想いを文に〈六〉
前の晩は色々とあったけれど、恒はしっかり眠り、朝には起きた。
七五三太と一緒に朝餉の支度から始め、特にいつもと変わりない日になりそうだった。
銀治も朝には平然としていた。ほんの少し顔色が優れない気はしたけれど、特別つらそうな様子は見せなかった。
昨晩は単に寝苦しかっただけなのだろうか。暑いのが苦手なのかもしれない。
また銀治がこっそり飲むかもしれないから、酒を買い足しておいた方がよさそうだ。
とはいえ、あまり酒ばかり飲んでいたらそのうちに体を壊してしまう。時々は買い忘れたと言って切らしてやろうかとも思うけれど。
そうしたわけで、昼餉の片づけを終えてから酒屋まで買い出しに出かけることにした。
大きめの徳利を抱えながら橋を渡る。
その時、橋の欄干に手を添え、ぼうっと川面を眺めている若い男を見つけた。
どこかで見知った顔だと思ったら、それは数日前に会った銀治の幼馴染の角太郎だった。
しかし、人違いかとも思った。それくらい、何かが違って見えた。
あの浮ついた軽々しさはなく、思い詰めて今にも川に落ちてしまいそうなほど前のめりになっている。背中に死霊でも乗っているのではないかと思えるほど、角太郎は暗かった。
――まさか。
あんなに楽しげにしていた人が、たった数日の間に何があったというのだろう。
声をかけるのを躊躇ったけれど、そんなことを言っていられなくなった。角太郎の体が欄干の向こうに向けて二つ折れになりかかっている。
「危ないっ」
とっさにそう叫んで駆け出し、抱えていた徳利を放って角太郎の袖をつかんだ。そのせいで小袖の襟が開いて崩れ、胸元まで肌が出たけれど、角太郎は直しもしなかった。
呆然と恒を見やるが、こちらのことなど見ていないように感じた。左の眉の上の方に痛々しい青痣ができている。
「落ちてしまいますよ、角太郎さん」
名を呼ぶと、角太郎は虚ろな目に涙を浮かべ、小さな子供のようにぼろぼろと泣き始めた。
年上の男が泣くところなど見たことがなかったので、恒はぎょっとして狼狽えてしまった。
「あ、あの、どうかされましたか?」
「――っが」
あまりに泣くから、上手く言葉になっていなかった。
困って、とりあえず角太郎の背中を擦った。
「ええと、何があったのか知りませんが、若のところに行きますか?」
うんとも、嫌だとも言わなかった。
本当に子供に戻ってしまったようだった。どうしたらこんなふうになってしまうのだろう。
放り投げた徳利がぱっくりと割れ、酒がすべて台無しになってしまったのを横目にため息をついた。誰かに、仕方がなかったと言ってほしい。
割れた徳利を拾い、もう片方の手で角太郎の袖を引いて金屋へ戻った。
角太郎の姿を見るなり、七五三太は驚いてひっくり返りそうになりながら銀治を呼んできてくれた。
銀治は何も知らされずに連れてこられたのだろう。ただ急かされて顔をしかめている。
「なんだってんだよ、まったく」
「で、でも、どう見てもただ事じゃありやせんって」
そんな声が聞こえた。
歩きながら少しだけ落ち着いたかに思えた角太郎は、銀治の顔を見るなりまたぶり返して泣き始めた。
そんな角太郎を見て、銀治は驚いてはいたけれど、どうしたとは尋ねなかった。
まるですでに事情を聞いたかのようにして、震える声でつぶやく。
「お千鶴が――嘘だろ?」
それを聞いた途端、角太郎はその場にくずおれ、耳を覆いたくなるような声で慟哭した。
事情はわからないままなのに、その声を聞いているだけで胸が張り裂けそうになる。知り合って間もない自分でさえそんなふうに感じたのだから、幼馴染の銀治はもっと思うところがあるだろう。苦しそうに目を細めている。
何事かと、奥から治兵衛まで出てきた。
「土間じゃなんだ。座敷へ上げてやれ」
立つ力も残っていないような角太郎を、銀治と鉄助が支えて奥へ連れていった。
恒は硬く絞った手ぬぐいと麦湯を持っていくことにした。
部屋には銀治と角太郎だけがいて、そっとしておいた方がよさそうだった。だから、持ってきた盆を置いて去ろうとした。
けれど、ぐったりと項垂れた角太郎が切れ切れに話し出す。
「ずっと、具合が、よく、ねぇって、文を、もらって、た。でも、俺の、気を、引きてぇ、だけ、だって――」
「信じちゃいなかったんだな」
銀治がため息と共に言葉を絞り出す。角太郎は目元を擦りながら大きくうなずいた。
「俺に、会いてぇって、ずっと、言って、て」
ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙を零す。
会いたかった角太郎に会えることなく、千鶴は息を引き取ってしまったということなのか。
その時、角太郎はどこにいたのだろう。別の女と遊んでいたのかもしれない。
千鶴には、また近いうち会いに行けばいい。そんなふうに思いながら。
だとするのなら、可哀想なのは目の前で泣いている角太郎ではなく、千鶴の方だ。
ただ銀治は角太郎の後ろの方をぼうっと、寂しそうな表情を浮かべて眺めている。
「――早すぎんだよ、馬鹿が」
それは千鶴に向けた言葉だったのかもしれない。




