泰平のあかし〈十三〉
あの花火玉が自分の手を離れた以上、もう恒にできることは何もなかった。
ずっと諦めなかったからこの日が来たのだ。
仲屋のように花火に向き合わない、心意気を持たない相手に屈さず、信念を貫いた。そうして金屋へ来たからこそ出来上がった花火なのだ。
どうかしっかりと花開いてくれますようにと願った。
「し、七五三太さん、こっち」
橋の上はひどい人だかりで、背の低い恒と七五三太は埋もれてしまっていた。
ぎゅうぎゅうと押されて七五三太とはぐれそうになる。やっと手を伸ばして引っ張り寄せると、七五三太は目を回していた。いつもよりもっと頬が赤い。
「ま、前よりひでぇ人の多さで」
「川開きも終わりだから」
打ち上げられる花火も残り僅かだ。江戸っ子たちは夏の名残を惜しむように詰めかける。
これから当分の間、花火が空を賑わすことはない。
寂しいけれど、だからといって恒が花火のことを考えない日はない。金屋を離れて花火に触れなくなったとしても。
これでよく、金屋を去るなんてことを口にしたものだ。
こうなってしまうと、銀治に呆れられて要らないと言われないか不安になるくらいだ。
できることはすべて惜しみなく出し尽くした。だから、あの花火が駄目だと言われたなら、今の恒にできることなどないに等しい。
それくらいの熱を込めたはずだ。
それでも、花火は上がってみるまでわからないのも本当だった。
ぎゅうぎゅうと見物客に押されていると、穏やかな声がかかった。
「こちらに来なさい。少しはましだろう」
それは、いつか会った武家の隠居だった。この暑い日に人ごみの中にいながらもどこか涼しげである。
「あ、ありがとうございます」
欄干の方へ寄せさせてもらうと、隠居は恒たちを庇うように立ってくれた。焚き染めた香のような匂いが仄かにする。
「金屋の。今日はいい花火を見せてくれるんだろうね」
ほんの少し、返答を躊躇いそうになった自分を心で叱る。
胸を張ってやりきったと言える花火を作ったはずなのだ。前を向いて、目を見て、ちゃんと答えなくては。
「あい。どうぞ見ていてください」
浮かれていた先頃に会った時と、今の自分は違う顔をしていたかもしれない。
隠居の顔が驚いたようにも見えた。それから、ふっと和らぐ。
「そうか。楽しみだ」
この通人が認めてくれたらいい。
すべてが報われるとは限らないとしても、悔いてはいけない。
日が傾いて、残光が水面をほんのりと照らしている。
その上に、所狭しと浮かぶ多くの花火船。提灯に〈金〉の文字を見つけ、胸が苦しくなった。
手を組み、祈る。
そこで待つ間、いくつもの花火が宵闇を照らす。
今日ばかりはただ喜んでもいられない。
中にはさすがというべきものがいくつもあった。やはり、出来の良い花火は同じ店のものだ。店で技を磨いて作り上げるのだから当然だろう。
仲屋の花火は、少しも上達したとは思えなかった。
それなのに見物客たちは喜んでいる。抜け星の花火でも、空に上がれば賑わうのだ。
あんなにも見てくれる人がいるのに、どうしてもっと真剣に向き合って仕上げようとしないのだと歯痒く思う。
花火に手っ取り早く上手く作れる秘伝などない。それを恒が持っているとするのがそもそもの間違いだ。
恒が持っているのは、父から受け継いだ心意気だ。
それこそがいい花火を作り上げるために必要なことなのだから。
口上の後にドン、と音を立てて花火が上がる。
あとどれくらいで恒の花火が上がるのだろう。待ち遠しいような、ずっとその時が来なくてもいいというような心持ちでいた。どうやって立っているのかもよくわからないくらいにふわふわする。
そうしていると、高らかに口上の声が上がった。
「さあさ、これより打ち上げられまするのは、金屋銀治の〈引先紅菊〉でござい――」
――ついに来た。
あまりに胸が痛くて、息をしていなかったかもしれない。
後は銀治に託したのだ。案じることは何もない。
さあ、空を見上げて。
天にいる千鶴が、角太郎の想いの籠った文を受け取ってくれる。
それから、父と母とが恒の花火を見てくれる。
ドォン。
音が鳴って、光が空に筋をつけるように伸びていく。
ほんの僅かな時でしかなかったはずなのに、恒にはそれがとてもゆっくりとしたものに思えた。
パァン、と花火が空に咲く。
丸い盆の菊の花だ。
菊は珍しいものではないけれど、だからこそ粗が見えやすい。
暗く欠けたところはないか、歪んではいないか、震えながら花火が消えていくのを見守った。
花火の赤い星が、空に吸い込まれるように消える。その様子は美しかった。恒にとっては何よりも。
その場はしんと静まり返っていた。それは夏の夜には似つかわしくない静寂だった。
そこにいるだけで、涙が次から次へと溢れてくる。
悲しいのではなくて、それでも止められない。
ほっとしたのと、もう何度も駄目かもしれないとへこたれかけたことが思い出され、こうして空に恒の花火が上がった今がまだ夢のようだった。
嗚咽を噛み殺して泣いていると、隠居はまだ空を見上げたままでつぶやいた。
「花火はもともと狼煙が始まりとされるが、娯楽としての花火は戦が終わり天下泰平の世になって初めて生まれた。火薬が要らなくなり砲術家が暇を持て余す、そんな世であるからこそ、こうして人を楽しませるためだけに空に上がる。人を傷つける道具であった火薬がだ。奢侈だと禁止されることもあったが、むしろ儂は戦のない泰平の世の証しとして、花火は絶やしてはならぬと思うのだ」
武家であっても、戦は不要だと思うらしい。
そうだ、人死にが出る戦などなくていい。火薬も戦に使うくらいなら花火になって人の目を楽しませればいい。
こんなに花火に魅せられている恒を、人は嗤うかもしれない。
それでも、人生も命も費やしていいと思えるものに出会えた自分は幸せだ。
とても声にならない想いだった。
ただただ大きくうなずく。そんな恒を、隠居と七五三太があたたかい目で見守っていてくれた。
そんな中、遅れて上がった歓声がじわじわと胸に迫る。
生きていて、生まれてきてよかった。そう心から思えた。
江戸時代の花火はあんまり丸くなかったそうですね|д゜)




