表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スナップ360  作者: 丸鶴
PR
12/17

彼女は正座をしていた。

午前の光が障子を透け、硯の縁に細い白を置いている。墨池には、たった今注がれたばかりの水があった。何も映さないほど澄み、何も語らないほど静かだった。

指先で墨を持ち上げる。

その黒は硬いはずなのに、掌に触れているとどこか従順だった。

墨堂へ置く。

息をひとつ。

縦でも横でもない、決められた円を描くように動かし始める。

硯と墨が触れ合う音だけが、部屋の奥へ薄く伸びていく。

まだ水は遠い。

墨はただ削られ、見えないほど細かな粒になって墨堂に積もっていく。

彼女の視線は動かない。

まるで長い廊下の先を見るように、丘の向こうの墨池を眺めていた。

やがて黒が現れる。

鋒鋩を越えた先へ、細い煙のような色が流れ込む。

透明だった水が、知らないものを受け入れていく。

彼女のまぶたが少しだけ重くなる。

呼吸は浅く、長くなった。

墨はなおも円を描く。

描いているというより、繰り返されている。

黒は増えていく。

水は黙って飲み込む。

彼女の肩から力が落ちる。

音もまた柔らかくなり、硯の上で溶けていく。

どれほど経ったのだろう。

陽は少しだけ高くなった。

墨池の黒は濃くなった。

墨堂の湿りも深くなった。

彼女の指は変わらず墨を支えている。

ただ、その動きにはどこか遅れがあった。

ひとつ円を描く。

もうひとつ。

さらにもうひとつ。

どれも同じはずなのに、どれも少しずつ遠い。

視線は硯の上にある。

だが焦点は、水面の奥へ沈み込んでいた。

黒い液面が揺れるたび、何かが揺れ返す。

彼女は瞬きを忘れたまま墨をする。

不意に、墨の角が鋒鋩を掠めた。

かすかな抵抗。

その瞬間だけ、指先が止まる。

呼吸も止まる。

静かな部屋が急に狭くなったようだった。

墨を持つ手に力が集まる。

背筋が伸びる。

黒い水面は揺れを失い、鏡のようになった。

その中央に光がひと筋落ちている。

彼女はその線から目を離せない。

墨は再び動き始める。

今度は少しだけ速い。

黒が広がる。

削れた粒子が渦になる。

墨堂と墨池の境界が曖昧になっていく。

丘を越えたのか、越えていないのか。

鋒鋩を滑ったのか、滑っていないのか。

彼女の指先は何度も同じ軌道を辿る。

けれど水面に生まれる模様は二度と同じにならない。

小さな渦。

細い筋。

沈みかけた黒。

浮かび上がる黒。

視線がそれらを追う。

追うたびに次が生まれる。

呼吸の間隔が乱れ始める。

墨の音も一定ではなくなった。

やがて手が軽くなる。

墨が軽いのか、自分が軽いのか分からない。

円は大きくなり、小さくなり、また大きくなる。

墨池の水面は生き物のようだった。

削られた黒が走る。

集まる。

離れる。

追いかける。

逃げる。

彼女の目もそれを追う。

頬の近くで細い髪が揺れた。

呼吸は少し速い。

硯の音も速い。

黒はもう透明を思い出せないほど深くなっていた。

墨はさらに滑る。

鋒鋩を渡る。

丘を撫でる。

墨堂へ戻る。

また渡る。

その繰り返し。

指先に伝わるわずかな振動が、腕を通り、肩へ届く。

彼女はまばたきを忘れていた。

黒い水面の中心で光だけが砕けている。

息を吸う。

吐く。

吸う。

吐く。

そのたびに墨が削られる。

そのたびに水が黒を抱く。

硯の中だけで何かが満ちていく。

彼女の手は止まらない。

止める理由を見つけられないまま、何度も、何度も。

そして。

ふと。

音が遠くなった。

墨池の黒は十分だった。

光も静かになっていた。

彼女はようやく動きを緩める。

円は小さくなる。

さらに小さくなる。

呼吸も落ち着く。

水面の渦はほどけていく。

黒は均一になり、深い夜のような色だけを残した。

彼女は墨を持ち上げる。

先ほどまで震えていた粒子たちが、ゆっくり沈んでいく。

しばらく見つめる。

ただ見つめる。

それから静かに墨を置いた。

硯の上には黒い水があり、

その中には、もう透明だった頃の名残はどこにも見えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ