

「夢が現実的すぎる。」

「実験成功も書く?」

「欲張り。」

 ようやく少し笑う。

 筆先が紙を滑り、墨がじわりと滲む。

 係員がランタンを差し出した。

 竹の骨組みは思ったより節ばっていて、紙越しにもざらりとした感触が伝わる。

 受け取った瞬間、掌の奥が小さく疼いた。

 ――ごつごつした手だった。

 暗くなり始めた川縁。

「落ちるなよ。」

 低い声だけが先に聞こえ、次の瞬間、手首をぐっと掴まれる。

 少し痛いくらいに節の硬い指。

 そのまま土手を下りる。

 草が脛を撫で、水の音が近づいてくる。

 叔父はしゃがみ込み、笹を二、三枚折ると、迷いなく舟を作った。

「見てろ。」

 水へ置く。

 笹舟はくるりと向きを変え、夕暮れ色の流れへ乗った。

 郁も真似をする。

 折り目の甘い舟はすぐ傾いた。

「まあ、それでも流れる。」

 叔父は笑った。

 煙草を咥え、ライターを鳴らす。

 カチリ。

 橙色の火が一瞬だけ横顔を照らした。

 煙草の匂いは嫌いだった。

 でも、その火の温かさだけは、不思議と安心した。

「せーので放してください。」

 係員の声が耳へ落ちる。

 我に返る。

 ランタンの口元では炎が静かに揺れていた。

 赤い紙の中で呼吸をしているみたいだった。

 熱が指先へ伝わる。

 ライターも、このくらい熱かった。

 違う。

 思い出さなくていい。

 今じゃない。

 胸の奥を細い棘で何度も刺される。

 隣では高橋が何か楽しそうに係員と話している。

「郁?」

 名前を呼ばれる。

「あ……ごめん。」

 二人で同時に手を放した。

 ランタンはふわりと浮かび、夜空へ吸い込まれていく。

「わあ……。」

 思わず声が漏れた。

 一つ。

 また一つ。

 赤や黄色の灯が空を埋めていく。

 さっきまで胸を刺していたものが、少しずつほどけていく。

「高橋、ほら、あっち。」

 袖を引く。

「あんな高く。」

「写真、写真!」

「待って待って。」

 気がつけば笑っていた。

 夢中で空を見上げ、子どものように指を差していた。

 願いは風に乗り、夜空へ昇っていく。

 その美しさだけは、何にも代えられなかった。

 帰り道は坂をゆっくり下る。

 夜風が汗をさらい、熱を静かに奪っていく。

 郁は珍しく、自分から高橋の腕へ肩を寄せた。

「疲れた?」

「……うん。」

 半分だけ本当だった。

 いつもなら、このあたりで発表の話を始める。

「最後のスライド、少し直そうかな。」

「質疑は英語で二通り考えておこうかな。」

 そんな言葉が口をついて出るはずなのに。

 今日は、何も浮かばない。

 ただ、小さく息を吐く。

 高橋の体温が、夜風より少しだけ温かかった。

「ランタン、そんなによかった?」

「うん。」

 郁は笑う。

 嘘ではない。

 けれど、本当の全部でもない。

 空へ昇っていく灯を見上げながら、胸のどこかでは、あの日の笹舟が、いまも静かな流れに身を任せていた。

 そのことだけは、誰にも話さなかった。


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