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一刻花 ~弘化江戸火話~  作者: 五十鈴 りく
【参】想いを文に

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想いを文に〈八〉

 その翌朝、恒はいつも通り飯の支度をした。

 どんなことがあっても飯は大事だ。角太郎も何か食べられるといいのだけれど。


 しかし、角太郎は要らないと言ったらしい。銀治が首を横に振ったその仕草でわかった。

 金屋の皆で朝餉を済ませ、手を合わせた後に銀治が立ち上がる。


「お千鶴に線香をあげてくる」


 それを聞き、治兵衛も寂しそうに息をついた。治兵衛は昨日のうちに弔問に行ったそうだ。


「あんないい娘がなぁ。(つれ)ぇが、遺されたもんが泣いてばかりいちゃいけねぇな」


 銀治はかすかにうなずくような仕草を見せ、それから何故か恒を見た。

 角太郎の世話を頼まれるのかと思ったが、違った。


「お恒、お前も来い」

「えっ?」


 千鶴となんの繋がりもない自分がついていってもいいのだろうか。

 戸惑いが顔に出ていたのか、銀治に言われた。


「お前はついてくるだけでいい」

「あ、あい」

「鉄助、角太郎を頼む」

「へい」


 皆も奇妙には思ったかもしれないが、銀治が言うのならと呑み込んだようだった。

 一体、銀治は何を考えているのだろう。




 銀治と歩くと人の目が気になるし、女子(おなご)たちが騒ぐ。

 しかし今日は特に近寄り難い雰囲気を出していたので、いつもほど騒がれることがなかった。恒は三歩下がって、それでも遅れずについていく。


 千鶴の家は紙問屋だ。立派な店構えではあったが、今日は(あきな)っていなかった。ただ静かに、雨戸を閉じて娘の死を(いた)んでいる。


「うちの花火に使う紙もここから仕入れている。俺が生まれるより前からうちとは付き合いがあるんだ」


 花火には、間断紙(はさみがみ)や玉貼り用の紙、線香花火を包む紙、色々なところで幾種もの紙を使う。紙問屋にとっては得意先だ。


 銀治は入り口で息をつき、それから〈忌中(きちゅう)〉とあった雨戸に隙間を作る。

 すると、中からすぐに声が返った。


「あっ、金屋の若さん」

「話を聞いた。お千鶴に線香をあげてぇ」

「ええ、中へどうぞ。お嬢さんには旦那さんがついておられやす。お内儀さんは寝込まれていて、若旦那さんは葬儀の支度でおりやせん」


 開けてくれたのはまだ若い奉公人だった。

 声は落ち着いて聞こえたけれど、目を真っ赤にしている。


「ここまで悪かったとは、ちっとも知らなかった。早く知らせてくれりゃ、あの馬鹿の首根っこに縄をつけてでも引っ張ってきたのによ。――なんて、今更言っても詮方(せんかた)ねぇな」


 銀治がこういう過ぎ去ったことを口にするのはらしくないような気もした。それくらい、悲しいのだと思う。

 そんなことを考えていると、不意に銀治がこちらを振り返った。


「こいつはうちの女中のお恒だ。一緒に上がらせてもらうぜ」

「へい、お嬢さんも若さんに会えてお喜びになると思いやす」


 そう言って、若い奉公人は目を擦った。

 いつでも、人の死は悲しい。

 特に若い人の死は苦しい。


 閉じられた薄暗い店の中を歩き、板敷きから座敷へ上がる。すると、線香の匂いが漂ってきた。

 葬儀の支度で慌ただしさはあるけれど、人の声がほとんどしなかった。誰もがほぼ口を利かず、利いても囁くように小さな声だ。


 悲しみに打ちひしがれる中ではどんな言葉も無用なのだろう。

 重苦しい心を抱えたまま、恒は銀治の後ろに続く。


 障子の前の廊下で銀治が膝を突き、恒も座った。銀治がそこから声をかける。


「金屋の銀治です。お千鶴に線香をあげさせてくださいやせんか」


 すると、中からしわがれた声が返った。


「ああ、銀治さんか。ありがとう、一人かい?」

「うちのもんが一人おりやす」


 障子が向こう側から動いた。開けたのは、主――千鶴の父親だろう。

 げっそりと落ち窪んだ目をしている。祖父といってもいいくらいの年に見えたが、憔悴してそう見えるだけかもしれない。

 千鶴の父親は恒を見て意外そうに瞬いたが、深く尋ねては来なかった。


「銀治さんが会いに来てくれて、お千鶴も喜んでいるよ」

「――この度はお悔やみ申し上げやす」


 銀治は丁寧に頭を下げた。恒もそれに倣う。


「あんたみたいなお人を選んでいればよかったのになぁ。本当に、お千鶴は男を見る目がなかった」


 苦々しい声には嫌悪を越えた憎悪が滲んでいた。千鶴の父親の膝の上で強く握られた拳が色を失っている。


「角太郎は――」


 銀治が言いかけた言葉に、千鶴の父親はかっと目を見開いた。その名を二度と聞きたくないとばかりに。


「あいつはずっと前に江戸に戻っていたそうじゃあないか。()せっているお千鶴に会いに来ず、遊び惚けていたんだろう? 知っているさ」


 千鶴の父親の乾いた唇がぶるぶると震えていた。

 銀治はそのまま言葉を呑み込んだ。恐らく今はどんな言葉も意味を持たず、誰のためにもならないと感じたのだろう。


「お千鶴が息を引き取ってからあいつがのこのこやってきたんだ。お千鶴があいつに宛てて書いていた文を手文庫の箱ごと投げつけてやったよ。一目会わせてくれなんてよく言えたものだ」


 開いた手文庫から飛び出した文を、地べたに這いつくばって拾い集める角太郎の姿が目に浮かんだ。

 千鶴の父親の目から涙が零れ、顔の皺に沿って滲んでいく。見ているだけで心が痛い。


「会いたいのに、病んでやつれた顔は見せられないって、あの子は随分気にしていたよ。銀治さん、あんたも綺麗だった頃のお千鶴だけを覚えていてやってくれないかね」

「へい。本当に慈悲ってもんがねぇ世の中で」


 銀治の声が静かに、線香の煙と一緒に消えていった。

 千鶴の顔にかけられた白布は取り払われることがなかった。それでも、千鶴が寝かされている夜着には膨らみがなく、痩せて小さくなった体を隠せてはいない。


 とても長居はできず、銀治は頭を下げてその場を辞す。去り際に、恒は一度千鶴の父親を振り返った。

 深い悲しみと、捌け口のない怒り。そのふたつに心が乱されている。

 あまりにも悲しくて、その背中に向けて言ってしまった。


「角太郎さん、川に飛び込もうとしていました。今もとても悲しんでいます」


 こんなことは言うべきではなかったのかもしれない。千鶴の父親は振り向きもせずに肩を震わせ、吐き捨てた。


「そうかい。そのまま飛び込んでお千鶴に詫びに行けばいいんだ」


 角太郎が悲しんでいると言われても、そんなものは慰めにもならない。今は角太郎を恨むことしかできないのだ。

 銀治のざらりとした手が恒の手首をつかみ、引いた。余計なことは言うなとばかりに。


 恒は頭を下げ、銀治に引かれながら店を後にする。

 銀治の手は驚くほど冷たかった。


「どうして若はあたしを連れてきたんですか?」


 言わなくていいことを言っただけで、なんの役にも立っていない。それでも、銀治は怒っているふうではなかった。


 通りはうるさいのに、音が上手く聞こえない。心が聞くだけのゆとりを持てないからだ。

 銀治は背を向けたままで小さく答えた。


「なんでだかな」


 何故か、その声だけははっきりと聞こえた。

 意味はわからなかった。


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