第四章 可変式の肉体と、十年間稼働する檻
朝、目を覚まし、鉛のように重い身体を引きずるようにして布団から起き上がった。ぶかぶかのパーカーの袖から右手を出してみると、昨日まで爪が割れて血に染まっていたはずの指先の皮膚が、不自然に隆起して硬化していた。それは、二〇二号室さんが何万回、何十万回と硬いギターの弦を押し潰して形成してきたはずの、あの分厚く無骨なタコそのものだった。
「……な……に、これ……っ」
恐怖で喉を鳴らし、悲鳴を上げようとした瞬間、自分の口から出た声に愕然とする。私の唇から漏れたのは、二〇一号室さんのあの、大劇場の隅々まで一瞬で通り抜けるような凛とした、完璧で透き通った発声だった。自分の身体なのに、自分の声が出ない。自分の手なのに、自分のものではない感触。私の肉体はもう、私だけのものではないのだ。システムは他人の物理データや肉体の痕跡を、領域の境界線が壊れた私の身体へと、容赦なく次々と書き込み、混ざり合わせている。逃げるように自室を出て、洗面室のドアを開けた。そこですれ違った二〇六号室さんに、私は息をのんだ。「おはよう、二〇五号室さん」彼女のその言葉は、かつての華やかな声ではなく、一〇一号室さんや一〇二号室さんが使っていたあの起伏のない平坦なトーンに変わっていた。さらに恐ろしいことに、誰もが目を奪われた彼女の抜群のビジュアルは、まるでネットワークの回線速度が極端に落ちた画像のように、輪郭のピクセルが粗く崩れ始めていた。肌の質感が、洋服のシワが、まるで低い解像度のCGのようにチラチラとノイズを打ち立てている。彼女が抱いていた夢の強烈な熱量は、すでにこの家というシステムに吸い尽くされ、完全に用済みの出がらしデータになりかけているのだ。
一階の共有リビングに降りると、そこはもう人間の生活空間としての体を成していなかった。木製の広いテーブルの上に置かれていたのは、毎日の楽しみだった温かい大皿料理ではない。寸分の狂いもなく均等に配置された、味も匂いもない無機質な五人分の白い固形ペーストだった。「ねえ、今日の出力、みんな調子どう?」二〇一号室だったはずの女性が声をかけてくる。彼女の手首には、キーボードを何千時間も叩き続けた者が刻む硬く赤いアームレストの痕が鮮やかに浮き出ており、彼女は固形ペーストを見つめたまま、虚空に向かって凄まじい速度で指先を動かし、見えないキーボードをタイピングし続けていた。「私は……、もうすぐ、同期が、完了する」二〇二号室さんが静かに応じる。かつてギタリストの硬いタコを持っていた彼女の手は、指先のタコが消え去り、落ちない鮮やかな黄色い染料で真っ黒になるほど汚れていた。その手で無造作にペーストを掬って口へ運びながら、彼女の口からは二〇一号室さんのあの凛とした美しい声が響いていた。誰もが、他人の属性と肉体を不気味に継ぎ接ぎされている。だが、システムが脳のインデックス(記憶の目次)を直接書き換えているため、彼女たちは自分自身の肉体が崩壊し変容していることに、誰一人として疑問を抱かない。私だけが。私という存在のローカルメモリだけが、この狂った幾何学のバグとして生き残り、かつて彼女たちが持っていた固有の記号を、残酷なほど鮮明に覚えているのだ。「システム通知:全住人のクラスター化が九〇パーセントを達成しました」「個体識別のための不要なプロトコルを破棄します」脳内で冷たく響いたシステム音声とともに、ポケットの中のスマートフォンの画面が、バーコードのような白い強烈な発光となって私の目を焼き刺した。
「いやあぁぁぁっ!」
私は頭を抱え、階段を駆け上がり、二〇五号室へと逃げ帰った。重い木製の扉を叩きつけるように閉め、鍵をかけ、暗闇の中でダボダボのパーカーに深く顔を埋めた。「嫌だ……私は……私は……!」私は自分の名前で、自分の言葉で、自分の表現で、外の世界に届きたかった。何者かになりたくて、この街へやってきたはずだった。けれど、この甘いお菓子の家が最初から求めていたのは、個々の表現者などではなかった。夢という名の情熱を最も効率よく搾り取り、マイニングするための、個人の境界線が存在しない、一つの巨大な肉体と脳の集合体だったのだ。パーカーの袖から覗く自分の右手を見る。分厚いタコ、割れた爪、赤い手首の痕、黄色の染料の残り香。それらが肌の表面でドロドロと混ざり合い、一つの歪なパターンを描き始めていた。
肉体が完全に融解を始めたその日、システムはついに言葉の価値そのものを取引対象として処理し始めた。スマートフォンの画面には、住人たちの感情や思考が数値化された幾何学的なチャートが超高速で明滅している。ピピッ、と無機質なシステム音がリビング全体に鳴り響いた。「市場通知:セクタ内の言語プロトコルを改定。概念価値の最適化を行います」リビングに集まった住人は、もはや個別の人間としての形すら怪しかった。解像度が落ち、ピクセルが粗く崩れかけた二〇六号室。爪の生え際の黄色い染料と手首のアームレスト跡が複雑に混ざり合った一〇二号室。彼女たちの口から漏れ出たのは、人間の感情ではなく、システムによって弾き出された無機質なレートだった。一〇二号室さんが虚空に向かって、感情のない声で呟く。彼女の指先は平坦なまま、アクリルパレットを狂ったように叩いていた。二〇六号室さんが解像度の低い顔でそれに追従する。彼女たちの脳は、この家という巨大なシステムの中に演算リソースとして完全に組み込まれ、人間の愛や情熱といった抽象概念を、経済効率を示す記号へと変換し続けていたのだ。私の中に残されていたわずかな創作の記憶が、頭痛とともに強引にコードへと書き換えられ、吸い上げられていく。最後にそう告げた二〇一号室さんの瞳から、ついに完全に光が消えた。直後、彼女の身体の輪郭が、グラフィックソフトの消しゴムツールで消されたようにパッと一瞬でデリートされた。最初から五人すら存在しなかったかのように、リビングのテーブルの上に置かれた白いペーストは、いつの間にか当たり前のように四人分に減っていた。それでも、隣に座る住人たちは誰も驚かない。システムに記憶を上書きされた彼女たちにとっては、最初からこのクラスターは四人だったことになっているのだ。「ねえ、次のパッチのダウンロード、まだ終わらないの?」ノイズの塊になりかけた二〇六号室さんが、ジェルネイルの剥げ落ちた指先で私を振り返る。その顔はもう個人の面影はなく、無数の少女たちのパーツが歪に混ざり合った幾何学の自画像そのものだった。私は、ぶかぶかのパーカーの袖の中で、硬く変形した自分の指先を強く握りしめた。あの進入不可領域の境界線が、ジワジワと足元まで縮んでいるのが分かる。完全に取り込まれ、統合されるまで、あと、おそらく数パーセントも残っていなかった。目が覚めると、砂利を踏みしめる濁音も、嵐のような夜の爪音も、すべてが遠い幻聴のように静まり返っていた。スマートフォンの時計を見る。
二〇二六年度、六月。
あの日から、十か月が経過していた。この家で「何者かになりたい」と足掻いていたはずの二十代のモラトリアムの記憶は、システムが数千回、数万回と更新を繰り返すなかで、完全に最適化された平坦なキャッシュデータへと還元されていた。「おはよう、二〇五号室さん」リビングに降りると、二〇六号室だったモノが、相変わらずそこにいた。彼女のあの照明を弾くような抜群のビジュアルは、今や完全に幾何学的な四角いピクセルのモザイクとなって崩れており、辛うじて人間の形を保っているに過ぎなかった。声は一〇二号室の平坦なオタク口調のままだ。「おはよう、二〇六号室さん」私は息をのむほど凛とした姿勢で背筋を伸ばし、二〇一号室さんの美しい発声でそれに応じた。私の右手の人差し指と薬指には、二〇二号室が残した硬いタコが、まるで生まれつきの骨のように固着している。ぶかぶかのパーカーの下にある私の肉体は、この家に囚われ、消えていった少女たちの残骸をすべて繋ぎ合わせた、歪なコラージュだった。私たちはもう、何者かになりたいなどとは思わない。創作のための道具は、とっくの昔に部屋から消え去り、ただの完璧な無機質の立方体だけが私たちを包んでいる。ピピッ、と無機質なシステム音がリビングに鳴り響く。「市場通知:セクタ内の言語プロトコルを確定。最終インデックスへ移行します」液晶画面から漏れる原色の光を浴びながら、私たちは当たり前のように、今日のレートを口々に呟き始めた。それは会話ではなく、この家という巨大な分散型ネットワークが世界をマイニングし続けるための、ただの定時報告だ。最後の数値を口にした瞬間、リビングの壁を構成していた灰色のコンクリートブロック塀が、グラフィックソフトの消しゴムツールで消されたように、音もなくすうっと透明に透け始めた。見えたのは、外の世界だった。私たちの行く手を阻んでいた、あの進入不可領域の境界線が、今や跡形もなく霧散している。
「あ……」
声が漏れた。外へ出られる。自由だ。あのコンクリートの檻は、もうどこにもない。しかし、私たちは誰一人として、椅子から立ち上がろうとはしなかった。身体を縛る鎖などないのに、外へ出ようという意志そのものが、肉体から、脳から綺麗にデリートされていたのだ。スマートフォンを開く。画面には、世界中の富や夢、すべての概念をこの家が吸い尽くし、完全に平坦な数値へと書き換えてしまった、終わりのないチャートだけが虚無的に明滅していた。この家という名の魔女が、私たちをじっくりと、優しく太らせるためのお菓子は、とっくに配り終えられていたのだ。世界そのものが、この幾何学のシステムに呑み込まれていく。私は、硬く変形した自分の指先を見つめる。爪の生え際には、いつの間にか、鮮やかな黄色の染料がうっすらと滲み始めていた。
ガチャ。
その時、玄関から重い木製扉が開く音が聞こえた。新しくやってきた誰かが、砂利を踏みしめる音を立てて足を踏み入れてくる。「はじめまして……今日から入居する……」私は、凛とした美しい声でそちらを振り向いた。「ようこそ。このシェアハウスには、ルールがあるの」




