泰平のあかし〈十五〉
――そんな翌日のこと。
川開きという大きな催し物を終えた江戸は急に秋の気配すら漂うように感じられる。
それと思うのは、花火が空に上がらないのなら、暑かろうともう夏ではないと恒が勝手に思ってしまうだけかもしれないが。
朝餉の後に、百蔵が治兵衛のところへ行ったきり戻ってこなくなった。
なんだろうかと、板敷きを拭きながら少し胸騒ぎがした。そうしていたら、銀治が目の前に無言で立った。
「若、足をどけてください。床が拭けませんよ」
見上げた銀治の顔は苦々しく、その表情の意味を知るのが怖い。
昨日の喜びが過ぎ去って、また何かが起こったのか。
「どうされたんです?」
それでも訊くしかない。その上で受け止める。
すると、銀治は嘆息した。その仕草がとても悲しそうに見えてどきりとする。
落ち着かない。
肌の上を毛虫が這うような、なんとも言えない感じだった。
そして、銀治の薄い唇から飛び出した言葉に耳を疑う。
「百蔵が暇をもらいてぇそうだ」
「えっ」
それは、女子の花火が金屋の看板を汚したということなのだろうか。
世間にはまだ恒の名は知れ渡っていないのに。
だとしても、百蔵にはどうしても許せなかったのだ。
「あ、あたしのせいですか」
この時つぶやいた言葉に、銀治がどう返したのかを聞かなかった。
驚きが勝って動きの鈍い足で、転がるように治兵衛の座敷へと向かった。
「す、すみません、恒ですっ」
無作法にも障子戸を勝手に開けると、治兵衛と百蔵とが一斉に見向いた。恒が情けない顔をしているからか、治兵衛は困ったように見えた。
百蔵はというと、思いのほか穏やかに凪いだ顔をしている。それが意外ではあった。
わかり合うのは難しくとも、何も言わずに終えるのはどうしても嫌だ。
「百蔵さん、あたしが女子なのはどうにもなりませんけど、でも本当に花火が好きなんです。それだけはわかってください」
顔をしかめられる心構えはしてきたのに、百蔵はゆっくりと――笑った。
その様子はやっぱり亀に似ていたけれど、陽だまりで日向ぼっこを楽しむようなのどかさだった。
「ああ、そうらしいな。そうじゃなきゃ、あんな花火は作れねぇだろうから」
「百蔵さん?」
座敷に踏み入るでもなく、廊下に座ったまま呆然としてしまった。百蔵は、怒っていないのか。
重たそうなまぶたを垂らして、目を細めたまま言う。
「女子のくせに、一端の花火師より立派な花火を作る娘がどこにいると思うんだ? あの花火を見て、それでもまだお前さんが遊び半分の女子だなんて言おうもんなら、それこそこっちが腐れ目だ。恥ずかしくて花火師を名乗れねぇ。あれは見事な花火だった」
「ほ、本当ですか?」
この人だけは褒めてくれないと思った。銀治以上に頑固だから。
父も、弟子である弥八や勇吉の仕事をほとんど褒めたりしなかった。本当にいい仕事をした時にだけ、それとなく伝える。職人同士は剥き出しの本音でぶつかり合うのだ。
だからこれは百蔵の本音だと思っていいのだろうか。
褒められるなど、そんな心構えはなかった。心の臓がうるさいくらいに騒いでいる。
「儂は作った花火の数ならお前さんよりずっと多いだろうよ。長年、花火師として花火を作り続けてきたんだからな。――だが、出来に満足したことは一度もなかった。だからこそ、次こそはと誰よりも長く続けていられた」
百蔵は、同じ年頃の職人たちが退いてもまだ職人であり続けた。この年でもまだ職人であり続けるのは楽なことではなかったはずだが、百蔵もそれだけ花火が好きだったのだと思う。
これを言った時、百蔵は恒ではなく自分の節くれだった手を見ていた。それは長年共に花火を作り続けた相棒に言葉をかけるようでもあった。
「まあ、いかんせん年だ。頭が固くてな、すぐに無理だと決めつけちまう。親方に、お前さんに花火を作らせる度量がなけりゃ、あんな花火は拝めなかった。あの花火を見て、儂は妙にすっきりした気分になった」
「そ、それなら、どうして辞めるなんて言うんです?」
熟練の百蔵に抜けられてしまっては金屋が困る。
なのに、再びこちらに顔を向けた百蔵は晴れやかな笑顔で言うのだ。
「お前さんにこの座を譲ってやるってこった。お前さんはもう女中じゃあねぇ、金屋の花火師だ。親方の顔に泥を塗るんじゃあねぇぞ」
――本気でこれを言ってくれているのか。
治兵衛を見ても、苦いものを含んだ笑みを浮かべてうなずくだけだった。
すぐそばにいた銀治は何も言わない。ただ強い目をして恒に覚悟を迫る。
心を決めるというよりも、そんなものはずっと前から決まっている。
手を突いて、額を床に擦りつけるように頭を下げた。
「あい。百蔵さんの心意気、受け取らせていただきます。昨日の花火に負けない、いえ、鍵屋や玉屋にも引けを取らないもっといい花火を作ります。どうぞ見ていてください」
「そいつは大きく出やがったな。ま、楽しみにしてらぁ」
くっと皮肉に笑った百蔵だったけれど、その心中にはいろいろな想いが乱れ飛んでいることだろう。それでも口には出すのは野暮だ。
その心を受け取り、ただ感謝した。




