第35話 父の闇 あの日から、ずっと。
ずっと、絶望と隣り合わせだった。
ユキがリヒトに連れ去られた、あの日から。
死に物狂いで何とかユキを取り戻したが、その時には既に、事態は取り返しがつかないところまで来ていた。
『妊娠してるの』
俯いたまま、小さくそう告げたユキの姿が、今でもタケルの脳裏に焼き付いている。
あの、地獄の始まりの日。
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あたり一面、漆黒の暗闇だった。
ここはルキヤの術中だ、とタケルは自身に言い聞かせる。
早くこの闇を破って、サチを助けにいかなければならない。…
そこまで考えて、タケルはふと、先ほどのサチの姿を思い出した。
『気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い』
汚い物を見るような憎悪の目をタケル達に向けて、壊れた機械のように気持ち悪いと繰り返していた。
ルキヤの術にかかっているんだ。
サチの本心ではない。
惑わされてはならない。
…でも、本当に?
ルキヤに連れ去られる前から、サチはタケルに不信感を抱いていた。
対話が足りない、と夢の中でユキは言っていた。
次にサチに会ったら、タケルが考えていた事を、全部包み隠さずにサチに伝えよう。そう思っていた。
だけどサチは、サチにはもう…俺の声は届かないんじゃないか?
ふと、前方に人影を認める。
目を凝らして見ると、若い頃のユキだった。
(いや…違う。これはルキヤが見せている幻影だ。)
タケルは深呼吸を1つする。
と。
『タケル!』
ユキが、昔見せてくれていたような屈託のない笑顔で、タケルを呼ぶ。
途端に、胸の奥がじぃんと熱くなる。
だめだ。
ニセモノだと分かってる、のに。
恋焦がれ続けた、愛しい人のキラキラと輝く笑顔から、タケルは目を離せなくなった。
ユキはタケルに近づき、両腕を背中に回してタケルを抱きしめた。
『タケル……愛してる。』
タケルは動けず、その場で固まる。
『タケルの優しさや強さ、タケルの声、タケルの体温、タケルのにおい。タケルの全部が、だいすきなの。…ずっと、そばにいて。』
タケルの目から、意図せずに涙が流れる。
頭がぼぅっとして、思考が奪われていく。
「俺も……俺も、ユキを、愛してる。」
タケルはユキの背中に腕を回して、強く抱きしめ返した。
温かい。甘く、柔らかいにおい。
ユキは幸せそうに、タケルの胸に顔を埋める。
ああ、これはユキだ。
ずっとずっと、探していた。
もう、離さない……
『……嘘つき。』
ユキの声色が、突然変わった。
タケルはハッとして、思わず後ずさる。
ユキの目は、氷のように冷たい。
『サチの事を、幸せにするって、約束したのに。』
『ねぇ…本当はサチの事を、邪魔だと思っていたんでしょ?』
『だってサチは、あなたの子じゃないから。』
ヒュッ、とタケルが息を呑む。
『ねぇ、本当は、サチなんて産まれなければ良かったって、そう思ってるんでしょ?』
『リヒトが私を抱いて、何度も抱いて、そうして私のお腹に宿ったあの子を、本当は認めたくないくせに…。』
『自分の罪悪感を晴らすために、理解のあるフリをしたんでしょう?』
「ユキ……やめてくれ……」
タケルは息も絶え絶えに、ユキに懇願した。
(違う。これは、ユキの偽物だ。ユキは最後に、幸せだったと言ってくれた…)
タケルは再び、必死で自身に言い聞かせる。
楽しかった思い出を何とか手繰り寄せようとするが、頭の中に靄がかかったようだった。
ふと、ユキの背後にもう1人、人影が現れた。
リヒトだった。
「………っ……!!」
リヒトは、背後からユキを抱きすくめる。
『ほら……言った通りだったね。
君は必ず、ユキとサチを不幸にする、って。
何故なら君は、アザイ家の人間だから。』
リヒトがタケルを見て、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべた。
「……ちがう!ユキは幸せだった、と、」
『へぇ?じゃあどうして、今こんな事になってるの?』
「それ、は……」
くく、リヒトが笑いをこぼす。
『君はまた、守れなかったんだろう。ユキだけではなく、サチまで。…奪われてばかりの、口だけのご当主様。』
リヒトが、タケルに見せつけるようにユキの首筋に口づけを落とした。
違う。
こいつらは幻影だ。
耳を貸すな。
タケルの頭の中で、警鐘が鳴り響く。
『幻影じゃない。』
ユキが、タケルの頭の中を見透かすように言った。
『これは、あなたの心の中。あなたが胸の奥底で抱えていた感情。』
「…ちが、う…。俺は、サチのことを、っ」
その時。
ドン、という衝撃と共に、タケルは前のめりに膝から崩れ落ちた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
振り返ると、
サチが、タケルの背中を包丁で突き刺していた。
「……、…っ!…」
遅れて、焼け付くような鋭い痛み。
ここは、虚構の世界のはずなのに。
タケルは床に倒れ込んで呻き声を上げる。
『あははっ、サチ、上手に刺せたね!
こいつの顔…傑作だよ!!』
リヒトがユキを抱きしめたまま、笑い声を上げる。
『苦しいだろう。…でも残念、まだ死ねないよ。
ねぇサチ。死ぬほどの痛みを、もっとこの男に味わわせてあげないとね。』
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、…
ぼそぼそと呟きながら、サチがタケルの背中に馬乗りになって、表情1つ変えずメッタ刺しにする。
「サチ……どう、して……」
愛していた。サチの事を。
血の繋がりがなくたって、タイチと分け隔てなく、愛情を注いできたつもりだった。
朦朧とする意識の中、返り血を浴びて真っ赤に染まったサチの顔をぼんやりと見る。
ユキによく似ているが、今はそこここに宿るリヒトの面影に、目がいってしまう。
ああ、とタケルは思った。
俺は今まで、サチの中の、ユキの部分しか見ていなかった。…いや違う、見ようとしていなかった。
サチは、ユキではない。
サチという命の半分は、リヒトから受け継がれている。
その揺らぎようのない事実から、俺は、目を背け続けてきたのだ。
だから、怖かった。
正面から、サチと向き合うのが。
絶対に幸せにすると誓っておきながら、サチの中のリヒトの影に怯え続けて、逃げ続けてきたのだ。
仕事が多忙なのをいい事に、家を不在にして、サチとなるべく顔を合わせないようにした。
その間サチが、あの家でどんな想いを抱えていたのか、気づきもせずに。
そして、サチの能力を無断で封印した時も。
『そう。それが、あなたの本性。』
ユキが、また見透かすように言う。
『偽善者で、嘘つき。優しいふりをして、私達を騙し続けた。』
タケルは、もう反論もできない。
そうだ。すべて、リヒトの予言通りになった。
俺はアザイ家の人間だから、ユキとサチを不幸にした。
そうだ、俺は。
リヒトに、負けたんだ。




