第一章 砂利の記憶と、消えた一〇一号室
手のひらの上のわずかな小銭を数え、スマートフォンの画面で地図アプリを開く。「……徒歩六分か」千円札が一枚と、指先で弾くと寂しい音を立てる百円玉が四枚。それが今の私の全財産だった。東京という巨大な街の片隅で、自分の言葉や表現だけで生きていくのだと意気込んで上京してから、わずか三ヶ月。現実はどこまでも甘くなかった。バイトの面接には落ち続け、敷金礼金どころか毎月の家賃すら払えなくなるのは火を見るより明らかだった。完全な一人暮らしというささやかな夢は、口座残高という厳然たる壁にあっけなく阻まれたのだ。
「何者かになりたい」
その狂おしいほどの欲求だけをボストンバッグに詰め込んで辿り着いたのは、路線図の末端に位置する古い住宅街だった。線路の高架下をくぐると街灯の数は極端に減り、薄暗い路地が網の目のように広がっている。スニーカーの裏で鳴るジャリジャリという砂利の濁音とともに、無機質なコンクリートブロック塀が延々と続いていた。湿った土の匂いと、どこか甘ったるい焦げた砂糖のような臭いが鼻腔を突く。ブロック塀の切れ目に、一軒の奇妙な木造建築が佇んでいた。外界の喧騒から取り残されたような、グレーの塗装が剥げかけた二階建てのアパートメント。辿り着いた古びた木製の扉が、蝶番の悲鳴を上げて軋んだ音を立てて開いた。
「今日から入居する子?」
出迎えたのは、光を弾くような美しい金髪の少女だった。ダボつく黒のアウターを肩から羽織り、膝上丈のスカートから伸びる脚は驚くほど細い。彼女は足早に、建物の奥へと私を案内した。扉をくぐった瞬間、私は息をのんだ。外観のくたびれた木造の印象とは打って変わり、内部は中央が筒状に開けた吹き抜けの幾何学構造になっていたのだ。見上げれば、円形にくり抜かれた天井から澄んだ青空が見え、その向こうにはガラス細工のように煌めく高層ビル群が遠く霞んでいる。二階の回廊を取り囲むように、重厚な緑色のドアが規則正しく並んでいた。「102」「201」「202」「205」「206」ドアの上に打ち付けられた真鍮のナンバープレートだけが、それぞれの領域を示している。「このシェアハウスには一つだけルールがあるの。お互いを深く知ってはいけない。名前、年齢、職業、過去も全部NG。私のことは二〇六号室って呼んでね」彼女は立ち止まり、吹き抜けの手すりに細い身を乗り出して悪戯っぽく微笑んだ。「名前なんて、外の世界で余計な責任を背負わされるための記号でしょ?ここではそんなもの、誰も必要としてないの。夢を追うためだけの場所なんだから」
夕食時、一階の広い共有リビング。大きな木製テーブルの上に並べられた大皿料理を前に、住人たちはそれぞれの部屋番号の席についた。二〇六号室は、誰もが思わず目を奪われるほど綺麗な佇まいをしていた。洗練された髪のなびかせ方、完璧に計算された視線の配り方。常に無数のカメラや熱狂的な視線に晒される世界に身を置いている者特有の、強烈な華やかさが漂っている。「一〇二号室であります」小柄なオタク口調の少女が、ぺこりと頭を下げた。ブカブカのグレーのパーカーを着込み、フードを目深に被っている。袖からのぞく白い手首には、配信用の機材やキーボードを叩き続けるための、硬いアームレストの痕が赤く残っていた。彼女の瞳の奥には、マルチモニターの強い光を何千時間も浴び続けた者特有の、静かな狂熱が宿っている。「一〇一号室です」静かに微笑んだのは、ショートカットの控えめな女性だった。だが、彼女が手を動かすたび、爪の生え際にこびりついた鮮やかな黄色の染料が嫌でも目を引く。いくら洗剤で洗っても落ちないオイルペイントの残り香。キャンバスに向かい、世界を己の色彩で塗り潰そうとする画家の手がそこにあった。「二〇二号室」黒革のチョーカーを巻き、タトゥーを覗かせたパンクな装いの女性が短く告げた。彼女の左手の指先だけが、ギターの鋼鉄の弦を何万回、何十万回と押し潰してきた証として、信じられないほど分厚く硬いタコに変形していた。「最後に、二〇一号室よ」最後に立ち上がり、深く一礼した女性は、背筋がすっと一直線に伸びていた。彼女の口から発せられた声は、声量があるわけではないのに、吹き抜けの天井や部屋の隅々まで一瞬で通り抜ける凛とした響きを持っていた。劇場の大舞台で千人の観客を一瞬で黙らせる、本物の役者の発声だ。
「さあ、あなたは何号室さん?」
五人の鋭い視線が一斉に私へ集まる。彼女たちの肉体からは、それぞれの夢に対する絶対的な執着が、立ち上る炎のような圧倒的な熱量となって溢れ出していた。この場所にいる全員が、何者かになるために自分自身のすべてを投げ打っている。「私は……二〇五号室です」私は本名を、そしてこれまで積み上げてきたわずかな過去を、心の奥底にある暗い井戸の底へ投げ捨てた。私は絶対に夢を諦めない。そのためなら、名前すら捨ててみせる。そうして、不気味なほど甘やかで、不思議な一日が終わった。
「いっけえええ! そこ右!」「後ろから甲羅が来るって!」テレビ画面が放つ濃密な原色が、薄暗い共有リビングを色鮮やかに染め上げていた。一〇二号室が素早い指捌きでコントローラーのボタンを激しく打ち鳴らし、画面の中でトップを快走する二〇六号室が、コーラを片手に「あはは!」と無邪気に大笑いしている。月に一度のゲーム大会。それはお互いの過去やプライベートを一切詮索しないこの家で、唯一許された甘いモラトリアムの時間だった。二〇二号室が指先の分厚いタコも気にせずコントローラーを受け取り、二〇一号室が劇場の主役のような凛とした声で大声援を送る。一〇一号室が黄色く染まった指先でポテトチップスを摘み、テーブルの上に置いた。一歩外に出れば、「お前は何者でもない」「夢なんて叶うはずがない」という現実の容赦ない重圧が襲いかかってくる。けれど、このシェアハウスの中にいる時間だけは、私たちはあらゆる重力から解放されていた。本名もない、過去もない。ただの部屋番号という無機質な記号のまま、ジャンクフードの油で指先を汚し、くだらないゲームの勝敗に熱狂する。「二〇五号室さんも次交代ね!」二〇六号室が、汗ばんだコントローラーを私に向かって突き出してくる。「トップ、引きずり下ろしてあげる」受け取ったプラスチックの表面に残る、彼女たちの手垢の湿った熱が、たまらなく愛おしかった。ここにいれば、この温かい部屋の中に留まっていれば、いつまでも「夢を追い続ける純粋な若者」でいられる気がした。自分を脅かす厳しい現実は、あの頑丈な木製の扉の向こう側に遮断されているのだから。液晶の光に顔を照らされながら笑い合う私たちは、知る由もなかった。この居心地の良い甘い熱量こそが、この家が私たちを美味しくいただくために、優しく太らせるためのお菓子そのものだということを。
それから一ヶ月ほどが過ぎた、あるしとしとと雨が降る火曜日の朝だった。シェアハウスの二階廊下。中央の吹き抜けから落ちてくる雨音の静かな残響を聞きながら自室を出ると、一〇一号室のドアがわずかに数センチだけ開いていることに気づいた。いつもなら、朝の五時には一〇一号室から油絵の具の独特な甘臭い匂いが漂い、ペインティングナイフでキャンバスを削るガリガリという鋭い音が響いているはずだった。だが、今朝はその部屋から何の気配も聞こえない。完全な無音。静寂だけが溜まっていた。「……一〇一号室さん?」返事はない。気になってドアのノブに手をかけ、そっと押し開けた。「……え?」喉の奥で息が止まった。部屋の中には、何もなかった。足の踏み場もないほど散らばっていた絵の具のチューブも、壁に立てかけられていた無数のキャンバスも、匂いすらも一切存在しない。それどころか、最初から備え付けられていたはずのパイプベッドや木製のデスクすら綺麗に消え去っている。そこに広がっていたのは、グラフィックソフトの消しゴムツールで存在ごとデリートされたかのような、ただの完璧で真っ白な、無機質な立方体の空洞だった。
「一〇一号室……さん……?」
あまりの異様さに背筋を冷たい汗が伝う。その時、後ろから軽い足音が近づいてきた。「どうしたの? 二〇五号室さん。そんなところで固まっちゃって」振り返ると、一〇二号室が立っていた。息をのんだのは、彼女のたたずまいに対してではない。一〇二号室の右手の指先に、一〇一号室のものだったはずの黄色の油絵の具が、ベタリと付着していたからだ。「一〇一号室さんが……いないの。荷物も全部なくなってて、部屋が空っぽで……!」動悸を抑えきれずに訴える私を、一〇二号室は不思議そうに目を丸くして見つめた。「一〇一号室? なに言ってるの、二〇五号室さん」彼女は黄色く染まった指先で首元を掻きながら、小さく首をかしげた。「ここにそんな部屋番号の人、最初からいないじゃない」




