花火師の娘〈四〉
「朝っぱらからなんだい? 随分と騒がしいじゃないか」
不機嫌な伯母の声が聞こえ、眠たい目を擦りながら恒は障子を僅かに開けた。
祖母を起こしてはいけないと、音を立てないように気をつけて部屋から出た。
そろりそろりと足音を忍ばせて歩くと、帳場の伯父が弾かれたように顔を向けた。厳しい顔をして恒を見ている。
どうしてこの時、恒のようなちっぽけな子供のことをこんなにもじっと見たのか不思議だった。
困り事が自分に関わりのあるものであったからだとわかるまで、とても居心地の悪い思いがして、裸足の指先を擦り合わせていた。
伯父は厳しい面持ちを崩さぬまま、言った。
「昨晩、勝造の店から火が出たそうだ」
「えっ?」
火が出た。
その言葉にぎくりとして固まってしまった。
それは花火屋で、何よりも起こってはならぬことである。だからこそ、父はいつだって慎重だった。誰よりも気をつけていた。
それが、そのはずが――。
「そんな――っ」
膝ががくがくと震えた。その場にくずおれそうになるのを、柱にしがみついて持ち堪える。
何かの間違いではないのか。
己の目で見るまでは信じたくない。そんなはずがない。
しかし、近くにいた伯母は顔をしかめた。
「またなのかい」
花火屋に火はつきものだと知るからこそ、うちに限ってそんなことはないと言い切るのは難しかった。
この時、時刻を報せる鐘の音が鳴るよりもずっと早く、勇吉が挨拶もそこそこに駆け込んできた。
「お、お恒ちゃん、大変だっ」
走ってきた様子なのに、顔は青ざめていた。
「俺、ひとっ走り行ってくらぁ。お恒ちゃんは――」
置いていかれると焦って勇吉の言葉を遮った。
「あたしも行くっ。お願い、連れて行ってっ」
この火急の時に子供と足並みを合わせてはいられない。
勇吉が困るのを承知で、それでも引けなかった。勇吉も、火が出たのが恒の家で、安否が不明であるのが父親でなければ断っただろう。
「わかった。急ぐけど、いいかい?」
「うんっ」
伯父たちは姪を案じて置いていけとは言わない。口にこそ出さぬものの、また厄介事が持ち上がったと思っているのがなんとなくわかって、居たたまれなかった。
寝たままの祖母に挨拶もできぬまま、小さな手荷物だけを持って店を出た。精いっぱいの早足だったが、心配が膨らんで足をもつれさせた。
この時、運悪く足を挫いた。それを隠して歩いたが、足首は見る見るうちに腫れていた。
途中まで来ると、勇吉がもどかしそうに恒を背負ってくれた。
「ごめんね、勇吉さん」
「いいんだ、舌噛まねぇようにな」
背に乗ると、勇吉はせっせと足を速めた。勇吉の背中はよく揺れ、恒はずっと歯を食いしばっていた。
火が出たと、それだけではわからない。どの程度の火なのだろうか。
父と弥八はどうなったのか。それが最も大事なことだ。
勇吉の背で二人の無事を祈るしかなかった。
家に近づくにつれ、焦げ臭さが鼻を衝いた。
春風に乗って煙が流れてきて、心の臓が貫かれたように痛んだ。不安だけが育ち、震えが止まらない。それでも揺れる勇吉の背にあっては覚られることもなかった。
勇吉と共に目にしたそれは、最早家の残骸でしかなかった。辛うじて立っていた梁も黒焦げで、水浸しだ。近隣の人々が懸命に火を消してくれた跡がある。
こうした事故が多い花火屋だから、町家のように隙間なく建てられていたわけではない。辰屋は川沿いにぽつりとあった。巻き添えはほぼないままに燃えたのだ。
件の玉屋が火を出した際は、将軍徳川家慶公が日光東照宮へ参拝する前日という大事な時であったため、不届き千万であるからして闕所――所払いという厳しい沙汰が下ったのだそうだ。そうでなければ少々のことは目こぼしされたはずだと嘆く人々もいた。
今回の火事はひっそりと建つ小さな花火屋でのこと。
それほどの厳しい仕置きはないはずだと願うしかなかった。
「お、おとっつぁんは――」
勇吉の背から下りて近くにいた人に声をかけると、その男は眉を下げた。よく行く八百屋の主だ。
どうしてそんなに悲しそうな顔をして首を振るのか。それではまるで――。
「う、嘘だろ? なあ、やめてくれよ」
声が出ない恒に代わり、勇吉が声を震わせながらも言葉にしてくれた。
けれど、その場にいた誰もふざけてなどいないのだ。女たちはこちらに目を向け、あまりの不憫さに涙を堪えきれないといったふうだった。
「お弟子の弥八さんは助かったけど、ひどい怪我だ。診療所に連れて行ってもらったけど、あれで助かったって言っていいのかねぇ」
八百屋の主がぞっとするようなことを教えてくれた。それでも、生きて運ばれたというのなら、助かると信じたい。
「おとっつぁんはどこ?」
一歩前に出ると、煤だらけになった皆が焼け焦げた家から恒を遠ざけるようにして立ちはだかった。
大人たちが壁になって何も見えない。八百屋のおかみが恒の肩に手を載せ、ゆっくりと言い聞かせるようにしてささやく。
「お恒ちゃん、悲しいけど見ない方がいいよ。ひ、ひどいんだ」
思い出したのか、喉が引き攣れていた。ただの火ではなく、火薬が爆ぜたのだ。その近くにいたのなら、火傷だけでは済まなかったかもしれない。
大人ですら見るに堪えないのだから、とても子供には見せられないと。
しかし、それでは自分は一体どうしたらいいのだ。
今、まず何をしたらいいのかわからない。できることは泣き叫ぶことくらいだ。
嘘だと、何かの間違いだと思いたいのに、この焼け焦げた匂いがそれを許してくれない。
風に乗って灰が舞う。
あの雪のように白い灰は、父の欠片なのだろうか。
そう考えたら、喉の奥から嗚咽が込み上げた。
「嫌だっ。おとっつぁん、おとっつぁんっ」
うわあああっ、とあらん限りの声を絞って叫んだ。
そんな子供の嘆きを受け止められる者はおらず、勇吉だけが一緒に涙を流しながら、半狂乱になって顔をかき毟る恒の手をつかんだ。
「お恒ちゃん――」
何も、かける言葉が見つからないのだ。
恒もまた、すべての言葉を忘れてしまったかのようにしてわあわあと嘆くだけだった。
そんな様子を、羽織姿の一人の老爺が皆とは少し離れたところから見ていた。懐手で、微動だにしない、それでも深い目がこちらに向いている。町人だが、どこぞの店の主人といった風格だった。
こんな時に何故、その老爺のことが気になったのかがわからない。
そして、それ以外のことは何も覚えていない。この後のことは自分の中からすっぽりと切り取られたようにして消えたのだ。
悲しみというのは度を超すと体を狂わせてしまう。
この時の恒は、ちゃんと目を開いて起きていて、訊かれたことに受け答えをしていたと言うけれど、後になっても思い出せない。何と答えたのか、どうやって歩いていたのか、自分でも不思議なくらいだ。
それくらい、恒は一度空っぽになった。
母が亡くなった時も悲しくて、やりきれない思いでいっぱいだった。けれど、臥せっている母とはゆっくりと話し、別れを惜しみ、去りゆく命を肌で感じながら別れた。こんなにも急に奪われるような別れではなかった。
父との別れがこうした形であるとは考えてもみなかった。
常に危険と隣り合わせの生業であるとわかっていたくせに、それでも。




