花火師の娘〈八〉
いつもとは違う道を気をつけながら歩く。
ぼうっとしていたら掏摸に遭ってしまうから、金子だけはしっかりと大事に懐にしまっていた。
そこでふと通りかかった先に稲荷があった。
江戸の町は稲荷だらけなのだが、稲荷を見つけるとどんな小さな社にでもちゃんと手を合わせることにしている。花火師としての心得だ。
立ち寄ってみると、先客がいた。
それほど背は高くないが、半纏を着た若い男だ。熱心に手を合わせている。
振り返った男とすれ違った時、嗅ぎ慣れた臭いがした。
その臭いによって、霞がかかっていた目の前がぱっと開けたように感じた。
半纏を着て火薬の臭いをさせているこの人は花火師だ。間違いない。
臭いに引かれるように、気づけば稲荷に手を合わせるでもなくその背を追っていた。
小柄なわりに足がとても速い。道行く人をかき分け、見失わないように必死で追いかける。
この時、国吉の白粉のことなど綺麗さっぱり頭になかった。
息を切らし、辿り着いた先で男は暖簾を潜った。その店の提げ看板に目をやる。
「金屋――」
そんな屋号だった。
そして、つい中にまで入ってしまった。腹が減っていて上手く物が考えられなかったせいか、立ち止まれなかった。
そこは何もない店だ。小間物屋のような雑多に品物が並べられている場ではない。一見するとなんの店だかわからない。暖簾や看板が出ていなければ店だとすら思われなかっただろう。
「若、お帰りなせぇ」
「ああ、ただいま」
男の声は随分若かったが、落ち着いた響きだった。
「一応口入れに頼んできたが。まあ、あれこれ言いすぎたせいか、すぐにちょうどいいのを探すのは難しいってよ」
「えっ? 雇ってきたんじゃねぇんですか? じゃあ、後ろの娘っ子は?」
と、板敷の上から恒を見ていたのもまだ若い男だった。愛嬌のある丸顔で、二十歳を少し過ぎた程度だろう。
「後ろ?」
〈若〉と呼ばれた男は訝しげに振り返った。
この時になって初めてこの男の顔を見た。まだ十七、八といったところだろうか。小柄ではあるのだが、国吉などよりもよほど綺麗な顔をしている。
男にしておくには惜しいくらいだが、ほどよく焼けた肌が繊細な顔立ちを弱々しくは見せなかった。
だが、〈若〉は恒を見て顔をしかめた。
「知らん。誰だお前は?」
「えっ、それは、その――」
答えを用意しておらず、しどろもどろになってしまった。
自分でも上手く言えない。火薬の臭いに誘われてここまでついてきてしまったとしか言いようがないけれど。
〈若〉と一緒にいた男がぷっと吹き出した。
「若に一目惚れしてついてきちゃったんでしょうよ。そんな怖い顔をしちゃ可哀想ですよ」
「うるせぇぞ、半平」
嫌そうに声を低くして言われた。
けれど、それは違うと言いたかった。一目惚れだとか、そういうことではない。
そこで息を吸い込み、思いきって尋ねる。
「あのっ。ここは花火屋ですよね?」
すると、〈若〉はしかめっ面のまま答えた。
「そうだ。菓子屋にでも見えるか?」
そんな嫌味も気にならなかった。ただ嬉しかったのだ。
今、自分は仲屋以外の花火屋にいるのだと。仲屋以外にも花火屋はあるのだと。
これが父の導きのような気がして、恒は勝手にそう思い込むことにした。
「奉公人を探しているんですよね? さっきそんな話をしてましたね」
親しみなどどこにもない〈若〉に笑顔を向けてみた。
その途端に頭の悪そうな娘だと思われたのがわかった。
「それがどうした?」
「あたし、ここで働きたいです」
それを言うと、〈若〉だけでなく半平という若者まで不安そうな顔をした。
〈若〉は容赦のない厳しさで言い放つ。
「うちの仕事はきつい。お前みたいなやせ細って今にも倒れそうな子供には無理だな」
「あたしのおとっつぁんは花火師でした。あたしも花火師になるつもりだったんですけど、おとっつぁんが亡くなってしまって、それで近頃は花火に触れていなくて。でもすぐに勘を取り戻しますからっ」
一生懸命自分を売り込もうとしたのに、二人はさらに困惑した様子を隠さない。
「花火師? 女子が?」
言われるとは思ったが、やはり言われた。だとしても、こんなところでめげてはならない。
「そういうの、古いんです。肥前長崎のお亀さんみたいに、女子だから無理なんてことはありません」
「誰だそれは? うちが探しているのは飯炊きのできる女中だ。職人じゃない」
面倒くさそうに言われた。こんな変な娘には関わるべきではないとばかりに。
「じゃあ、女中の仕事もします」
「どう考えても無理だ。使えないやつは要らない」
綺麗な顔のわりにきっぱりと物を言う人だ。
しかし、ここで引けない。もう仲屋には戻りたくないという焦りもあった。
このまま仲屋にいたのでは、恒自身も、それから父の技も腐って土に還るだけだ。夜空に大輪の花を咲かせるなんてことはできないまま終わってしまう。それは絶対に嫌だ。
「あたし、役立たずじゃありません。なんだってしますっ」
すっかり辟易としている〈若〉が何か言おうとした時、奥から誰か出てきた。
がっしりとした体格の男で、風格がある。一見してどこかの元締めのような凄みを滲ませるが、多分この男が花火屋の主なのだろう。
よく見ると、襟から出ている首筋に火傷の痕がある。歩き方も滑らかではなかった。
「どうした、銀治」
銀治というのが〈若〉の名らしい。呼ばれてため息をついていた。
「いや、この子供が雇ってくれって。断ってるところだ」
すると、主はじっと恒を見た。だから、恒もじっと主の目を見た。
この人は仲屋とは違う、本物の花火師だと感じた。筋の通った潔い目をしていて、それは父に通ずるものがあった。
「本気でうちで働きてぇようだが」
「女中じゃなくて花火師になりてぇらしい」
それを聞くとさすがに驚いたようだったが、頭から馬鹿にすることはなかった。くっと渋く笑う。
「そいつぁ面白ぇな。だが、花火師はそう楽な仕事じゃあねぇ」
「楽じゃなくても、あたしは花火が好きです。花火のことだけ考えて生きていたいんです。女中の仕事をしながらで構いません」
「ほう」
きっと銀治は主がしっかりと言い含めて断ってくれると思っただろう。それが――。
「そんなに好きなら仕方ねぇな。まあ、楽しいことばかりじゃねぇ。面倒で退屈な仕事の方が多いが、耐えられるか?」
「親父っ」
ぎょっとしたように銀治が顔を引きつらせている。酔狂にもほどがあると言いたいようだ。
「もちろんですっ」
力いっぱい答えた。そうしたら、主は苦笑した。
「わかった。いつから来られる?」
「今晩から来ます」
「そうか。俺は金屋治兵衛だ。お前さんは?」
「恒です」
「お恒か。じゃあ支度が済んだら来な」
「あいっ。ありがとうございますっ」
深々と頭を下げ、上げた時には涙が滲んでいた。
これでいい。もうあそこには戻らない。
銀治が苦りきった顔をしていたけれど、それくらいは構わなかった。
そして、国吉の白粉を買うために並ぶ気などすでにさらさらなかった。




