14.自由の値段
自由には、値段がある。
その言葉を聞いたとき。
僕は、少しだけ嫌な気持ちになった。
でも。
現実には。
たぶん、そうなのだろう。
研究には金が必要だ。
設備にも。
材料にも。
試験にも。
人間が動くには。
食事も住居も必要になる。
つまり。
理想だけでは。
翼は作れない。
そのことを僕は、嫌というほど分かっていた。
「桐生くん」
作業室の窓際で、紬が言う。
「さっきから同じページばかり見てる」
「本当に?」
「五回目」
「……そんなに?」
「そんなに」
机の上には。
企業からの新しい提案書がある。
前回とは違う。
今回の企業は。
開発費をほぼ全額負担すると言っている。
研究設備も。
試験施設も。
人員も。
必要なら、僕たち専用の研究棟まで用意する。
その代わり。
条件が一つ。
「自由に使える翼は、誰が持つべきか」
提案書の最後に。
その答えが書かれていた。
『当社が保有する技術として管理する』
僕は、その一文を見つめていた。
「すごい話じゃない」
紬が言う。
「うん」
「設備も人も、全部出してくれるんでしょう?」
「うん」
「だったら、受ければいいんじゃない?」
「……」
僕は黙った。
紬が不思議そうにする。
「どうしたの?」
「分からない」
「何が?」
「これを受けたら」
僕は提案書を指先で叩いた。
「僕たちは、何を失うんだろう」
◇
その答えを知るために。
僕たちはもう一度。
企業との話し合いの場へ向かった。
会議室には。
企業側の担当者が三人。
行政側から二人。
そして僕たち。
前とは違う。
今回は。
最初から雰囲気が重かった。
「まず、誤解のないように申し上げます」
企業側の代表が話す。
「我々は、皆さんの思想を否定しているわけではありません」
「はい」
「『自分で選ぶ翼』という理念にも賛同しています」
「ありがとうございます」
「ただ」
そこで一度、言葉を切る。
「理念を社会へ届けるためには、相応の投資が必要です」
資料を開く。
研究費。
製造設備。
安全試験。
物流。
整備。
教育。
保険。
すべてに数字が並んでいる。
どれも。
僕たちだけでは到底用意できない金額だった。
「我々が投資する」
代表は言う。
「だからこそ、一定の権利を持つ必要があります」
「はい」
「技術の優先使用権」
「……」
「製造に関する独占権」
「……」
「販売網の管理」
「……」
「そして、ブランドとしての管理」
僕は資料を閉じた。
「それを全部、御社が?」
「正確には、我々が中心となって」
「中心」
その言葉を。
僕は繰り返した。
「はい」
「一番上に立つ、という意味ですか?」
「効率的に運用するには、それが最善です」
代表は落ち着いていた。
きっと。
何度も同じ説明をしてきたのだろう。
「複数の企業でやるより、一つに集約したほうが早い」
「……」
「安全規格も統一できます」
「……」
「品質も管理できます」
「……」
「結果的に、利用者にとっても良いことです」
理屈としては。
間違っていない。
むしろ。
かなり正しい。
一つにまとめれば。
効率は上がる。
責任の所在も明確になる。
不具合が起きたときの対応も早い。
なら。
どうして僕は。
こんなに引っかかっているのだろう。
◇
帰り道。
僕は何も話さなかった。
紬も。
しばらく黙って歩いていた。
やがて。
「朔」
「うん」
「さっき、断りかけてたでしょう」
「……分かった?」
「分かるよ」
紬は笑う。
「私、前より朔の顔が分かるようになった」
「それ、少し怖い」
「どうして?」
「何でも見抜かれそうだから」
「もうだいぶ見抜いてるけど」
「……」
二人とも少し笑った。
でも。
すぐに僕は真顔に戻った。
「お金は必要なんだよね」
「うん」
「設備も必要」
「うん」
「だったら」
僕は歩きながら言う。
「何が嫌なのか、自分でも分からない」
紬はすぐには答えなかった。
そして。
「独占じゃない?」
「……」
「朔は、翼そのものより」
紬が続ける。
「翼の意味を、一つの場所に預けるのが嫌なんじゃない?」
僕は足を止めた。
「意味……」
胸の奥で。
何かがつながった。
翼は。
ただの機械じゃない。
僕たちが作ろうとしているのは。
人間の選択肢そのものを広げるものだ。
なら。
その翼の使い方や思想や未来まで。
どこか一つの組織が決めてしまえば。
結局。
『選べる翼』ではなくなる。
会社が都合のいい使い方を推奨するかもしれない。
行政が管理しすぎるかもしれない。
研究者が効率を優先するかもしれない。
利用者が利益だけを求めるかもしれない。
人間は。
間違える。
だから。
誰か一人に任せてはいけない。
「……なるほど」
「分かった?」
「少し」
「よかった」
「でも」
僕は空を見る。
「どうやってやる?」
「何を?」
「独占しないで」
紬は空を見たまま。
「たくさんの人に関わってもらうとか?」
簡単に言う。
でも。
それこそが。
一番難しい。
◇
次の日。
僕は行政へ相談を持ちかけた。
「企業との単独契約は、しないことにしたいです」
担当者が少し驚く。
「資金面では、かなり有利な条件ですよ」
「分かっています」
「それでも?」
「はい」
「では、どうするつもりですか?」
僕は。
前日に作った資料を出した。
「一社ではなく、複数に分けます」
「複数?」
「製造」
一つ。
「材料」
二つ。
「研究」
三つ。
「安全試験」
四つ。
「保守」
五つ。
「教育」
六つ。
「それぞれを、できるだけ別の組織が担う」
担当者が資料を見る。
「かなり非効率になりますよ」
「はい」
「コストも増えます」
「はい」
「調整も難しくなる」
「はい」
「それでも?」
「それでもです」
僕は答えた。
「効率より、分散を優先したい」
「なぜ?」
「一つが間違ったときに、全部が間違わないようにするためです」
担当者は黙った。
「企業には」
僕は続ける。
「お金を出してもらいます」
「はい」
「設備も借ります」
「はい」
「技術も教えてもらいます」
「はい」
「でも、翼そのものの未来まで渡したくない」
行政担当者は。
しばらく僕を見た。
「随分と大きな話になりましたね」
「……自分でもそう思います」
「あなたが始めた話なのに?」
「だからこそです」
僕は少し苦笑した。
「僕一人で決めたくない」
◇
その日の夕方。
澄乃が空中都市からやってきた。
「話、聞いたよ」
「早いね」
「空中都市でも噂になるくらいだから」
「また?」
「うん」
澄乃は笑った。
「で、断ったの?」
「独占契約は」
「どうして?」
僕は理由を説明した。
企業には協力してもらう。
行政とも連携する。
研究機関とも。
利用者とも。
でも。
一つにまとめない。
全部を誰か一人に預けない。
澄乃は最後まで聞いていた。
「……いいと思う」
「本当に?」
「うん」
「効率悪いよ」
「いいじゃん」
「いいの?」
「だって」
澄乃は、自分の翼を見る。
「翼を効率だけで考えたら」
「うん」
「速いものが一番になるでしょう?」
「……」
「でも」
彼女は僕を見る。
「私が選んだのは、速い翼じゃない」
胸の奥が。
少しだけ熱くなった。
「自分に合う翼」
澄乃は続ける。
「だから」
笑う。
「作り方だって、一つじゃなくていいんじゃない?」
僕は。
その言葉が好きだった。
翼だけじゃない。
未来の作り方だって。
一つじゃなくていい。
◇
夜。
僕たちは三人で作業室にいた。
机の上に。
大きな紙を広げる。
「まず行政」
僕が書く。
「それから企業」
澄乃が書く。
「研究機関」
紬が書いた。
「利用者」
「非利用者」
「教育」
「地域」
「安全」
どんどん増えていく。
一つの中心から。
枝がいくつも伸びていく。
それは。
最初は乱雑に見えた。
でも。
しばらく眺めていると。
不思議と美しく見えてきた。
「これ」
紬が言う。
「木みたい」
「木?」
「うん」
僕たちの世界を覆っている森。
一本の木だけでは。
森にはならない。
木々は。
互いに違いながら。
同じ大地で生きている。
「一つが倒れても」
紬が言う。
「全部が倒れるわけじゃない」
僕は頷いた。
それが。
今回作りたい仕組みだった。
絶対に失敗しない社会ではなく。
誰かが失敗しても。
全部が崩れない社会。
「でも」
澄乃が言った。
「それって、面倒じゃない?」
「すごく面倒」
「大丈夫?」
「分からない」
「またそれ」
三人で笑う。
笑ったあと。
僕は紙の端に。
一つの言葉を書いた。
『分ける』
その下に。
『共有する』
さらに。
『一人で持たない』
それが。
僕たちの新しい原則になった。
◇
数日後。
企業側へ返答を送った。
協力はお願いしたい。
資金も。
設備も。
技術も。
借りたい。
ただし。
一社による独占契約はしない。
複数企業が参加できる。
公的研究機関も参加できる。
利用者と非利用者の意見を聞く。
安全に関する情報は公開する。
そして。
長期的な意思決定については。
複数の立場で構成される協議体が担う。
返事は。
二日後に来た。
『条件について、再協議を希望します』
短い文章だった。
僕は。
それを見て少し笑った。
断られたわけではない。
でも。
簡単に通ったわけでもない。
たぶん。
これから何度も。
話し合うことになる。
それでいい。
すぐに決まらなくていい。
むしろ。
簡単に決まらないほうが。
いいのかもしれない。
大きな力を持つものなら。
時間をかけて。
慎重に。
いろんな人の手を通したほうがいい。
◇
その夜。
僕は一人で作業室に残った。
窓を開ける。
夜の空気が入ってくる。
遠く。
空中都市の光が浮かんでいる。
僕は。
以前なら。
その光を見て。
『いつか取り戻す』と思っていた。
今は違う。
あの場所を。
誰かから奪いたいわけではない。
ただ。
自分も。
行きたいときに行ければいい。
そして。
行きたくない人には。
行かなくていい道があればいい。
そのために。
翼がある。
僕は机の上の紙を見る。
企業から届いた数字。
行政からの条件。
研究者からの意見。
利用者からの希望。
非利用者からの不安。
どれも。
全部違う。
でも。
全部必要だった。
僕は新しい紙を一枚取り出した。
その中央に。
大きく書く。
『自由には、値段をつけない』
けれど。
そのすぐ下に。
小さく続けた。
『自由を支えるための費用は、みんなで負担する』
これが。
たぶん。
現実と理想の間にある答えだ。
自由そのものを売り物にしない。
でも。
自由を守るために必要なものには。
きちんと責任を持つ。
僕はペンを置いた。
ふと。
背後から声がした。
「それ、いいね」
振り向く。
紬だった。
「いたの?」
「さっきから」
「気づかなかった」
「集中してたから」
紬が紙を見る。
「自由には、値段をつけない」
「うん」
「いい言葉」
「本当にそう思う?」
「うん」
少し間を置いて。
「私、翼を返したとき」
紬が言う。
「自分の人生を、お金や制度で買い戻せるとは思わなかった」
「……」
「だから」
彼女は笑う。
「こういう言葉、好き」
僕は。
その笑顔を見ながら。
思った。
自由は。
空から降ってくるものではない。
誰かが与えてくれるものでもない。
たくさんの人が。
何度も話し合って。
失敗して。
やり直して。
それでも守ろうとすることで。
ようやく形になる。
だから。
この翼も。
僕一人の発明では終わらせない。
企業の製品にも。
行政の制度にも。
誰かの所有物にも。
しない。
飛ぶ人と。
飛ばない人と。
迷う人。
反対する人。
いろいろな人が。
それぞれの場所から関われるものにする。
僕は窓の外を見る。
夜空は。
何も言わない。
でも。
そこには。
無限の広さがある。
その広さに。
値段をつける人はいない。
なら。
僕たちが作る翼も。
同じであればいい。
高く飛ぶためだけのものではなく。
自分の未来を選ぶためのもの。
そのために必要なら。
面倒でも。
遠回りでも。
何度だって話し合う。
僕は。
新しい設計図を開いた。
そして。
今度は翼の形ではなく。
その周りにある『仕組み』の設計を始めた。
未来を作るのに。
必要なのは。
翼だけじゃない。
翼を。
誰のものにもさせないための。
新しい仕組みも必要なのだ。




