墨
朝の光は、まだ私まで届いていなかった。
箱の蓋が開く。
細い指が私を包む。
何度も夢に見た温度だったはずなのに、いざ触れられると、私はただ硬く息を潜めるしかなかった。
硯が待っている。
墨池には、透明な水。
あれは私ではない。
まだ。
私は静かに墨堂へ降ろされる。
最初のひと擦り。
石は冷たかった。
私の角が、ほんのわずかに削れる。
さらり。
それだけの音。
私はまだ私のままだ。
黒は見えない。
何も変わっていないようで、角だけがほんの少し丸くなった。
もう二度と、昨日の私には戻れない。
その小さな違いだけが、石を通して伝わってくる。
また擦られる。
円を描く。
もう一度。
もう一度。
まだ水は澄んだままだ。
削れた私だけが墨堂に薄く積もり、どこへも行けずに湿っている。
息を吐くように削れ、
吸われることもなく留まり、
また削れる。
どこまで続くのだろう。
石の冷たさだけが、同じ場所にあり続けた。
不意に。
一粒が転がる。
丘を越え、
鋒鋩を滑り、
透明な水へ触れた。
黒が、ほどける。
私はそこにいた。
いや。
もう私はそこにしかいなかった。
次のひと擦りで、
また一人。
その次でもう一人。
私が少しずつ私ではなくなっていく。
どちらが私なのか、
考えている間にも、
黒は水の中で細く尾を引いていた。
円は速くなる。
石の肌が近づいたり遠ざかったりする。
削れた私たちは渦を巻き、
重なり、
離れ、
また混ざる。
墨池はもう透明を覚えていない。
墨堂にも私がいる。
水の中にも私がいる。
角を持つ私もまだいる。
息を吸うたび、
誰かが増え、
誰かが遠ざかっていく。
私という名前が、少しだけ窮屈になる。
やがて穂先が降りてくる。
柔らかな毛が私たちを抱き上げる。
腹へ。
命毛へ。
穂先へ。
私は流れていく。
いや、
私たちは流れていく。
細い毛の一本一本に寄り添い、
揺れ、
集まり、
紙の近くまで運ばれる。
こんな高さは初めてだった。
窓の光が揺れる。
白が待っている。
胸の奥で、小さな波紋が次々と重なっていく。
紙へ触れる。
私は白へ沈む。
穂先が進むたび、
私も進む。
腹に残っていた仲間たちも続く。
一本の線になる。
一つの点になる。
払われ、
止まり、
跳ねる。
もう私だけでは描けない。
筆だけでも描けない。
紙だけでも描けない。
それでも確かに、
この黒は私だった。
私は線の中へ吸い込まれ、
なおも穂の中に残り、
硯の水面にも揺れていた。
どれが私なのか、
もう数えられない。
それが少し嬉しかった。
書き終える。
筆は洗われる。
硯にも水が注がれる。
机の隅へ、小さな飛沫がひとつ跳ねる。
彼女の親指の爪に、黒い半月が残る。
半紙には文字。
筆には艶。
硯には薄い香り。
水は静かに流れていく。
私は、どこへ行ったのだろう。
そう思って見渡せば、
どこにもいない代わりに、
どこにでもいた。
私という一本は、
もう見つからない。
けれど部屋じゅうが、
かすかに私の匂いをしていた。




