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一刻花 ~弘化江戸火話~  作者: 五十鈴 りく
【肆】泰平のあかし

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泰平のあかし〈六〉

 花火を上げ終わって戻ってきた皆は、出かけていった時よりも誇らしげに見えた。


「ちゃんとうちの花火を見ていたかい?」


 半平が火薬の臭いをさせながら笑顔で尋ねてきた。その臭いに胸が締めつけられる。

 喉の奥がひりひりと痛むのは、心苦しさからだろう。


「あい。やっぱり皆さんが作った花火は見事でした」


 金屋の花火は派手ではなく、けれど色にも形にも工夫が凝らされている。それが難しいことなのだと気づけるのは同じ花火師や通人のみで、見物人たちの多くは気づかないかもしれない。

 だとしても、こだわりを持って仕上げられた花火は眩しかった。

 だからこそ、その花火を守らなくてはならない。


 仲屋の男たちと揉めたことを七五三太は誰にも言わないでいてくれたようだ。

 その翌日になっても、皆が恒を見る目は変わりなかったのだから。




 恒は、丹精込めて花火の仕上げをした。

 角太郎と千鶴のための花火だ。これさえ打ち上げてもらえたら、もう思い残すことはないと言えるほどの熱を注ぎ込んだ。


 これだけは、何があっても投げ出すことはできなかった。

 けれど、作っている間、気が気ではなかった。いつ仲屋の連中が乗り込んできて金屋に迷惑をかけるかわからなかったからだ。


 川開きもあと僅か――。

 このたったひとつの花火玉に関してやることはやったと思えた時、恒は治兵衛の前に三つ指を突いて切り出した。


「こんなに良くしていただいてあいすみませんが、お暇をいただけますか?」


 治兵衛は飲んでいた茶を零しそうになったが、すぐに真剣な顔をして恒の目を見た。


「暇が欲しいってぇのは、ちょいと墓参りにでも行きてぇのか? それとも、うちから出ていきてぇってことかい?」

「――あい。他所で奉公させてもらうつもりです」


 言葉を濁したところで仕方がない。はっきりと言った。

 治兵衛は怒らなかった。ただ静かに座っている。


「花火師になるんだろう? 他所で使ってもらえるあてができたのかい?」


 この人は、花火師になりたいと告げた時に(わら)わなかった。本気で受け止めてくれた器の大きな人だ。

 この店で職人として働きたいと思った。けれどそれは過ぎたる願いだった。


 誰もがなりたい自分になれるのなら、皆がそうなっている。夢破れて地べたを這いずる人などいないはずだ。

 願いが叶わないことを受け入れる。それが大人になるということかもしれなかった。


「花火師にはなりません。あたしが花火に関わるのはここまでです」


 こんな言葉が自分の口から飛び出すことになるなんて思わなかった。まるで自分自身を裏切ったかのように息苦しい。

 諦めたくはないし、悔しいけれど、自分がどういう思いでいても世間には伝わらないのだ。


 花火師である前に人であるからこそ、恩を仇で返してはならない。

 金屋が仲屋などに汚される原因(もと)であってはならない。

 これは花火師としての決断ではなくて、ただの女子(おなご)の恒として選ぶことだと言える。

 ただ――。


 すべてを引き換えにしてでも花火から離れないという覚悟ができないのなら、花火師になど端から向いていなかったのだろうか。

 そう考えたら、父にも顔向けできないような情けない気分になった。


「お前さんがそれと決めたのなら、あたしから言うことはないよ」


 治兵衛は理由を尋ねない。恒が言うつもりがないのだと気づいたのかもしれない。

 けれど、突き放したような物言いではなかった。


「――だがな、お前さんの齢で我慢はするもんじゃあない。若ぇうちは細けぇことは気にせず、遮二無二突っ走ってりゃいいんだ」


 身勝手だとは言わずに案じてくれている。ほんの少し関わり合っただけの小娘に過ぎないのに。

 父が亡くなってから、こんなふうに大事に扱われたのは久しぶりだった。ここは自分にとって安らげる場所だった。


 だから、去ると決めたのだ。大事でなければ、もっと図太く居座れた。

 うつむくと顔が上げられなくなるから、首をまっすぐに据えて答えた。


「ありがとうございます。あたし、後で口入れに行きますから、金屋に代わりの人を頼んできましょうか?」


 代わりという言葉が自分に刺さる。そう、女中としての恒の代わりなど履いて捨てるほどいるのだ。

 こんなに優しい人ばかりの居心地のいい店ならすぐに誰か見つかるだろう。銀治がその女中を気に入りさえすればいい。


 そうしたら、治兵衛が苦笑した。


「そいつは銀治に任せる。あいつはなんて言うかねぇ」


 銀治はきっと怒るだろう。あの綺麗な顔で鋭く睨まれ、厳しい言葉を投げかけられるのを覚悟しなくてはならない。


 ――と、その時。障子が開いた。

 そこにいたのは銀治である。もともとあまり笑わないが、この時も笑っていなかった。


「銀治、お恒が暇をもらいたいそうだ」


 心構えはしたつもりだが、思いのほか早く銀治と話すことになってしまった。手に汗をかきながらそれをごまかすように頭を下げた。

 そうしたら、銀治は冷ややかに言った。


「花火師になるんじゃねぇのかよ」


 責めるような口調なのは、失望したせいだろう。

 それでも、ぐっと堪えて顔を上げ、銀治の目を見た。この人にごまかしは利かない。

 こんな時だけただの女子になって震えるのはずるいだろう。


「諦めました。若がいい花火をたくさん上げてください」


 銀治にならそれができると思うから、恒は去る。

 仲屋にいた時、嫌なことはたくさんあったけれど、それでも耐えられた。それは自分一人のことだったからだ。


 人と仲良くなって、その人たちに迷惑をかけるのは、一人で嫌な思いをするよりも苦しかった。

 あんなにいい仕事をする銀治たちが仲屋の技を盗んだなんて、そんな言いがかりで貶められていいわけがない。


 銀治は痛いほどまっすぐな目を逸らさない。そのくせ、何も言わない。

 だからこちらが言葉を重ねてしまう。


「角太郎さんの花火は仕上げました。あの花火だけは必ず打ち上げてください。あれがあたしにとって最後の――」


 そうしたら、銀治は大きなため息をついた。恒は思わずびくりと肩を震わせてしまう。

 それでも、銀治は恒にはっきりと言い放った。


「お前が花火を諦めたら、陸に打ち上げられた魚みてぇなもんだろうが」

「魚?」

「息、できんのかよ」


 おかしなことを言う。それでも、銀治は恒の戸惑いなどお構いなしに続けた。


「息して、飯食って、ちゃんと生きていけんのか?」


 恒にとっての花火は生きる喜びそのものだった。

 だから、目の前の明かりがフッと消えて、暗闇に佇む。この先にはそんな人生しか残されていない。

 花火のことだけを考えて打ち込んで、そんな幸せな暮らしをしていたいけれど、それは夢でしかないのだ。


「どうせ仲屋のことが引っかかってるんだろうが」


 仲屋の名を出され、言葉に詰まる。


「それは――」

「その日のうちに七五三太から聞いた」


 銀治は、恒のせいで金屋が仲屋から技を盗んだと言われたことを知ったのだ。どう謝ればいいのだろう。

 謝って済むのかもわからない。銀治はやはり怒っていた。


 けれどその怒りは、看板に泥を塗られたというような意味合いではなかった。


「お前も花火師の端くれなら、ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇよ。言いてぇことは花火で語れ。誰にも文句をつけられねぇ花火を上げて黙らせろ。少なくとも、俺ならそうする」


 俺ならそうすると。


 ――ああ、そうだ、この人はこういう人だ。

 いつでも堂々と、自分の仕事に誇りを持っている。

 あの程度で金屋に傷がつけられたと恒が思うこと自体が、銀治には腹立たしいのだ。


 花火で語れというのなら、自分が作ったあの花火は何を語り、皆はどう受け取るのだろう。それを知りたいとも思う。


 拳を握りしめ、自分に問いかける。

 中途半端な仕事はしなかったはずだ。だったら、あの花火にもっと自信を持ってもいい。

 あの花火が打ち上げられた時、それを見た人たちがどう感じるのかに賭けてもいいだろうか。


 こんな季節に指先まで冷え切ってしまうほど気を張っている。自分が勝手に思い悩み、追い詰められている。

 悩むのはあの花火が空に上がってからでも遅くはないはずなのに。


「じゃあ、あたしが作ったあの花火――。あれを若が見事だって思ってくだすったら、あたしはここにいてもいいですか?」


 本気で去りたいわけではない未練がこんなことを言わせる。

 金屋は好きだ。ここで働く人たちが。けれどそれ以上に、一番の未練は花火だ。


 花火を作りたい、触っていたい。その思いがこの先も消えてなくなることはない。


 これを言った後、銀治の目は射るように鋭かった。そしてそれは鏡のようでもあった。

 恒自身が納得していないことをこの人も納得しはしないのだ。


 不意に銀治がほんの少し表情を和らげ、笑った。


「ああ。そう急がなくても、無様な花火だったら改めて俺から暇を出してやる」


 それを言われ、ぐっと唸るしかなかった。自分で言い出したことなので仕方がないのだが。


 銀治は厳しい。それでも、この厳しさは嫌いではない。

 父も厳しかったが、いい仕事をすればその分認めてくれた。それと同じだ。


 場違いなくらい間延びした冷や水売りの声が聞こえる中、恒も挑むように笑って返した。


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