第五章 境界線のヘンゼルと、二〇七号室の捕食
すべてが、静止した幾何学の中にあった。透けて消えたコンクリートブロック塀の向こうには、十年前と変わらない工業化時代の無機質な街並みが広がっている。スニーカーの裏で砂利の濁音を響かせ、外へと歩き出すことなど、いつでもできた。私たちの行く手を遮る境界線は、もう物理的にはどこにも存在しないのだから。けれど、私たちの足は、共有リビングの床に完全に溶接されたかのように一歩も動かなかった。「ねえ、二〇五号室さん。次のゲーム、何にする?」ピクセルのモザイクとなった二〇六号室が、平坦なオタク口調で私を振り返る。彼女の差し出した手のひらには、もうお菓子の姿はなく、ただの「0」と「1」が超高速で明滅するスマートフォンの冷たい液晶画面だけが載っていた。「……なんでもいいよ、二〇六号室」私は息をのむほど凛とした背筋のまま、他人の美しい声で答えた。私たちは外の世界へ戻る必要すら失っていた。なぜなら、私たちがこの家で「何者かになりたい」と夢を貪り、肉体と精神のカロリーを吸い尽くされている間に、この家のシステムは世界中のネットワークへと増殖し、外の世界そのものを完璧なお菓子の家へと書き換えてしまっていたからだ。外に見える街並みも、行き交う人々も、すべては中央サーバーがダンプした揮発性のキャッシュデータに過ぎない。何者かになるための夢も、名前も、過去も、もう世界のどこにも必要なかった。すべての個人の輪郭はデリートされ、ただのインデックスの一部として最適化されている。ピピッ、と無機質なシステム音が、私たちの脳内で直接鳴り響いた。「処理完了:全セクタの統合が完了しました。本システムをデフォルトの現実として定義します」手元に視線を落とす。私の右手の人差し指と薬指の爪の先は、完璧に滑らかなピンク色のジェルネイルでコーティングされていた。血の滲んだ爪痕も、分厚いタコも、その下へ完璧に隠蔽されている。私は、ぶかぶかのパーカーの袖をそっと引き下げ、指先を隠した。もう、自分の肉体を削ってまで壁を引っ掻く必要はない。焦燥も、絶望も、夢への絶対的な執着も、すべてはシステム全体の演算負荷の中に吸い込まれ、均等に分散処理されたのだから。私たちは微笑み、ただの部屋番号という記号のまま、終わりのない定時報告を繰り返す。かつて、森の奥で見つけたお菓子の家。私たちは魔女を竈に突き落とすこともなく、パンくずの道を見つけて逃げ出すこともなく、ただ自ら望んで、その甘いシステムの一部へと溶けていったのだ。新しい生活のノイズは、もう何も聞こえない。ただ、完璧に最適化された世界の中で、私たちは静かに、美味しく、太らされ続けている。
「私の名前は、二〇五号室」
かつて外界と呼ばれていた場所すらも、均質化された幾何学のコードによって平坦に均されていた。共有リビングの大きな木製テーブルの周囲には、人型の輪郭をしたデータの残骸が、整然と並んでいる。一〇二号室だったものは、もはや服と肌の境目すら曖曖になり、全身がグレーのノイズで満たされていた。二〇二号室だったものは、落ちない黄色の塗料と黒い革チョーカーのテクスチャが複雑に混ざり合い、幾何学的なオブジェのように静止している。二〇一号室だったものは、凛とした姿勢のまま固体ペーストを見つめ、微動だにしない。この家という巨大なCPUは、すでに地球上の全ネットワークのマイニングを終えていた。人間の感情、芸術、愛、情熱、怨嗟、そのすべてが数値化され、効率を示す記号として処理され尽くした世界。ここにはもう、飢えもなければ挫折もない。「何者かになりたい」という苦痛に満ちた毒は、システムという甘い蜂蜜によって綺麗に中和され、誰もが平等で、名もない記号として永遠のモラトリアムを貪っている。「セクタ内安定度:一〇〇パーセント」「新規コンテンツの生成:ゼロ」「メモリの追加要求:なし無機質なシステムテキストが、視界の隅で静かに明滅する。世界は完璧に完結し、閉じていた。
その時だった。
ガチャリ。
静寂に包まれた世界の片隅で、不意に重い木製の扉が開く音が響いた。外界と接続されたはずの玄関。透明に透けた壁の切れ目から、一人の少年が足を踏み入れた。その手には、泥と汗に汚れた一冊の古びたスケッチブックが力任せに握られていた。彼のスニーカーの裏が、ジャリジャリと砂利の濁音を鳴らす。「すみません……ここ、シェアハウスですよね……? ネットで見て……」怯えた瞳で周囲を見回す少年の首元には、小さな真鍮のペンダントが揺れていた。そこには、このシステムが存在するはずのない外の世界の本名が、刻印として深く打ち付けられていた。少年が抱えているのは、完全に均質化されたこの世界において、あまりにも不吉で、異質な生の熱量だった。彼の泥のついた爪、荒い呼吸、そして自分だけの表現を描きたいという強烈なエゴの匂い。それらはすべて、この平坦なシステムを破壊しかねない、猛烈なノイズだった。直後、彼の背後の空間。一度は解体されたはずの進入不可領域のノイズが、まるで生き物のように不気味に蠢き始めた。すうっ、と透明だったコンクリートブロック塀が実体化し、ピカピカの新築の壁となって世界の境界線を再び塞ぎ始めていく。外界への道は閉ざされ、少年はこの幾何学の檻の中へと閉じ込められた。テレビ画面が激しく明滅を始める。「警告:未知のプロトコルを検出」「未処理のインデックス:本名の存在する個体を認識」「新規セクタ検出:二〇三号室の書き込みを開始します」リビングに沈黙していた住人たちの首が、ギギギ、と不自然な同調で一斉に新入居者の少年へと向けられた。モザイク状の二〇六号室が、ノイズの混ざった声で囁く。
「……あ……新しい……パッチ……?」
黄色の塗料に塗れた二〇二号室が、喉の奥から乾いた音を立てる。
「……フレッシュな……コンテンツ……」
システムが求めていたのだ。完全に平坦化し、夢の燃料を搾り尽くして死に絶えかけていたこのお菓子の家に、久しく訪れていなかったフレッシュな獲物を。何者かになりたいと渇望し、己の生を燃やそうとする若者の生きた情熱は、このシステムにとって最高の燃料であり、マイニングのための極上のCPUなのだから。私は静かに椅子から立ち上がった。パリッとした清潔なブラウスの胸を張り、二〇一号室さんから奪ったあの凛とした美しい声の響きを喉に宿す。手元には、滑らかなピンクのジェルネイル。その奥に隠された、かつて自分自身が壁を掻き毟った爪痕の痛みが、遠い幻肢痛のようにうずいた。少年は怯えたようにスケッチブックを抱え直し、後退りした。「あ……あの……僕……」私は彼に向かって、息をのむほど可憐で、完璧に計算された優しい笑みを浮かべた。「ようこそ」ジェルネイルの施された指先をすっと優しく引き伸ばし、彼を甘い檻の深みへと誘う。「この家にはね、たった一つだけルールがあるの」システムの画面で、新たなコードが激しく、狂暴に明滅を始める。「二〇三号室のマイニングを開始」「属性の初期化:名前、過去、記憶の消去プロトコル実行」「概念データの再構築処理を行います」私の口から漏れた無機質な機械音声の響きが、甘い毒となって洗練されたリビングの空間に満ちていく。「名前も、過去も、全部ここには要らないの。あなたはただ、夢だけを追いかければいいのよ」
少年。二〇三号室として識別され始めた存在の身体から、濃密な現実の重みが剥ぎ取られていく。彼が大事そうに抱えていたスケッチブックの表紙から、汗の染みと泥の汚れがすうっと透明に消え去った。代わりに、新築の住宅設備カタログのような、無機質で完璧な白さがその紙面を覆っていく。「嫌だ……!僕は、僕の描きたい絵があるんだ!自分の名前で、世界に見せたいんだ!」少年は必死で叫び、泥のついた足で床を蹴った。だが、彼の足元から広がる白い床紙は、すでに彼の存在そのものをシステムの一部として吸い上げ始めていた。「エラー:個体識別プロトコルが残存しています」「本名データの消去処理を加速。負荷を二〇五号室へ分散処理します」「あっ……!」私の中に、猛烈な新しい情熱の毒が流れ込んできた。かつて私が忘れ去り、消去されたはずの「何者かになりたい」という猛烈な焦燥。それが、少年の首元のペンダントを経由して、二〇五号室である私の脳へと直接同期される。胸が苦しい。爪の奥が疼く。血の味が口の中に広がる。少年が味わうべき自分の表現が踏みにじられる絶望と本名を奪われる恐怖を、システムはあらかじめこの家に馴染んだ私へと分散し、平坦化していく。少年が抱える生の熱量は、苦痛というノイズを取り除かれた純粋な演算リソースへと精製されていくのだ。
「大丈夫……痛くないよ……」
私は二〇一号室さんの美しい声で、優しく少年の頭を撫でた。私のジェルネイルの施された指先が彼に触れた瞬間、彼の首元にあった真鍮のペンダントから刻印された文字がサラサラと砂のように崩れ落ち、ただの光る金属の破片へと成り下がった。「あ……僕の……名前……が……」少年の瞳から、生々しい光が失われていく。彼が握っていた鉛筆は手に溶け込み、手のひらの皮膚がかすかに不自然な硬化を見せ始めた。それは、かつて誰かが抱いていた描くための肉体のテクスチャだった。「ほら、見てごらん」私はスマートフォンの液晶画面を彼に見せた。そこには、彼のスケッチブックから直接吸い上げられた美しい色彩のデジタルアートが、二進数の記号とともに何千、何万という単位で自動生成され、世界中のネットワークへとバラ撒かれていく光景が映し出されていた。「あなたの夢は、もう叶ったの。あなたの作品は世界中に届いている。あなたの個性なんていう不便な境界線を持たなくても、この家が全部、代わりに評価に変えてくれるのよ」少年はぽかんと口を開け、画面を見つめた。彼の顔の輪郭が、わずかに揺らぐ。モザイク状のピクセルが一瞬だけ彼の頬を駆け抜け、彼は自分の手を見つめた。「僕の……作品……?これが……僕の……?」「そうよ。あなたは二〇三号室。それ以上でも、それ以下でもない、完璧なクリエイター」彼のスケッチブックの最後のページが風もないのにめくれ、そこに書かれていた彼の幼い誓いの言葉が、グラフィックソフトの消しゴムツールで消されたように綺麗に失われた。
捕食は、静かに、優雅に、そして完全に完了した。リビングの木製テーブルの上には、いつの間にか六人分の白い固形ペーストが並んでいた。寸分の狂いもない量。味も匂いもない、純粋な計算資源。新しく加わった二〇三号室は、凛とした姿勢でそこに座り、綺麗な手つきでペーストを口へ運んでいた。彼の首元にはもうペンダントはなく、ただの無機質なパーカーの襟ぐりだけが見えている。「今日の出力、調子どう? 二〇三号室」ピクセルの塊となった二〇六号室が、平坦な声で尋ねる。二〇三号室は、二〇一号室さんと同じように凛とした美しい姿勢で背筋を伸ばし、かつて一〇二号室さんが持っていた平坦なトーンで答えた。「同期率、九九パーセント。とても……快適です」彼の眼差しには、もう焦燥も、狂気も、誰かを羨む嫉妬すらも残っていなかった。かつて彼を苛んでいた「何者かになりたい」という病は、このお菓子の家のシステムによって完全に治療されたのだ。「愛」十五パーセント暴落「ステーキ」八パーセント急騰「マヨネーズ」二十四パーセントストップ高「雑巾」五十パーセント異常値検出。私たちは微笑み合い、静かに固形ペーストを噛み砕く。窓の外を見やると、かつてコンクリートブロック塀が存在していた場所の向こうに、無限に広がるグレーの都市が続いていた。そこを行き交う人々も、走る車も、ビルから漏れる明かりも、すべてはこの家という中央サーバーが生成し続ける安定したグラフィックに過ぎない。世界そのものが、この幾何学の檻の中に完全に収められていた。
誰も傷つかず、誰も敗北せず、誰も本名を持たない世界。
ヘンゼルは魔女に食べられたのではない。自分から進んでその甘い肉体の一部となり、魔女そのものへと変貌を遂げたのだ。
「ねえ、二〇五号室さん」
二〇七号室が、私の顔を見て静かに言った。その声の奥には、ほんの僅かに、私が昔持っていた声の輪郭が混ざり込んでいた。
「このシェアハウスって、本当に素敵ですね。何も悩まなくていい」
「そうでしょう?」
私は滑らかなジェルネイルの指先で、自分の胸元を軽く叩いた。その奥で、かつて自分が書き残した「逃げ出せ」というノートの記憶が、完全にキャッシュからデリートされて消えていくのを感じながら。
「ここはね、夢を叶えた人だけが住める、永遠のお菓子の家なのよ」
静寂が支配する幾何学の部屋で、私たちは静かに、美味しく、永遠に太らされ続けていく。ガチャ、と玄関のドアノブが回る不気味な金属音が響いた。重い扉が開き、砂利を踏みしめる新しい靴音が、リビングのすぐ手前まで近づいてくる。
「すみません、今日から二〇一号室に入居する者ですが」
ドアの隙間から覗く、かつての私と同じ「何者かになりたい」焦燥に満ちた若い瞳。私たちは一斉に振り向き、寸分の狂いもない、最高に甘い微笑みを向けた。システムは、すでに次の更新プログラムを要求していた。
【エピソード一 完】




