想いを文に〈五〉
もうすぐ、夏になれば川開きだ。
花火師としては夏こそが本番だと言えるだろう。
大川に華々しく上げられる花火の多くは鍵屋によるところだが、他の花火屋も負けじと挑む。この金屋ももっと評判になればいいのにと恒は思う。
「あら?」
台所で徳利を手にしてみると、思った以上に軽かった。酒はこの間買い足したところなのに。
晩酌をするのは治兵衛だけのはずだが、誰かがこっそり飲んでいるのかもしれない。
百蔵は家に帰って飲めるが、他の職人たちは治兵衛が許した特別な日しか飲まない。
「なんでだろ」
ぼそりと独り言つ。
勘違いでないとも言えない。酒屋が、使いの女中は子供だから気づかないだろうと、気持ち少なめに注いだのでなければいいけれど。
仕方なく、急いで酒を買い足しに走った。
そんなことをしていたら、夕餉の支度が遅れてしまった。
豆腐田楽の焼きが甘いのは見逃してほしかった。
その夜。
恒は寝床に潜ってからはっと気づいた。
帰りが遅くなってしまったから、今日はすべてにおいて慌てていた。七輪を片づけた覚えがない。
火は間違いなく消したけれど、もう少し冷めてから片づけようと思って置いておいた。あのまま雨が降ったら困る。
今から片づけに行くのも嫌だけれど、気になったままでは寝つけなかった。
「――もうっ」
自分のせいだから仕方ないと割り切り、夜具から抜け出す。
薄暗がりの中、段梯子を踏み外さないように気をつけつつ下りていった。下手な物音を立てて皆を起こしたら大変だ。
そうして台所へ行こうとすると、かたん、と小さな音がした。縁側の方だ。
「盗人?」
思わずつぶやいてぞっとした。
ここは大店ではないが、盗人なら手あたり次第探るのかもしれない。
どうしよう、と足音を忍ばせて縁側の方へ向かう。すると、小さな瓦灯が縁側に置かれていて、その横に銀治が腰かけていた。
もうとっくに眠ったものと思っていたので驚いたが、盗人でなくてよかったと胸を撫で下ろす。
しかし、盗人――ではあったのかもしれない。銀治の手元にはぐい呑みと徳利が見えた。
「あっ」
思わず声を漏らすと、銀治は今にも飛びかかってきそうな猫さながらの鋭い目をして振り返った。
しかし、そこにいたのが恒だとわかると、銀治はいつもの銀治に戻った。もしかして、こちらが盗人と思われたのだろうか。
「なんだ、お恒か」
ふぅ、と息をつく。この時、銀治は妙に汗をかいていた。まだ真夏には早いのに、そんなにも寝苦しかっただろうか。
「お酒の減りが早いと思ったら若の仕業でしたか。飲むならそう言ってくれたら、もっと買い足しておいたんですけど。黙って飲むのはやめてください」
恒が銀治の隣に座り込んで文句を言うと、銀治は不味そうにぐい呑みの酒を舐めた。
「飲むつもりじゃなかったが、急に欲しくなった」
「なんですか、それは」
と、恒は呆れた。しかし、銀治はふざけている様子ではなかった。
苦りきった口調で小さく吐き捨てる。
「声がうるさくて、寝られやしねぇ」
「えっ?」
はっきりと聞き取れなかったが、訊き返せる気もしなかった。いつも以上に機嫌が悪い。
ただしそれは恒に向けられたものではないらしい。
「お前はどうした? 厠か?」
「違いますけど。女子にそういうことを訊くもんじゃありませんよね」
「三年早ぇ口を利くな」
またひどいことを言うから恒はむくれたが、銀治はくっと軽く笑った。それほど変わりはないように見えるが、多少は酔っているのだろうか。
「七輪を外に出しっぱなしにしてしまって、それを思い出したから片づけにきたんです」
ふぅん、と銀治はつぶやいて、また酒を舐めた。
欲しくなったというわりに美味しそうには見えなかった。渋いものでも口に含んだように顔をしかめている。
「外で転ぶなよ」
本当に子供扱いだ。
「転びません。若こそ、汗をかいたままこんなところにいたら風邪をひきますよ。ちゃんとしてから寝てくださいね。じゃないと、いい花火が作れません」
女中が偉そうに、と言われるかと思ったら、銀治は急に可笑しそうに笑った。今になってさらに酔いが回ってきたのかもしれない。
「いい花火な。作りてぇな」
「あい。あたしも作りたいです」
それはいつでも思っている。その思いだけならば銀治にも負けないつもりだ。
瓦灯の弱々しい明かりが光の輪のように在る。一度その灯を見やり、それから恒は立ち上がった。
「じゃあ、七輪を片づけてからもう寝ます。おやすみなさい」
軽く頭を下げたが、銀治は何も返してくれなかった。
かと思えば、恒が立ち上がって離れた後になってぽつりと言った。
「お前は、ここへ来てよかったと思うか?」
柱に寄りかかった銀治の顔は見えなかったが、声は穏やかだった。
「もちろん思っています。ありがとうございます」
それは嘘偽りのない本心だった。恒はここが好きだ。向島の我が家にいた時ほどの安らぎを感じていられる。
仲屋にいた時が長い冬で、ここへ来てようやく春が訪れた気がしていた。
「そうか」
銀治はそれだけしか言わなかった。
今日の銀治は少し変だ。それも酒のせいかもしれないけれど。
深く考えるのをやめ、本気で転ばないように気をつけながら軒下の七輪を半ば手探りで探し出し、台所の中へ入れた。
早く寝ないと朝になっても起きられなくなってしまう。あくびをしながら恒は部屋に戻った。
❖
――声がうるさかった。
苦しい。助けてくれと。
どこの誰だか知りもしない男の声だ。この世を彷徨う亡者の世話まで焼いていられないと銀治は耳を塞いだ。
それでも、声がよく聞こえた。そういう時季なのだ。
亡者が何か悪さをするわけではない。ただ悲しいと訴えるだけだ。
その訴えがやむことはなく、できることなどない。ただ聞こえるだけなのだ。
その声は、生者である銀治にとって苦痛でしかなかった。
だから、酒に逃げた。飲んで頭を空っぽにしたかった。それで寝られたらいいと。
それなのに、飲んでも酔えない。こんな飲み方では美味くもない。
声は相変わらずに聞こえていて、少しも眠たくならなかった。
目は冴え、冷や汗だけがじっとりと滲む。
こんなことばかりが続くと、さすがに参ってしまう。かといって、来るなと言って相手をしてしまうといけない。亡者が見えるのだと、声が聞こえるのだとつきまとわれる。
祓ってもきりがないのもわかっている。ただ放っておくしかないのだ。
縁側で酒を煽った後、水でも飲んだ方がましな気がしてきて嫌になった。酒の味に飽いた。
そうしていると、恒が来たから驚いた。
恒が夜分だというのに騒ぎ立てた途端、何故かふっと肩が軽くなった。
不思議なことに、恒は亡者を寄せつけない。亡者が恒を避ける。
この娘はまっすぐで、生きることに躊躇いがない。女子の身で花火師になるという無謀な信念を掲げ、それでも疑いを差し挟まずに毎日を生きている。
亡者にはその生き様が眩しすぎるのかもしれない。
そんなことを考え、思わず口元が綻んだ。
――そろそろ、眠れそうだと。




