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第三章 夜の爪痕と、分散処理される狂気

 一〇一号室なんて人間は、最初から存在しなかった。その冷酷な現実を突きつけられてからというもの、あの温かかった共有リビングの甘いモラトリアムは、ゆっくりと効いてくる底の割れた毒へと変わっていた。昼間、どれだけ仲良くゲームのコントローラーを握り合っても、どれだけ笑顔でくだらない雑談を交わしても、頭のどこかで冷たい計算が働いてしまう。次にこの家から消されるのは誰なのか。次にこの家が綺麗にリフォームされるとき、誰の形跡が消しゴムで消されるのか。その夜は、激しい嵐だった。外周を囲むコンクリートブロック塀を雨粒が容赦なく打ち叩き、不気味な濁音となって吹き抜けを駆け抜けていく午前二時。



ガリ。



 静まり返った自室で暗闇を見つめていた私の耳に、湿った硬い異音が飛び込んできた。境界線である隣室との薄い壁の向こうから、人間の剥き出しの生爪が、漆喰の壁を削り取るような音。



ガリ、ガリ、ガリ、ガリ。



 壁の向こうは、二〇六号室の部屋だった。昼間、誰よりも洗練された完璧な佇まいで、眩しい微笑みを浮かべていた二〇六号室さん。あのピンクのジェルネイルで飾られた綺麗な指先が、暗闇の中で狂ったように壁を掻き毟り、血を撒き散らしているのだ。「何者かになりたい」「私を見て」「消費されて終わりたくない」言葉にならない絶対的な渇望と焦燥が、壁を引っ掻くガリガリという爪音に凝縮されて響き渡っていた。私は恐怖で身体を丸め、毛布を頭から被って耳を強く塞いだ。深入りしてはいけない。詮索すれば、私も一〇一号室さんのように無効データとしてデリートされる。「……聞こえない、聞こえない……」私はただの二〇五号室。隣の住人の狂気やノイズに耳を傾ける義務などない。



その時だった。



 枕元に置いていたスマートフォンの画面が、パッと刺すような白い発光を放った。「システム通知:エラー検出」「バグ修正:二〇六号室のノイズデータを近隣セクタへ分散処理します」「え……?」直後、私の右手の指先に、焼けた鉄を押し当てられたかのような激痛が走った。「痛っ……あぁぁぁっ!?」私の意志とは完全に無関係に、右手が勝手に跳ね起きた。ブカブカのグレーのパーカーの袖から這い出した手首が、自室の壁に向かって強烈に突き立てられる。



ガリッ!



「嫌……! やめて……っ!」



 爪が割れ、生肉が削れる激痛。けれど、私自身の内側から、私のものではない強烈な「何者かになりたい」というドロドロとした渇望が溢れ出し、指先を自室の壁へ叩きつけさせる。壁の向こうで二〇六号室さんが立てる爪音と、私の指先が立てる爪音が、完全にシンクロしていく。二〇六号室さんの抱える狂気と負荷は、システムによって隣のセクタである私に分散処理として直接書き込まれているのだ。痛みに叫びながら、私は暗闇の中で指先を壁に叩きつけ続けた。



 翌朝。激しい嵐は去り、窓からは残酷なほど澄み渡った秋の光が差し込んでいた。洗面室の鏡の前ですれ違った二〇六号室さんは、滑らかなピンクのジェルネイルを施した美しい指先で前髪を整え、「おはよう、二〇五号室さん」と何事もなかったかのように眩しく微笑んだ。「……おはよう」私は引きつった笑みを返し、右手をパーカーの袖の中へ深く隠した。袖の奥で、私の右手の人差し指と薬指の爪は無惨に割れ、血と削れた漆喰で黒く染まっていた。彼女が傷つく代わりに、私の肉体が書き換えられていた。耐えがたい恐怖と痛みに耐えかねた私は、住人たちがリビングにいない隙を見計らい、消えた一〇一号室の痕跡と、この家の正体を探すべく動き出した。二階の回廊。かつて一〇一号室の扉があった場所の壁は、新築の資材のように滑らかで、継ぎ目一つ存在しない。だが、床と壁の境界線。巾木のわずかな隙間に、小さな異変を見つけた。新しく張り替えられたはずの白い床の隅に、ほんの数ミリだけ、黄色い油絵の具の乾いた破片が挟まっていたのだ。「やっぱり……一〇一号室さんは、確かにここにいた……!」手が震えた。やはり私の記憶は狂っていなかった。私は何かに憑かれたように、家中の不自然な隙間を調べ始めた。一〇一号室の壁の裏側に当たる、廊下の突き当たりにある押し入れ。扉を開けると、そこもまた新築のように真っ白な壁紙で覆われていたが、最下段のベニヤ板の隙間から、何かが挟まっているのが見えた。指先の痛みに耐えながらベニヤ板を剥ぎ取ると、奥の暗がりから、一冊の古びたノートが転がり落ちてきた。表紙は手垢と油で黒ずみ、ページは湿気で波打っている。震える手でそのノートを開いた瞬間、私の息が止まった。そこには、流れるような、だが筆圧の強い文字で、恐ろしい記録がびっしりと書き込まれていたのだ。「〇月〇日:一〇一号室が消えた。誰も覚えていない。廊下の天井が新しくなった」「〇月〇日:家が人を食べている。夢を失った者から順番に消される」「システムに記憶を書き換えられるな。自分の名前を忘れるな」「私は絶対に夢を諦めない」ページを捲るたびに現れる、消えていった住人たちの記録と、システムへの凄まじい抗いの言葉。「これ……なに……?」ノートに書かれた必死の狂気に圧倒されながら、私は最後のページを開いた。そこに書かれていた一言に、心臓が凍りついた。「これを読んでいる未来の私へ。私は二〇五号室。絶対に、この家から逃げ出せ」割れた爪は塞がらなかった。キーボードのキーを叩くたび、激痛とともに二〇六号室さんの「何者かになりたい」という凄まじい渇望が、私の神経を直接逆撫でする。私は自室でスマートフォンのマップアプリを開いた。画面の中で、現在地を示す青いドットが小刻みに震えている。駅から徒歩六分のはずのこのアパートだが、位置情報のアルゴリズムは、あの無機質な灰色のブロック塀の外周を、まるで世界の果てであるかのように三十一マイルの進入不可領域として誤認し続けていた。都市の縮尺と孤立した圏域の空間が不自然に歪んでいるのだ。外へ逃げ出そうと靴を履き、どれだけ歩いても無駄だった。足元で鳴るジャリジャリという砂利の濁音が無限にループし、霧の向こうを突き進んでいたはずの足は、気づけばいつも共有リビングの古びた木製扉の前に戻ってしまう。私たちは地理的な空間ではなく、情報のトポロジーによって、この幾何学の檻の中に幽閉されていたのだ。「ねえ、次のパッチ、もうダウンロードした?」リビングに降りると、二〇二号室さんが声をかけてきた。見れば、彼女の左手の指先から、あの何万回もギターの弦を押し潰してきたはずの硬いタコは綺麗に消え去っていた。代わりに私の右手の指先に、一〇一号室さんの黄色い絵の具を上書きするように分厚いタコが発現し始めていた。彼女の爪の生え際には、かつて一〇一号室さんが持っていたはずの落ちない黄色の染料がべっとりとこびりついている。「パッチって……何のこと……?」「この家の共有プロトコルの更新だよ。みんなで演算領域をシェアするの。その方が、効率よく『何者か』になれるじゃない」彼女はアクリルキャンバスに黄色い塗料を力任せに塗りつけながら、ガラス玉のような瞳で微笑んだ。その手つきには、かつて旋律を奏でていた音楽家の面影すらない。もう楽器の弾き方すら忘れているようだった。その時、リビングの巨大なテレビ画面が激しく同期ズレを起こし、歪んだ原色の文字列が滝のように流れ落ち始めた。「警告:総コンテンツ生成効率が低下しています」「クラスター内の全リソースを再最適化します」「レーティング変動検知」テレビのスピーカーから、そして住人たちの歪んだ口元から、機械的な合成音声が重なり合って低く響き渡る。無機質なシステムアナウンスが吐き出され、家の中に満ちていた甘い匂いが、ツンと鼻を刺す危険な揮発油の臭いへと変貌し、空間の視界がぐにゃりと歪む。



「あはは! 見て見て、私の新しいフォロワー数!」



 二〇六号室さんが無邪気にはしゃぎながら、スマートフォンの画面を突き出してきた。彼女が掲げた画面に映っていたのは、数字などではなく、二進数の「0」と「1」が超高速で明滅する不気味なコードの羅列だった。それでも彼女は自分が熱狂の中心にいると信じ込み、狂ったように室内を踊り回っている。モラトリアムは、夢を追う若者のための甘い猶予期間などではなかった。この家という巨大な分散型ネットワークが、私たちの脳と肉体を中央演算処理装置として利用し、生きた情熱と夢をマイニングするための冷却液に過ぎなかったのだ。夢を生み出す効率が落ちれば、システムは即座に住人の属性や記憶をシャッフルし、新たなパーツとして最適化する。「あぐっ……あ頭が……っ!」割れるような頭痛が私を襲う。見たこともない劇場の舞台袖の光景と、猛スピードでキーボードを叩くタイピング音が、一度に私の脳内へ直接流れ込んできた。背筋が劇場の役者のように不自然に引き伸ばされ、同時に手首の赤い痕が皮膚を抉るように深く深く染まっていく。私は必死で自室へ逃げ込み、木製の扉を固く閉めた。救い出してくれる他者の存在を定義するための「個人」という境界線そのものが、この三一マイルの檻の中で、今、完全に溶けて消え去ろうとしていた。激しい眩暈がおさまり、私は自室の床に突っ伏していた。床の上には、先ほど押し入れから持ち出したあのノートが落ちたままである。手垢と黒ずみに汚れたそのページを改めて視線で辿ろうとするが、激しい認知障害が頭を締め付けた。そこに書かれていたはずの筆跡は、もはや意味を結ばない歪な記号の群れにしか見えない。「私」へ向けられた切迫した叫びすら、脳内で白いノイズへ解けていく。「……なにこれ」私はその**記号の羅列**を見つめ、ぽかんと首をかしげた。「誰が……こんな記号を書いたんだろう」私の中で、何かが完全に書き換わっていた。このノートが、かつて自分自身の手によって書かれた叫びであることすら、今の私にはもう理解できない。自分の過去も、本当の名前も、記憶の彼方へ綺麗に消去されていた。


コンコン。



 突然、静寂を破って一階の玄関のベルが鳴り響いた。「はーい!」二〇六号室さんの明るい声が響く。重い木製の扉が開く音が聞こえ、蝶番がいつものように悲鳴を上げた。「初めまして。今日から入居する……二〇四号室です」外から聞こえてきたのは、かつての私と同じように、疲れ果て、夢に破れかけた、若い人間の怯えた声だった。「ようこそ!このシェアハウスには一つだけルールがあるの。お互いを深く知ってはいけない。名前も過去も全部NG」楽しそうな二〇六号室さんの声に誘われるように、私は部屋の扉を開け、一階のリビングへと階段を降りていった。新築のモデルハウスのようにピカピカに磨き上げられ、新しく貼り替えられた白い床紙。そこには、凛とした美しい姿勢で背筋を伸ばし、新しくやってきた入居者を優しく出迎える私の姿があった。「はじめまして」私は自分の本名を完全に忘れた可憐な笑みを浮かべ、通りの良い美しい声で、静かに言った。「私は……二〇五号室です」



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