弔い花火〈七〉
銀治は、少し前から恒の様子がおかしいと気づいていた。
思うところがあるのだと、手に取るようにわかる。
松吉の願いを突っぱねたことが気に入らないようだ。あんなに必死で金を貯めてきたのにひどい扱いだと。
何も松吉が貧乏だから客としていけないというのではない。
大尽だろうと貧乏人だろうと客は客だ。花火が好きで思い入れがあるのならそれだけでいい。
しかし――。
松吉の頼みを聞き入れるわけにはいかなかった。
女房を亡くしてから、松吉は一心不乱に金を貯めていた。
花火を上げるためだけに必死に働いていた。ひとつも贅沢などせず、切り詰めて切り詰めて貯め込んだのだ。
何が松吉をそれほど駆り立てたのか、銀治は気づくのではなく、知っていた。
松吉は、女房への弔いの花火を上げた後――花火を見届けたらそのまま大川に身投げをするつもりでいたのだ。だから、花火を上げた後に無一文になっても構わなかった。
花火を打ち上げれば、松吉のこの世への未練が切れてしまう。
女房のいないこの世には松吉を繋ぎ止めるものがないのだ。
早く女房のところへ行きたいと願っている。当人がそうしたいのならば仕方がないとは言えない。
あの世には融通などないのだ。身投げした松吉が女房と同じところへ行けるわけではない。
――それをずっと心配していた者が松吉のそばにいた。
だから、松吉の花火は上げてはならないと思った。
お前が死ぬつもりだから上げない、などとは言えない。どう言えばいいのか思いつかなかった。
生きろと、そんなことを偉そうには言えない。ただ頭が痛かった。
恒はそんな銀治の態度が気に入らないようで食ってかかってきたのだ。
それも当然かとは思うが、わけを言って聞かせてもどうせ信じないだろう。
だから、なんの弁明もしなかった。
そうしているうちに、恒が妙な動きを見せた。
夜になって店を抜け出したのだ。
もともと、来た時からおかしな娘だった。もしかすると、金屋の技を盗みに入ったのだろうかと考えたが、恒のような娘にそれは向かない。
それならば銀治に嫌気が差して逃げたか。
ただし、荷物らしきものは持っていなかった。提灯だけをぶら下げて出た。
放っておこうか迷ったが、結局後をつけた。
あれでも若い娘だから、夜道の一人歩きなんて馬鹿なことだ。
外で、待ち合わせをしていた。よりによって松吉と。
わけがわからないまま離れてついていくと、二人は川原の橋の下で線香花火で遊び始めた。
一体、恒は何を始めたのだろう。
離れているから二人の声は聞こえなかったが、何本目かの線香に火をつける頃になると松吉がむせび泣いていた。どうやら恒は線香花火をしながら松吉の話を聞いて慰めているようだった。
とんとんと背中を叩いている。
――そんな松吉の後ろに立つ影が、悲しそうに松吉を見下ろしていた。
仄明るい、月のような光を纏うが、その白さは経帷子だ。
死衣のまま、ずっと松吉を案じている。
自分がいなくなって松吉がどれほど苦しんでいるかを知るから、いつまでもそばを離れられない。
お前さんを恨んじゃいないんだよ。所帯を持ってくれてありがとう。
あたしはあんたの女房になれて嬉しかったよ。
それを声に出していても、松吉は少しも気づかない。ただ悲嘆に暮れていた。
生きてと願う声を、松吉は聞けない。
悲しげに漂うその女房の亡霊が、銀治には見えたのだ。
姿が見えたり声が聞こえたりしていても、自分以外の誰もその人に気がつかない。皆が同じものを見聞きしているわけではなく、自分にしか感じ取れないのだと気づいたのはいつだったか。
夏はそうした亡者の気配がとても濃い。眠れないほどに悩まされることもある。
花火師のくせに夏が不得手だなどとは言えない。むしろ、花火は鎮魂の意味を込めて始まったもの。花火の音は亡者を退けてくれる。
それでも、いつも銀治の周りには不穏な影がつきまとうのだ。
松吉の女房は、松吉を連れていこうとはしない。まだ来てくれるなと言い続けている。
ただし、それを伝えたところで松吉が信じるわけはない。銀治がこういう耳目をしていなければ、自分も人伝の話では信じないと思う。
どうしたら松吉の女房を安らかにしてやれるのかわからなかった。
見えて聞こえる、それだけなのだ。
けれど、ふと笑い声が聞こえた。
松吉が笑っていた。
開き直ったり、気が触れた笑い声ではない。恒と一緒に和やかに笑っている。
この時、松吉のそばにいた女房がほっとしたように揺らいで、そうして消えた。
今見たものが信じられなかった。一体何が起こったのだろう、と。
しかし、橋の下から出てきた恒と松吉の姿を見た時、松吉が別人のように生気を取り戻していると感じた。
相変わらず痩せこけてはいるけれど、首がまっすぐに前を向いている。
「お恒さん、ほら四文だ」
穴空き銭を松吉は恒に手渡そうとしていた。恒はくすくすと笑っている。
「毎度あり。今後も金屋をご贔屓にお願いします」
「ああ。楽しみに待ってるぜ」
恒はそこで別れた松吉に手を振り、提灯を手にこちらに向けて歩いてくる。
銀治は隠れるのをやめ、恒の前に立った。
その途端に、恒はひっと声を上げて提灯を落としそうになった。
「わ、若――」
奉公人が許しもなく店から抜け出していたのだから、叱られると思ったのだろう。恒は気まずそうに言い訳を考えていた。
「ええと、あの、その」
「松吉さんが別人みてぇだ。何をした?」
叱っているつもりはないが、自分の顔が怖いのは知っている。
戸惑いながら恒はつぶやいた。
「弔いの花火を」
「弔い?」
「あい。話を聞きながら、打ち上げ花火の代わりに線香花火で弔いました」
恒の答えが銀治には到底考えつかないようなものだったので、ただ驚いた。あれほど華々しい打ち上げ花火に固執していた松吉が線香花火で満足したのかと。
こちらが何も言わないからか、恒は慌てて口を動かす。
「四文しか使ってません。松吉さんが暮らしに困ることはないです」
線香花火の代金として四文ということらしい。
「それでいいと松吉さんが言ったのか?」
すると、恒はまた言いにくそうに目を逸らした。
「あたしが花火師になってから松吉さんのための打ち上げ花火を作るから、待っていてもらうことになりました」
恒は女中であって花火師ではない。本人はそのつもりかもしれないが、認められてはいないのだ。
勝手にそんな約束をしたせいか、叱られるのを待っているように首を竦めている。
しかし、叱るつもりなどなかった。
目の前のただの小娘が、自分が頭を抱えていた難問をあっさりと片づけてしまったのだから。
松吉は女房亡き後、死に向かってひた向きに生きていたと言ってもいい。
銀治はその想いを受け止めず、ほんの僅かに先送りにしたに過ぎない。恒は、そんな松吉に今生の未練を植えつけた。
松吉が本当に女子が花火師になどなれると信じたのかはわからない。それでも、もしそんなことが起こり得るのなら見てみたいはずだ。
恒の作る花火を。
花火師となった恒を。
「あの、こんな時分に勝手に抜け出してすみませんでした。それから、この前は言いすぎました。あたしが勝手に若を羨んで当たり散らしただけです。ごめんなさい」
そう言って恒が頭を下げたから、提灯の灯りが揺れた。
――変わった娘だと心底思う。
倒れるほどがむしゃらに働いたり、親しくもない相手のことに親身になってみたり。
恒は周りが見えなくなるほどまっすぐに自分を通す。
けれど、それで救われた者もいる。多分そこに銀治も含まれるのだ。
今、心が少し軽くなっていたのだから。
恒は案外、いい花火師になるのかもしれない。
人の想いを乗せた花火を、丹精込めて作ることができるという気がする。
ふと、気づけば銀治も笑っていた。
「変なやつだな、お前は」
変だけれど、それでいい。
二人といない、面白い女子だ。見ていてきっと退屈しないだろう。
「変って、あんまりです」
褒めたつもりが、褒め言葉とは受け取られなかったようだ。恒は口を尖らせた。
そこで恒の腹がぐぅ、と鳴った。
恒の顔が暗がりでも鬼灯のように赤くなるから、余計に可笑しくなった。
「飯も食えないほど具合が悪いんだったっけな」
「意地悪を言わないでくださいっ」
「帰るぞ。なんか残ってるといいが」
育ち盛りの七五三太が飯を残しておけるかは怪しい。
こちらが笑うからか、恒もほっとしたように笑って返した。
「あい」
恒の手から提灯を取り、先を歩く。恒は黙ってついてきた。
こっそりと恒は何食わぬ顔で台所に戻った。
ふと、銀治は思う。
二親はすでに亡いという恒だが、恒の周りにはどちらもいない。
父親も母親も、娘のそばで見守ってはいないのだ。
その身を案じていないはずはない。
それでもいないのは、娘を信じているからだろうか。
あの世で、恒が作る花火を待っている。
恒という娘のことを少し知った今、そんな気がした。
〈【弐】弔い花火 ―了―〉




