泰平のあかし〈五〉
金屋の花火を見られて心があたたかくなった。
嬉しくて仕方がない。当分は銀治の仏頂面さえも特別にいい男ぶりに見えるかもしれない。
余韻に浸りながら夜空を見上げていた恒の袖を七五三太が引いた。
「お恒さん、そろそろ帰りやしょう」
「もう? あと少しくらいならいいでしょう?」
まだ花火は上がるはずだ。ここで終いではない。
それなのに、七五三太はとんでもないとばかりに首を振った。
「若から、お恒さんが花火に夢中になりすぎると遅くなるから、金屋の花火を見たら早めに切り上げて戻れって言われておりやす」
「そ、そんな――」
そこまで手を回されていたとは。
しかし、雇われの身ではその言いつけを破るわけにはいかないのだ。聞き分けがないなら花火にも触らせないとだけは言われたくない。
名残惜しいが仕方がない。泣く泣く諦めた。
そうしたら、七五三太はほっとしたようだった。もっと駄々をこねるとでも思ったか。
「花火が全部終わるまで居たら、皆がいっせいに帰り出すから道が混んで、おいらたち子供は危ないって」
意地悪で早く帰れと言われたわけではない。
銀治なりに気を回してくれてのことだ。あれで案外細やかなところがあるから。
わかってはいるのだが、恒まで七五三太と同じ子供扱いは本当にやめてほしい。
「わかったわ。じゃあ、帰りましょう」
「空ばっかり見上げて言うの、やめてくださいやせんか? 人にぶつかりやす」
この時の七五三太は銀治が乗り移ったように口うるさかったので、思わず膨れた。
「もう、わかって――ひゃっ」
と言いつつ、実際に人にぶつかってしまった。
ぶつかった相手は若い男だった。だから、吹き飛んだのは恒の方だった。そのまま道で尻もちをついてしまった。
相手はそれほど痛くなかったと思うが、気に入らなかったようだ。
「どこ見て歩いてやがる、この――っ」
怒鳴りかけて、相手が女子供だと気づいたから止めたというのではない。へたり込んでいる相手に見覚えがあったからだ。
「お前、お恒じゃねぇのか?」
この男は仲屋の花火師だ。
まだ下っ端で、そんな人はたくさんいたので名前すら思い出せない。けれどこの太い眉と高い頬骨には見覚えがあった。
男はふと、恒の着けている前垂れに目を留める。
「金屋?」
屋号が染め抜いてある。金屋の前垂れを着けているのが何故か、そんなものは説明するまでもない。
「お前、金屋にいやがるのかっ?」
やっと立ち上がり、恒は砂を払いながら歯を食いしばった。そして、大きく息を吸うと男を見据える。
「だからどうしたっていうんです?」
それが開き直って見えたのか、男は牙を剥くようにがたがたの歯並びを見せた。
「金屋は花火屋だ。仲屋の敵だぞ。お前は何を考えてやがるんだっ?」
花火師は粋で、こんなふうにがなり立てる野暮であってはいけない。弱い相手に凄む、こんなのは心意気もない下の下だ。
だからつい、嚙みつくようなことも言ってしまう。
「あたしは自分の行きたいところへ行っただけです。金屋の花火は仲屋の花火よりずっといいですから」
七五三太を連れているのにこんなことを言ってはいけなかった。火に油を注いだのがすぐにわかる。
「なんだとこの役立たずがっ。お前に花火の何がわかるってんだっ」
「ちゃんとわかります。わかっていて言ってます」
駄目だと思いつつも、花火について言われると引けなかった。この性格は難儀なものだが直らない。
殴られたっていい。殴られたって言いたいことは同じだ。
この時、後ろにいたもう一人の男が大声で言った。
「金屋の花火がいい花火だって? それはお前さんが仲屋の技を金屋に売ったからだろうよ」
なんてことを言うのだと、ぎょっとした。そんなこと、あるわけがない。
それなのに、周りの人たちはざわめいた。
「なんて言いがかりを――っ」
あまりの憤りでとっさに言葉が出てこなかった。頭が痛くなるほど、これまでのどんな仕打ちよりも腹が立って仕方がなかった。
仲屋の仕事のどこに盗むほど値打ちがあるというのだ。手間をかけずに、数さえ作ればいいとだけ考えているのがわかる、ひどい有様なのに。
七五三太が泣きそうな顔でひたすらおろおろしている。
仲屋の連中は恒を嘲り笑い、野次馬たちはひそひそと囁き合った。
恒は――こんな騒がしい中にいながらも周りの音が遠く感じた。
それは、自分がその場の何もかもを拒んでいたからか。
急に一人きりに戻ったみたいだった。
金屋に来て、花火を触らせてもらえて、浮かれていた。けれど現状はこうだ。
恩のある金屋で一人前の花火師として活躍するどころか、自分はこんな悪評の餌食となって店に害を与えてしまうのだ。
女子だからという前に、恒は厄介者だった。百蔵が恒を認めない、その姿勢の方が正しかった。
この実情に、自分で自分に落胆した。
いつかは花火師になるなんて意気込んでいても、世間にとって自分は何者でもない。ただの子供だ。誰も求めていやしない。
そのくせ、邪魔にだけはなってしまう。
ずっと張りつめていたものがぷつり、と音を立てて切れた気分だった。
「お前のことはうちの旦那に知らせるからなっ」
そう吐き捨てて仲屋の連中は行ってしまった。
七五三太が恒に手を伸ばし、どうにか立たせようとしてくれた。いつまでもこうしていられない。
「お、お恒さん、痛いところはありやせんか?」
「平気。七五三太さん、ごめんね」
ふるふると七五三太はかぶりを振ったが、言葉はなかった。
「もう、帰りましょうか」
「あい」
花火はまだ終わっていない。ドン、と大きく地が揺れるような音が響く。目の端に花火の赤い色が映る。
けれども、いつまでもここにいるのは苦しかった。人々の目が冷たい。
このことは治兵衛や銀治の耳にも入るのだろうか。
そんなつもりはなかったのに、自分が金屋の看板に泥を塗ってしまったのだとしたら。
こんなに嫌なことはなかった――。




