硯
彼女は正座をしていた。
午前の光が障子を透け、硯の縁に細い白を置いている。墨池には、たった今注がれたばかりの水があった。何も映さないほど澄み、何も語らないほど静かだった。
指先で墨を持ち上げる。
その黒は硬いはずなのに、掌に触れているとどこか従順だった。
墨堂へ置く。
息をひとつ。
縦でも横でもない、決められた円を描くように動かし始める。
硯と墨が触れ合う音だけが、部屋の奥へ薄く伸びていく。
まだ水は遠い。
墨はただ削られ、見えないほど細かな粒になって墨堂に積もっていく。
彼女の視線は動かない。
まるで長い廊下の先を見るように、丘の向こうの墨池を眺めていた。
やがて黒が現れる。
鋒鋩を越えた先へ、細い煙のような色が流れ込む。
透明だった水が、知らないものを受け入れていく。
彼女のまぶたが少しだけ重くなる。
呼吸は浅く、長くなった。
墨はなおも円を描く。
描いているというより、繰り返されている。
黒は増えていく。
水は黙って飲み込む。
彼女の肩から力が落ちる。
音もまた柔らかくなり、硯の上で溶けていく。
どれほど経ったのだろう。
陽は少しだけ高くなった。
墨池の黒は濃くなった。
墨堂の湿りも深くなった。
彼女の指は変わらず墨を支えている。
ただ、その動きにはどこか遅れがあった。
ひとつ円を描く。
もうひとつ。
さらにもうひとつ。
どれも同じはずなのに、どれも少しずつ遠い。
視線は硯の上にある。
だが焦点は、水面の奥へ沈み込んでいた。
黒い液面が揺れるたび、何かが揺れ返す。
彼女は瞬きを忘れたまま墨をする。
不意に、墨の角が鋒鋩を掠めた。
かすかな抵抗。
その瞬間だけ、指先が止まる。
呼吸も止まる。
静かな部屋が急に狭くなったようだった。
墨を持つ手に力が集まる。
背筋が伸びる。
黒い水面は揺れを失い、鏡のようになった。
その中央に光がひと筋落ちている。
彼女はその線から目を離せない。
墨は再び動き始める。
今度は少しだけ速い。
黒が広がる。
削れた粒子が渦になる。
墨堂と墨池の境界が曖昧になっていく。
丘を越えたのか、越えていないのか。
鋒鋩を滑ったのか、滑っていないのか。
彼女の指先は何度も同じ軌道を辿る。
けれど水面に生まれる模様は二度と同じにならない。
小さな渦。
細い筋。
沈みかけた黒。
浮かび上がる黒。
視線がそれらを追う。
追うたびに次が生まれる。
呼吸の間隔が乱れ始める。
墨の音も一定ではなくなった。
やがて手が軽くなる。
墨が軽いのか、自分が軽いのか分からない。
円は大きくなり、小さくなり、また大きくなる。
墨池の水面は生き物のようだった。
削られた黒が走る。
集まる。
離れる。
追いかける。
逃げる。
彼女の目もそれを追う。
頬の近くで細い髪が揺れた。
呼吸は少し速い。
硯の音も速い。
黒はもう透明を思い出せないほど深くなっていた。
墨はさらに滑る。
鋒鋩を渡る。
丘を撫でる。
墨堂へ戻る。
また渡る。
その繰り返し。
指先に伝わるわずかな振動が、腕を通り、肩へ届く。
彼女はまばたきを忘れていた。
黒い水面の中心で光だけが砕けている。
息を吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
そのたびに墨が削られる。
そのたびに水が黒を抱く。
硯の中だけで何かが満ちていく。
彼女の手は止まらない。
止める理由を見つけられないまま、何度も、何度も。
そして。
ふと。
音が遠くなった。
墨池の黒は十分だった。
光も静かになっていた。
彼女はようやく動きを緩める。
円は小さくなる。
さらに小さくなる。
呼吸も落ち着く。
水面の渦はほどけていく。
黒は均一になり、深い夜のような色だけを残した。
彼女は墨を持ち上げる。
先ほどまで震えていた粒子たちが、ゆっくり沈んでいく。
しばらく見つめる。
ただ見つめる。
それから静かに墨を置いた。
硯の上には黒い水があり、
その中には、もう透明だった頃の名残はどこにも見えなかった。




