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第二章 パンくずのログと、上書きされた肉体

 自室のパイプベッドの上で、私はスマートフォンの画面を指先でスクロールし続けていた。画面が放つ青白いLEDの光が、暗く四角い部屋の天井を不気味に照らし出している。二〇六号室さんのあの圧倒的なビジュアルと洗練された佇まいなら、広大なインターネットの海に何かしらの足跡やアカウントが残っているはずだった。フォロワーが何万人もいるインフルエンサーなのか、モデルなのか、あるいは大手事務所の凄腕トレーニーなのか。しかし、どれだけ検索ワードを変え、画像検索を叩き込んでも、彼女に該当するデータは一切見つからない。検索エンジンはただ無機質に「一致する情報は見つかりませんでした」と返してくるだけだ。それどころか、調べていくうちにゾッとするような違和感が背筋を走った。彼女が共有リビングで口にしていた「いま街で大流行している」というファッションのトレンドやSNSの流行語自体が、まるで十年前の死んだデータを無理やり引き伸ばしたように、不自然な静寂の中に埋もれているのだ。他の住人たちもまったく同じだった。一〇二号室さんが日々配信で視聴者を熱狂させているはずのゲームタイトル。一〇一号室さんが狂ったようにキャンバスへ塗りつけていたあの黄色の塗料の展示情報。二〇二号室さんが指先を潰してまで爪弾いていた荒々しいギターの旋律。どれだけ深く掘り進めても、ネットの海には彼女たちの痕跡がひとかけらも落ちていない。毎日この家の中で吐き出されている、あの圧倒的で高密度の熱量と創作のエネルギーは、外界のどこにも届いていなかった。



(まさか……)



 頭の奥で、恐ろしい推論が弾けた。このシェアハウスのWi-Fiルーターを通過した瞬間、私たちの創作物や活動データは、すべて外界のインターネットへ接続されているのではなく、「この家の中央サーバー」のような閉鎖領域へと一方的に吸い上げられているのではないか。ネットに漂っているように見えていた活動の形跡は、生きた痕跡などではない。システムが住人たちに「自分は表現者として世界と繋がっている」と錯覚させ、安心させて閉じ込めておくために生成した、いつかは揮発して消え去るキャッシュデータの模造品に過ぎないのだ。外界へ発信しているつもりで、私たちはこの幾何学の檻の中で、閉じた回路に向かって虚しく夢を垂れ流し続けている。



 コンコン、と控えめなノック音が静寂を破った。「二〇五号室さん、ちょっといい?」ドアの隙間から、二〇六号室さんがふわりと顔を覗かせた。手には焼きたてのお菓子の甘い匂いを漂わせた小皿が載っている。「焼き立てのクッキー、持ってきたよ。はい、どうぞ」「……ありがとう、二〇六号室さん」小皿を受け取りながら、私は彼女の指先に視線を落とした。昨日の早朝、洗面室ですれ違ったとき、彼女の右手の人差し指と薬指の爪は、何かに激しく抗うように根元から悲惨に欠け、痛々しい血が滲んでいたはずだった。だが、今の彼女の指先は、傷一つない滑らかなピンク色のジェルネイルで完璧にコーティングされている。皮膚の赤みすらも綺麗に消し去られていた。何事もなかったかのように可憐に微笑む彼女の姿に、胸の奥が冷たく締め付けられた。彼女たちはこの甘やかな檻の中で、自分でも気づかないうちに、じわじわと肉体と精神のデータを吸い尽くされている。夢という名の蜜を吸われ、出がらしになれば存在ごとデリートされる。パンくずのように撒き散らしていたログすらも、システムによって綺麗に掃除されていくのだ。(外に届かないデータなら……描いたって、書いて発信したって、全部無駄じゃないか)強烈な虚無感と恐怖が襲いかかってきた。私はポケットの中のスマートフォンを取り出し、画面を開いた。そこには、私が上京してから必死で書き溜めてきた小説のプロットや、何者かになるための構想テキストが詰まっていた。自分の魂そのものだと思っていた言葉の群れ。だが、この家から出られないのなら、外へ届かないのなら、こんなものはただのゴミだ。私たちは収穫を待つだけの、名もない記号でしかないのだから。私は自暴自棄な衝動に駆られ、ストレージに溜まったすべての創作データを長押しし、全削除のボタンをタップした。



その瞬間だった。



 スマホの画面が、目を刺すような激しい赤と白のフラッシュで激しく明滅した。「エラーコード:0x205」「インデックスエラー:二〇五号室のコンテンツ保有量が規定値を下回りました。空室:無効データとして処理を開始します」「え……? なに……これ……!?」機械的なシステム音声が脳内で直接響き渡る。視界が急激に歪み始めた。部屋の壁、天井の木目、パイプベッドの鉄の質感が、グラフィックソフトの低解像度ピクセル画像のように粗く崩れていく。自分の手足の感覚が、まるでデジタルデータのように末端から分解されていくのが分かった。意識が急速に遠のいていく。文字通り「私」という実存の輪郭が、幾何学の記号へと書き換えられていくような圧倒的な浮遊感と剥離感。「私は……私は、絶対に夢を……諦め……」抗おうとする言葉すら、幾何学的なコードの濁流の中に呑み込まれて消えた。システムはコンテンツを喪失して空室化しそうになった二〇五号室を維持するため、隣接する一〇一号室のデータを解体して回収し、穴埋めのメモリとして私の中に流し込み始めていた。



チュン、チュン。



 小鳥の爽やかなさえずりと、窓から差し込む優しい朝の光で目が覚めた。気づけば、私は一階の明るい共有リビングの椅子に座っていた。背筋はすっと一直線に伸び、凛とした美しい姿勢を保っている。下を向いて自分の手元を見る。爪の生え際には、一〇一号室さんのものだった鮮やかな黄色の塗料がべったりと染みついていた。着ていた洋服も、なぜか一〇二号室さんが着ていたはずのダボダボのグレーのパーカーへと変わっている。袖をめくると、右手首にはキーボードやアームレストに押し付けられていた硬く赤い痕が深く刻み込まれていた。「おはよう、二〇五号室さん」二〇六号室が、コーラを飲みながら明るく声をかけてくる。「……おはよう、二〇六号室さん」自分の口から出た声の美しさと通りの良さに、私自身が一瞬絶句した。まるで大劇場の舞台袖から客席の最後列まで一瞬で通り抜けるような、二〇一号室さんの持つあの凛とした完璧な発声だ。



……あれ?



 私は……どうしてこんな声が出せるんだろう?私は、さっきまで何をしようとしていたんだっけ?自分の頭の中を覗き込もうとすると、深い霧がかかったように記憶の糸が解けていく。私は……誰だっただろうか。何を追いかけて、この家へやってきたのだっただろうか。リビングの隅に視線を遣ると、昨日まで確かにそこにあったはずの「一〇一号室のドア」は跡形もなく消え去り、壁板は新品のモデルハウスのようにツルツルと磨き上げられていた。家が、また少しだけ、綺麗になっていた。



 その翌日。廊下に立ち込める異様な静寂の中で、私は自分の全身を覆う違和感に慄いていた。一〇一号室さんが消えた。あの日から彼女の部屋のドアの隙間から漂っていた油絵の具の甘い匂いは完全に消え失せ、冷たいコンクリートの無臭だけが廊下に充満していた。ドアがあったはずの壁の前に立つと、そこには何もなかった。壁を埋め尽くしていた無数のキャンバスも、床に飛び散っていた鮮やかな色彩も、使い古された木製のイーゼルも。格安の家賃と引き換えに宛がわれたその部屋は、家具の一つすら残されていない、ただの完璧で無機質な立方体の壁面へと還元されていた。まるでグラフィックソフトの消しゴムツールで、存在ごと一瞬でデリートしたかのような不自然な空白。息を呑んで振り返ると、すぐ後ろに一〇二号室さんが立っていた。彼女はいつもと変わらずフードを目深に被っていたが、その表情は酷く不透明だった。「……え?」困惑して自分の黄色の塗料がついた手とグレーのパーカーを見つめ、私はさらに言葉を失った。「一〇一号室さんが……消えちゃったの」私の震える問いかけに、彼女は前髪をゆっくりとかき上げ、ガラス玉のような瞳で見つめ返してきた。「なに言ってるの、二〇五号室さん。ここにそんな部屋番号の人、最初からいないじゃない」猛烈な悪寒が背筋を駆け抜けた。彼女の瞳には、嘘や誤魔化しなど一切なかった。心底から「最初から一〇一号室など存在しなかった」と信じ切っている眼差し。もしも彼女の本名や、外の世界での本当の姿を知っていれば、その言葉で繋ぎ止められたのかもしれない。けれど、彼女はただの「一〇一号室」という記号でしかなく、部屋が完璧な無機質の幾何学へと還元された以上、彼女という人間がこの世に存在した証拠は、バグを起こしかけている私の頭の中にしか残っていなかった。



ふと、足元の廊下に視線を落として、私は再び息を呑んだ。



 昨日まで確かに存在していた一〇一号室の扉の跡。その木枠があった場所は跡形もなく塞がり、古い板張りが染みついていたはずの床は、まるで新築のモデルハウスのようにツルツルとした真っ白な資材へと更新されていた。家が、一〇一号室さんを食べたのだ。人を一人飲み込むたび、この古い家は少しずつリフォームされ、新しく綺麗になっていく。住人の夢へのパッションという燃料をマイニングし、絞りカスになった人間をデリートして、その還元データで資材を新築へと書き換える。



 その日の夕食、一階の共有リビングの木製テーブルには、いつも通り当たり前のように五人分の大皿料理が並んでいた。「ねえ、来月のゲーム大会のタイトル、何にする?」二〇六号室さんが、ピンクのジェルネイルが施された綺麗な指先で炭酸水の缶を開け、シュワッと音を立てながら天真爛漫に笑う。消えてしまったはずの一人の存在は、リビングに満ちる甘いモラトリアムの熱量の中に綺麗に溶けて消えていた。誰一人として、一〇一号室の空白に疑問を抱く者はいない。私は部屋に戻る階段の途中で足を止め、消えてしまった一〇一号室のあった壁を見下ろした。完璧な立方体。夢を喪い、出がらしとなった人間を、その生きてきた形跡ごと綺麗にデリートして排出する冷酷な幾何学。私はブカブカのパーカーの袖をたぐり寄せ、そこに覗く自分の指先と手首の跡を見つめた。今、私の頭の中にある一〇一号室さんの記憶は、本当に私自身の記憶なのだろうか。それとも、自身のコンテンツ(小説)を消去してシステムエラーを起こした私に対し、中央サーバーが行き場を失った他人の属性や記憶を「二〇五号室」という私の領域に強制的に書き込み、分散処理として分散書き込みしただけなのだろうか。私が覚えている一〇一号室さんも、他人の属性であるはずのこの手首の赤い痕も、ぜんぶ他人の残骸に過ぎないのかもしれない。私の「声」が一〇一号室さんの役者の声へと入れ替わったように、私の肉体は他人のパーツでコラージュされ始めている。もし次に誰かが消えたら私の記憶は、私の肉体は、どこまで書き換えられてしまうのだろう。「私は……何者になりたかったんだっけ……?」降り積もる不気味な静寂の中で、私はたまらなく怖くなり、奪ってしまったパーカーのフードを深く被り直した。


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