笹舟
ホテルの部屋を出る前、郁はノートパソコンを閉じ、発表スライドをもう一度だけ見返した。
誤字はない。図表の番号も揃っている。質疑で聞かれそうな点は頭の中で何度か反芻した。隣で高橋がベッドに腰掛け、スマートフォンを弄びながら笑う。
「まだ見るの?」
「癖だから」
自分でも肩をすくめる。完璧にしても不安は消えない。なら、確認だけはしておく。
「九份なんて逃したら後悔するよ。」
「学会をさぼったことの方を後悔しそうだけど。」
「半日くらい大丈夫。」
そう言われて、小さく息を吐いた。
窓の外では台湾の午後が白く霞み、雨上がりの街が鈍く光っていた。
学会を半日抜け出すなんて柄じゃない。
そう思いながらも、高橋の後を追って部屋を出た。
列車の窓には、濃すぎるほどの緑が流れていく。
額をガラスへ預けると、湿った風がわずかに入り込んだ。
青い匂い。
竹とも草ともつかない。
胸の奥で何かがかすかに動いた。
息を吸い直す前に、そっと窓から離れる。
「眠い?」
「少し。」
そう答えて目を閉じる。
眠いわけではなかった。
理由もなく、胸のあたりが重かった。
九份の石段は思ったより急だった。
「学会より体力使うかも。」
「運動不足。」
高橋が笑う。
郁も笑い返したが、足取りはどこか緩慢だった。
人波に流され、土産物屋を覗き、赤い提灯の列を眺める。
景色は美しい。
写真も撮った。
なのに心だけが景色へ追いつかない。
早くホテルへ戻って、スライドでも見直そうか。
そんなことを考える自分が、少し嫌だった。
ランタンへ願いを書く番が来る。
「何にする?」
「査読通過。」
「夢が現実的すぎる。」
「実験成功も書く?」
「欲張り。」
ようやく少し笑う。
筆先が紙を滑り、墨がじわりと滲む。
係員がランタンを差し出した。
竹の骨組みは思ったより節ばっていて、紙越しにもざらりとした感触が伝わる。
受け取った瞬間、掌の奥が小さく疼いた。
――ごつごつした手だった。
暗くなり始めた川縁。
「落ちるなよ。」
低い声だけが先に聞こえ、次の瞬間、手首をぐっと掴まれる。
少し痛いくらいに節の硬い指。
そのまま土手を下りる。
草が脛を撫で、水の音が近づいてくる。
叔父はしゃがみ込み、笹を二、三枚折ると、迷いなく舟を作った。
「見てろ。」
水へ置く。
笹舟はくるりと向きを変え、夕暮れ色の流れへ乗った。
郁も真似をする。
折り目の甘い舟はすぐ傾いた。
「まあ、それでも流れる。」
叔父は笑った。
煙草を咥え、ライターを鳴らす。
カチリ。
橙色の火が一瞬だけ横顔を照らした。
煙草の匂いは嫌いだった。
でも、その火の温かさだけは、不思議と安心した。
「せーので放してください。」
係員の声が耳へ落ちる。
我に返る。
ランタンの口元では炎が静かに揺れていた。
赤い紙の中で呼吸をしているみたいだった。
熱が指先へ伝わる。
ライターも、このくらい熱かった。
違う。
思い出さなくていい。
今じゃない。
胸の奥を細い棘で何度も刺される。
隣では高橋が何か楽しそうに係員と話している。
「郁?」
名前を呼ばれる。
「あ……ごめん。」
二人で同時に手を放した。
ランタンはふわりと浮かび、夜空へ吸い込まれていく。
「わあ……。」
思わず声が漏れた。
一つ。
また一つ。
赤や黄色の灯が空を埋めていく。
さっきまで胸を刺していたものが、少しずつほどけていく。
「高橋、ほら、あっち。」
袖を引く。
「あんな高く。」
「写真、写真!」
「待って待って。」
気がつけば笑っていた。
夢中で空を見上げ、子どものように指を差していた。
願いは風に乗り、夜空へ昇っていく。
その美しさだけは、何にも代えられなかった。
帰り道は坂をゆっくり下る。
夜風が汗をさらい、熱を静かに奪っていく。
郁は珍しく、自分から高橋の腕へ肩を寄せた。
「疲れた?」
「……うん。」
半分だけ本当だった。
いつもなら、このあたりで発表の話を始める。
「最後のスライド、少し直そうかな。」
「質疑は英語で二通り考えておこうかな。」
そんな言葉が口をついて出るはずなのに。
今日は、何も浮かばない。
ただ、小さく息を吐く。
高橋の体温が、夜風より少しだけ温かかった。
「ランタン、そんなによかった?」
「うん。」
郁は笑う。
嘘ではない。
けれど、本当の全部でもない。
空へ昇っていく灯を見上げながら、胸のどこかでは、あの日の笹舟が、いまも静かな流れに身を任せていた。
そのことだけは、誰にも話さなかった。




