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スナップ360  作者: 丸鶴
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13/19

朝の光は、まだ私まで届いていなかった。

箱の蓋が開く。

細い指が私を包む。

何度も夢に見た温度だったはずなのに、いざ触れられると、私はただ硬く息を潜めるしかなかった。

硯が待っている。

墨池には、透明な水。

あれは私ではない。

まだ。

私は静かに墨堂へ降ろされる。


最初のひと擦り。

石は冷たかった。

私の角が、ほんのわずかに削れる。

さらり。

それだけの音。

私はまだ私のままだ。

黒は見えない。

何も変わっていないようで、角だけがほんの少し丸くなった。

もう二度と、昨日の私には戻れない。

その小さな違いだけが、石を通して伝わってくる。


また擦られる。

円を描く。

もう一度。

もう一度。

まだ水は澄んだままだ。

削れた私だけが墨堂に薄く積もり、どこへも行けずに湿っている。

息を吐くように削れ、

吸われることもなく留まり、

また削れる。

どこまで続くのだろう。

石の冷たさだけが、同じ場所にあり続けた。


不意に。

一粒が転がる。

丘を越え、

鋒鋩を滑り、

透明な水へ触れた。

黒が、ほどける。

私はそこにいた。

いや。

もう私はそこにしかいなかった。

次のひと擦りで、

また一人。

その次でもう一人。

私が少しずつ私ではなくなっていく。

どちらが私なのか、

考えている間にも、

黒は水の中で細く尾を引いていた。


円は速くなる。

石の肌が近づいたり遠ざかったりする。

削れた私たちは渦を巻き、

重なり、

離れ、

また混ざる。

墨池はもう透明を覚えていない。

墨堂にも私がいる。

水の中にも私がいる。

角を持つ私もまだいる。

息を吸うたび、

誰かが増え、

誰かが遠ざかっていく。

私という名前が、少しだけ窮屈になる。


やがて穂先が降りてくる。

柔らかな毛が私たちを抱き上げる。

腹へ。

命毛へ。

穂先へ。

私は流れていく。

いや、

私たちは流れていく。

細い毛の一本一本に寄り添い、

揺れ、

集まり、

紙の近くまで運ばれる。

こんな高さは初めてだった。

窓の光が揺れる。

白が待っている。

胸の奥で、小さな波紋が次々と重なっていく。


紙へ触れる。

私は白へ沈む。

穂先が進むたび、

私も進む。

腹に残っていた仲間たちも続く。

一本の線になる。

一つの点になる。

払われ、

止まり、

跳ねる。

もう私だけでは描けない。

筆だけでも描けない。

紙だけでも描けない。

それでも確かに、

この黒は私だった。

私は線の中へ吸い込まれ、

なおも穂の中に残り、

硯の水面にも揺れていた。

どれが私なのか、

もう数えられない。

それが少し嬉しかった。


書き終える。

筆は洗われる。

硯にも水が注がれる。

机の隅へ、小さな飛沫がひとつ跳ねる。

彼女の親指の爪に、黒い半月が残る。

半紙には文字。

筆には艶。

硯には薄い香り。

水は静かに流れていく。

私は、どこへ行ったのだろう。

そう思って見渡せば、

どこにもいない代わりに、

どこにでもいた。

私という一本は、

もう見つからない。

けれど部屋じゅうが、

かすかに私の匂いをしていた。


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