第34話 最後の保険
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
前回、俊平の中に隠されていた炉心は、燃えたいと教え込まれた存在であることが判明しました。
対話の末、炉心は初めて「燃えたくない」と意思を示し、自ら分散代替炉の設計を書き換えます。
しかし都市中央評議会の地下には、返還件数ゼロのまま熱を生む未登録炉がありました。
そこで燃えているのは、初代案内人アデル・ラート自身の帰還先です。
今回は、都市の最後の保険と呼ばれる地下炉へ向かいます。
それでは、第34話をお楽しみください。
分散炉の最初の熱は、一枚の給料袋から生まれた。
外周区の縫製工、マナ・ロウ。
未払い期間、六年と三か月。
工房主は死亡。
契約は百年分の返却口で「負担停止・利益保全」に分類されたが、支払う者がいなかった。
都市補償勘定から銀貨二十一枚が用意される。
マナが受領印を押す。
銀貨を数え終えた瞬間、机の下の小型交換器が淡く光った。
熱量、湯を一杯沸かす分。
「少ない」
燃料局の技師が鼻で笑う。
サマラはその熱で実際に湯を沸かした。
マナへ茶を渡す。
「六年待った人には、まずこれくらいでいいんです」
次は、届かなかった死亡通知。
次は、返された家の鍵。
次は、軍務局から外された退役番号。
小さな交換器が、都市中で一つずつ点灯していく。
一件では弱い。
百件で食堂の炉が安定した。
千件で鐘楼の保温管が黒炉から切り離された。
「同期率、十八パーセント」
セナが叫ぶ。
名称保留中の白い炉心は、第十三工廠の中央で燃えずに光っている。
返還が終わるたび、ばらばらな一拍を同じ時刻へ揃える。
熱を集めない。
必要な場所へ、その場で使う。
誰かが止めても都市全体は止まらない。
「完成まで何時間」
俊平が問う。
「今の速度なら五十一時間」
「黒炉は残り四十二時間です」
「知ってる!」
九時間足りない。
地下炉の出力を一時的に使えば間に合う。
だが、そこで何が燃えているか確認できていない。
ゲルトは接触を禁じた。
評議会は入口の存在すら否定した。
だから俊平たちは、正面から入ることにした。
都市中央評議会の大広間には、十三人の評議員がいた。
全員が同じ黒い手袋を着けている。
中央にはゲルト・ハイン。
燃料局長であり、最後の保険の管理責任者。
「地下設備の共同監査を申請します」
俊平が書類を置く。
「却下済みだ」
「却下理由が空欄です」
「都市存続に関わる機密」
「では、そこにある熱を分散炉へ使う申請だけを」
「却下」
「何を燃やしているんです」
「都市の保険だ」
「答えになっていません」
ゲルトの後ろで、評議員の一人が指を震わせていた。
若い女。
エルナ・サイス。
就任から三か月の外周区代表。
彼女だけ手袋の寸法が合わず、指先が余っている。
「局長」
エルナが言う。
「監査規則では、熱源に帰還情報が含まれる場合、共同監査を拒否できません」
「含まれていない」
「では測定を許可できるはずです」
広間が静まる。
ゲルトが彼女を見る。
「君の弟は、外周避難名簿の優先対象だったな」
脅しは穏やかな声で行われた。
エルナの顔から色が消える。
「席を失えば、弟の保護も再審査になる」
「それは別契約です」
俊平が割って入る。
「家族の保護を発言の対価にしないでください」
「工廠管理官に評議会の手続きは分からない」
「だから記録します」
リゼットの筆が走る。
ゲルトの目が細くなった。
エルナは震えながら黒い手袋を外した。
手のひらに地下炉の鍵穴が刻まれている。
「私が案内します」
裏切りだった。
評議会に対する。
同時に、弟の安全を危険へ晒す選択でもあった。
「保護条件を先に」
俊平が言う。
「今は時間が」
「だから先にします。あなたと弟さんの避難先、証言記録、報復禁止。七者監査で保全」
エルナは一瞬、苛立った顔をした。
それから小さく頷いた。
「条件を確認します」
地下への階段は、評議員の椅子の下にあった。
十三脚を同時に動かさなければ開かない。
エルナの手の鍵だけでは足りなかった。
残る十二人の評議員は座ったまま動かない。
「同意なしには入れない仕組みか」
グレンが舌打ちする。
「同意ではありません」
エルナが椅子の脚を示す。
黒い鎖が評議員の足首へつながっている。
「就任時から、立てないんです」
十三人は地下炉の固定具だった。
評議員の地位と引き換えに、身体を椅子へ預ける。
政策を決めているように見えて、最後の保険が止まらないよう座らされていた。
「本人意思を確認します」
俊平は一人ずつ尋ねた。
椅子から離れたいか。
十三人中、十一人が望んだ。
一人は保留。
最後の一人、議長ベロウズだけが拒否した。
「立てば都市が死ぬ」
老議長は言う。
「私の足など安いものだ」
「あなたの足だけではありません」
「全員が承知で座った」
エルナが首を横に振る。
「私は知らなかった」
「説明書を読まなかった」
「就任式で眠らされていました」
「証拠は」
エルナの手袋の内側に、鎮静薬の契約印が残っていた。
同意を取るために判断能力を奪う。
第九施療院と同じ手口だった。
「椅子の固定契約を、負担停止・地位保全へ分離します」
マグダが審理印を構える。
「評議員の職務は残す。身体拘束だけ停止」
議長が叫ぶ。
「保険が止まる!」
「監査の間だけ分散炉へ切り替えます」
「間に合わない!」
「間に合わせます」
俊平は断言した。
確信はなかった。
だが、誰かを椅子へ縛ったまま安全と呼ぶことはできなかった。
十一脚の鎖が外れる。
保留した一人の椅子には、本人が開けられる留め金を追加する。
議長は座り続ける意思を再確認した。
その意思も無視しない。
ただし他の十二人を道連れにはさせない。
十二脚が動く。
最後の一脚を残し、地下の扉が半分だけ開いた。
「通れます」
リィンが隙間へ耳を当てる。
「でも、下で誰かが帰る音を逆に鳴らしてる」
地下炉は、駅の形をしていた。
石造りの巨大な空間。
中央に二本の線路。
片方は元世界へ。
片方は外縁へ。
どちらにも列車は来ない。
ホームには無数の案内板が吊られ、行き先が一秒ごとに変わる。
自宅。
故郷。
第十三工廠。
未登録世界。
死亡。
忘却。
燃料。
その中央で、黒い仮面の人物が椅子へ座っていた。
胸から二本の線路が伸びている。
初代案内人アデル・ラート。
久世礼司。
そして、これまで名を替えた数百人分の顔が、仮面の下で重なっている。
「返還優先を確認」
案内人が言った。
「遅かったな、管理官」
「何を燃やしているんです」
「帰れた可能性」
ホームの下に、数え切れない切符が燃えている。
使われなかった帰還経路。
選ばれなかった故郷。
言わなかった名前。
迷った末に歩かなかった道。
人が一つを選ぶたび、残りの可能性はここへ落ちる。
案内人はそれを熱へ変えていた。
「本人が捨てたものだ」
ゲルトが階段から降りてくる。
兵士を連れていた。
「選ばれなかった道に権利はない」
「本当に本人が捨てたんですか」
俊平は燃える切符を一枚拾う。
リィン・ベル。
帰還先、父ヨナスが生きている鐘楼。
選べるはずのなかった道。
本人が捨てたのではない。
最初から存在しない可能性まで、契約機能が作り、燃料にしている。
次の切符。
イネス・ラート。
娘が母を覚えている家。
案内人が見せた幻と同じ。
「偽の帰還先を作って、選ばれなかったことにして燃やしている」
リゼットが言う。
「最後の保険は、可能性の偽造炉です」
案内人は否定しない。
「都市には熱が必要だった」
「なぜ自分の帰還先を燃やしていると言った」
冬一の搬送箱から声がする。
「偽造した道は、すべて私を通る」
アデルが答えた。
「案内人が案内した可能性は、案内人の帰還先でもある。私は一枚燃えるたび、戻れる名を一つ失う」
百十七年間。
数百の名。
数百万の偽りの帰還先。
都市は市民の可能性を燃やし、案内人も同時に削ってきた。
「止めたいですか」
俊平が問う。
「質問の意味がない」
「本人意思を確認しています」
「私は機能だ」
「白炉七名の一人、アデル・ラートでもある」
仮面の下で顔が動く。
一瞬、イネスに似た女の顔が現れた。
「その名は返した」
「なら今、呼ばれたい名は」
「ない」
「今は決めない?」
長い沈黙。
地下炉の炎が弱くなる。
「そうだ」
案内人が初めて、用意されていない答えを口にした。
「私は名を、今は決めない」
帰還保留権。
仮面に亀裂が入る。
ゲルトが兵士へ命じた。
「炉を維持しろ!」
黒い手袋をした兵士が切符を炎へ投げ込む。
熱出力が上がる。
「分散炉は間に合わない! これを止めれば九時間後に外周区が凍る!」
「分散炉へ接続します」
「偽造可能性の熱を使うのか」
「使いません」
俊平はホームの案内板を見る。
行き先を示すための巨大な網。
これは炉ではない。
分散した道を同期する設備だ。
名称保留中の炉心と同じ役割。
「炎を止め、案内網だけ借ります」
「案内人が外れれば道は崩れる」
「だから、道を一人に持たせない」
七本の避難路。
鐘楼。
帰還先保管庫。
死者会計局。
食堂。
施療院。
工廠。
都市中の交換点へ、案内網を分散する。
案内人が道を選ぶのではない。
各人が自分の返却先を選び、網は接続だけを助ける。
「私の機能を奪うのか」
アデルが問う。
「分ける許可を求めています」
「断れば」
「別の方法を探します」
「残り時間は」
「四十一時間」
「嘘だ」
案内人は笑った。
「この炉を止めれば九時間だ」
「はい」
「それでも待つ?」
「あなたを燃やして作った時間で、同意を急がせません」
ゲルトが俊平の胸ぐらを掴む。
「九時間後に子供が凍えても同じことを言えるか!」
「言えません」
俊平は答えた。
「だから今、別の交換点を増やします」
「理想論だ」
「作業計画です」
アデルが立ち上がる。
胸から伸びた線路が軋む。
「分散を許可する」
「条件を」
「案内機能の九割を都市へ貸す。所有は移さない。九時間後に自動返却」
「延長は」
「本人確認なしには不可」
「対価は」
案内人は俊平を見る。
「一つだけ、本当の道を案内させろ」
「誰を、どこへ」
「相模俊平を、元世界へ」
全員が息を呑む。
「帰還を強制する条件は認めません」
「違う。入口までだ。歩くかどうかはお前が決める」
アデルの足元に切符が現れる。
行き先、エリス帰還技研。
時刻、現在。
「元世界では、今もERISが作られている」
「目的は」
「この都市の代わりを探すためだ」
案内人は言った。
「次に炉へ固定する世界を」
相模工業は閉鎖された。
だが会社は名を変えた。
異世界へ白炉を送り、都市一つを百年以上支えた技術。
それを成功例として、次の世界を燃料網へつなごうとしている。
「止めるなら、元世界へ行け」
俊平は切符を見た。
二次帰還先。
帰りたかった世界。
だが今そこへ行くのは帰還ではない。
仕事だった。
「条件を追加します」
「言え」
「同行者。帰還時刻。第十三工廠への戻り道。元世界で取得した情報の共同保全。俺の帰還意思は到着後も変更可能」
「誰を連れていく」
俊平が答える前に、森川が一歩出た。
「私です」
相模工業の勤務記録。
元世界に本人の死亡記録がある存在。
「エリス帰還技研には、私の事故報告書を作った人がいます」
「個人的な目的がありますね」
リゼットが確認する。
「あります」
「公開して同行記録へ」
「同意します」
俊平も頷いた。
「同行者、森川澪」
分散作業が始まる。
アデルの胸から線路が七本に分かれる。
一本は鐘楼。
一本は死者会計局。
一本は第九施療院。
一本は帰還先保管庫。
一本は七本の避難路。
一本は第十三工廠。
最後の一本は、市民自身が持つ返却記録へ。
偽の切符を燃やす炎が止まる。
地下炉の熱出力がゼロになる。
同時に分散交換点が一斉に点灯した。
同期率、六十一パーセント。
黒炉の負荷が下がる。
残り時間、九時間から十五時間へ回復。
まだ足りない。
だが作業する時間は増えた。
ゲルトは地図を見つめ、膝をついた。
「保険が消えた」
「いいえ」
エルナが黒い手袋を燃えない床へ置く。
「一人を縛る保険が、みんなで返す仕組みに変わったんです」
老議長の椅子だけが地上で震える。
最後の一脚。
本人が座り続けると決めた椅子。
その意思もまた、次の審理まで残された。
「優先順位を更新します」
リゼットが台帳を開く。
「第一、十五時間以内に分散炉を完成」
「第二、アデルさんの案内機能を九時間後に本人へ返還」
「第三、評議員拘束契約の責任審理」
「第四、ゲルト局長による偽造可能性炉の運用記録を保全」
「第五、元世界のエリス帰還技研を調査」
「第六は?」
俊平は地下ホームに現れた切符を見る。
出発まで一時間。
戻り時刻は、こちらの世界で三時間後。
元世界で使える時間は不明。
「白炉七名の保全解除を、俺の不在中も停止する」
「誰へ管理を預けますか」
俊平は仲間たちを見る。
リゼット。
セナ。
ミルカ。
グレン。
サマラ。
リィン。
ノア。
一人ではなく。
「第十三工廠の共同管理へ」
リゼットが記録する。
「相模俊平の単独管理権、元世界滞在中は停止。七者のうち五者以上の同意を必須」
誰か一人が不在でも、工廠は動く。
管理官が帰るかどうかに、全員の命を縛らない。
それも分散だった。
切符の時刻が進む。
ホームの向こうに、元世界の白い研究棟が現れる。
玄関の看板。
エリス帰還技研。
その前に一人の男が立っている。
黒いスーツ。
顔には何もない。
名札だけが浮いている。
代表取締役、相模俊平。
俊平は自分の名を見た。
「あれは俺じゃない」
案内人が静かに答えた。
「まだな」
元世界では、俊平の帰還後の役職まで用意されていた。
帰る場所ではない。
帰った後に入るべき役割。
新しい身体のない契約が、玄関で彼を待っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第34話では、都市中央評議会の地下にある「最後の保険」の正体が明らかになりました。
地下炉は、市民が選ばなかった帰還先を燃やすものではなく、存在しない幸福な可能性を偽造し、それが選ばれなかったことにして熱へ変えていました。
案内人アデルも、偽造した道を一つ燃やすたびに、自分が戻れる名前を失っていました。
俊平たちは炎を止め、案内機能を都市中の返還工程へ九時間限定で分散します。
これにより黒炉停止までの猶予は十五時間へ延びました。
そして次の問題は元世界です。
エリス帰還技研は、次に炉へ固定する世界を探しており、その代表取締役にはすでに「相模俊平」の名が用意されています。
次回は森川とともに元世界へ渡り、自分の名を使う会社と対峙します。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




