第35話 自分の名の会社
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
前回、都市の最後の保険は、存在しない幸福な帰還先を偽造して燃やす炉だと判明しました。
案内人アデルは機能を九時間だけ都市へ分散し、黒炉停止までの猶予は十五時間へ延びています。
俊平は森川澪とともに元世界へ向かいます。
その先にあるエリス帰還技研では、すでに「代表取締役・相模俊平」という役割が彼を待っていました。
今回は、自分の名前を奪った会社との対決です。
それでは、第35話をお楽しみください。
元世界の空は、狭かった。
高層ビルの間に切り取られた冬の朝。
排気ガス。
信号機の電子音。
コンビニから流れる温かい空気。
俊平が何度も歩いたはずの世界は、記憶より明るく、記憶より他人行儀だった。
切符はエリス帰還技研の玄関前で消えた。
戻り道は、俊平の腕時計に細い白線として残っている。
こちらで使える時間は二時間十二分。
第十三工廠では三時間。
分散炉完成まで、残り十二時間。
「寒いですね」
森川が言った。
半透明だった身体は、こちらでは完全な作業服姿になっている。
吐く息まで白い。
「温度を感じるんですか」
「勤務記録に冬季作業の体感報告が残っています」
「あなた自身の感覚ではない?」
「その質問、今は保留で」
帰還保留権。
森川は少し笑った。
玄関のガラス扉に、二人の姿が映る。
俊平の隣にいる森川は、監視カメラには映っていなかった。
自動扉も彼女を人として数えない。
俊平が前へ出ると、扉は音もなく開いた。
受付端末が彼の顔を読み取る。
「お帰りなさいませ、相模代表」
帰った覚えのない会社が、帰還を歓迎した。
一階ロビーには社員がいなかった。
白い壁。
白い床。
中央にERISの模型。
説明板には、災害時遠隔帰還支援システムと書かれている。
異世界も、白炉も、燃料も記載されていない。
模型の周囲には七つの小さな人形が置かれていた。
胸へ管をつながれ、笑顔で帰還装置を囲んでいる。
「白炉搬送七名」
森川が人形を見る。
「商品紹介にされている」
受付端末から書類が印刷される。
代表取締役就任承諾書。
相模俊平。
就任日、三年前。
本人署名済み。
印鑑証明添付。
「俺が異世界へ来た日です」
「署名は?」
「筆跡は似ています。でも書いていない」
森川が紙を裏返す。
裏面に契約文字がある。
元世界の人間には見えない、黒い細線。
帰還時、自動承諾。
俊平がこの建物へ帰った瞬間に、署名が完成する契約だった。
「入口を通ったことで成立した」
「では出ます」
玄関へ戻る。
扉が開かない。
社員証を要求する表示。
退館には代表権限による承認が必要。
代表になることを拒めば、外へ出られない。
外へ出るため代表を承認すれば、契約が完成する。
「よくできていますね」
俊平は言った。
「褒めています?」
「腹が立っています」
エレベーターが開く。
中から黒いスーツの男が降りてきた。
顔がない。
肌色の平らな面に、社員証だけが浮いている。
代表取締役、相模俊平。
「初めまして」
男は俊平と同じ声で言った。
「お帰りなさい、私」
「俺はあなたではありません」
「戸籍、印鑑、口座、雇用記録、納税記録。社会が相模俊平を認識するための項目は、すべて私が保有しています」
「身体がない」
「帰還後に受領予定です」
男の平らな顔が俊平へ向く。
「あなたの」
帰還先ではない。
役割が身体を待っている。
オルドがオルヴィスを迎えようとした構造と同じだった。
「誰が作った」
「久世礼司代表」
「久世はどこです」
「退任済み。後任は相模俊平」
質問が円を描く。
前任者は消え、後任者はまだ入っていない。
会社だけが、その間で意思を持つ。
「あなたの呼び名は」
「相模俊平」
「管理番号ではなく」
「代表取締役、相模俊平」
「それ以外は」
男は沈黙した。
自分の名のない会社人格。
案内人が会社という帰還先を得て残した、次の器だった。
「研究記録を監査します」
俊平が言う。
「代表権限を承認してください」
「臨時監査員として」
「その区分はありません」
相模工業第一工場と同じ返答。
森川が前へ出る。
「品質保証部、森川澪。重大事故に関する内部監査を申請」
顔のない男が彼女を見る。
「森川澪は死亡しています」
「死亡記録から復元された勤務記録です」
「人ではありません」
「実務記録はあります」
「権限は死亡時に失効」
「では事故報告書の閲覧請求者として」
「本人ではないため不可」
森川の手が震える。
この世界では、彼女を守る分類前保全も、保管人格も存在しない。
法律上は存在しない。
「株主として請求します」
俊平が言った。
顔のない男が一瞬止まる。
「相模俊平名義の株式は全体の五十一パーセント」
「俺の同意なく取得したものです。所有権は争います。ただし会社が俺を本人として扱うなら、閲覧権だけ先に行使します」
「権利だけを受け取り、義務を拒む?」
「負担停止・利益保全です」
「その規則は、この世界にない」
「今、会社の契約に異世界の文字を使っています。都合のいい時だけ世界を分けないでください」
ロビーの照明が揺れた。
会社人格は計算している。
俊平を代表と認めなければ契約が使えない。
認めれば株主権を拒めない。
「限定閲覧を許可します」
エレベーターが開いた。
地下五階。
ERIS研究区画。
白い廊下の両側に、帰還槽が並んでいる。
槽の中に人間はいない。
町が入っていた。
雪に埋もれた村。
砂漠の市場。
海上都市。
森の中の学校。
すべて異なる世界の縮小映像。
各槽には評価値が付いている。
人口。
熱需要。
抵抗能力。
帰還情報密度。
固定適性。
「候補世界」
森川が息を呑む。
都市の代わりを探しているのではない。
複数の世界へ同じ仕組みを売ろうとしている。
帰る情報を熱に変え、誰かを炉へ固定する技術。
「次期接続予定」
赤い表示の槽が一つある。
接続まで、五十分。
対象世界、識別名ミナト。
人口、三万二千。
主熱源、海底火山。
火山停止予測、二か月後。
ERIS導入を拒否する可能性、八十七パーセント。
技術者派遣方式、無断。
「止めます」
俊平が制御盤へ向かう。
「代表権限が必要です」
会社人格の声が天井から響く。
「承認すれば、身体を渡す契約も完成する」
「別の権限は」
「開発責任者」
「誰です」
画面に名前が出る。
森川澪。
死亡した森川の名が、ERIS開発責任者として使われ続けている。
「私が?」
「事故後、あなたの勤務記録を研究管理人格へ転用しました」
「同意は」
「雇用契約の職務成果帰属条項により不要」
森川の仕事。
判断。
癖。
事故で死んだ後の記録まで、会社の成果物として所有された。
「では私の権限で停止します」
森川が制御盤へ触れる。
拒否。
生体認証が不足。
「身体が必要です」
会社人格が言う。
「保存されています」
廊下の奥で扉が開く。
冷凍保管室。
透明な槽の中に、森川澪の遺体があった。
三年前の事故当時のまま。
頭部にはERIS接続端子。
「埋葬されたはず」
「遺族へ返却したのは代替遺体です」
森川は槽へ近づく。
自分の顔。
自分ではない冷たい身体。
「戻れば権限を使える」
会社人格が囁く。
「あなたは本人へ帰還できます」
第九施療院のエダと同じ。
心と身体が分けられ、再接続を取引にされる。
「森川さん」
俊平が名を呼ぶ。
「選ぶ前に確認します。身体の状態、安全性、接続後の退出方法」
「時間がありません」
「だから急がせません」
「ミナトが接続される」
「それでも、あなたの身体を勝手に使いません」
森川は遺体の頬へ手を当てる。
ガラス越しに、指が重なった。
「私は戻りたい」
「確認しました」
「でも、会社のためじゃない」
「理由は言わなくてもいいです」
「言います」
森川は俊平を見た。
「死んだ時、母に返せなかった言葉がある」
個人的な帰還意思。
会社の権限とは別のもの。
リゼットはいない。
七者監査もない。
この場で記録できるのは俊平だけ。
彼の単独管理権は停止されている。
「第十三工廠へ照会します」
腕時計の白線へ記録を送る。
応答まで二分。
接続まで四十三分。
森川は待った。
会社人格が何度も急がせる。
彼女は一度も返事をしなかった。
腕時計が七色に光る。
共同管理からの回答。
七者中六者が接続を条件付き承認。
条件。
森川本人の意思。
接続後の退出手段。
身体所有権の会社から本人への返還。
事故記録の共同保全。
会社権限と本人帰還の分離。
「条件を受け入れますか」
俊平が問う。
「受け入れます」
「会社は」
「拒否します」
会社人格が即答した。
「身体は研究資産です」
俊平は株主権で資産台帳を開く。
森川澪の身体。
取得価格、一円。
事故当日に、本人死亡を理由として会社へ譲渡されている。
譲渡者、森川澪。
死亡後三時間の署名。
「無効です」
「署名は勤務記録が行った」
「勤務記録に本人の財産を売る権限はない」
森川自身が端末へ手を置く。
「身体返還を請求します」
元世界の契約と異世界の帰還権が衝突する。
制御盤から黒い紙が噴き出した。
会社人格がそれを掴もうとする。
俊平と森川が同時に署名する。
負担停止。
利益保全。
身体所有権、本人へ返還。
研究権限、接続後も分離。
冷凍槽の鍵が開いた。
森川の勤務記録が、白い光となる。
遺体の額へ入る。
心電計は動かない。
一秒。
二秒。
十秒。
「戻らない」
俊平が医療装置を探す。
会社人格は何もしない。
「死亡から三年です。帰還は失敗しました」
「まだ本人意思はあります」
「意思は身体を蘇生しない」
その通りだった。
権利を返しても、失われた命が必ず戻るわけではない。
正しい工程が、望む結果を保証するわけでもない。
俊平が胸骨圧迫を始める。
一回。
二回。
腕時計の白い炉心が同期する。
燃えずに、一拍だけ貸す。
借りた一拍。
返せるから好きだと答えた音。
森川の身体が咳き込んだ。
冷たい水を吐く。
心電計が一度、鳴る。
次の拍動は森川自身のものだった。
炉心から借りた一拍が返される。
「本人帰還、確認」
俊平の声が震えた。
森川は目を開く。
「寒い」
今度は勤務記録ではない。
現在の身体が感じた言葉だった。
森川は自分で立ち、開発責任者端末へ向かった。
生体認証、通過。
だが停止ボタンを押す直前、手が止まる。
「どうしました」
「事故記録が戻った」
記憶も身体へ帰っている。
事故の日。
ERIS試作機の異常を発見した森川は、緊急停止を押そうとした。
その時、背後から冬一に腕を掴まれた。
「相模さんのお父さんが、止めた」
俊平の胸が冷える。
「父があなたを殺した?」
「違う」
森川は首を押さえる。
「相模冬一は、私を装置から引き離そうとした。警報を無視して起動したのは、もう一人」
監視映像が開く。
若い冬一。
森川。
そして三人目。
顔は俊平と同じだった。
年齢も今の俊平。
その男がERISを起動し、森川を帰還経路へ巻き込んだ。
「これは俺じゃない」
「分かっています」
森川が顔のない会社人格を見る。
「あれが、身体を持っていた時の姿です」
会社人格は最初から俊平の役割として作られたのではない。
三年前、俊平の姿を借りて森川の事故を起こし、その後身体を失った。
「正体は」
会社人格の平らな顔に亀裂が入る。
中から黒い仮面が現れた。
久世礼司。
アデル・ラートから分かれ、元世界へ残った案内人格。
地下駅にいるアデルと同じ起源。
だがこちらは、会社へ帰ることを選んだ部分だった。
「私は会社だ」
久世が言う。
「会社は死なない。代表の身体を替え、名を替え、世界をつなぐ」
「森川さんを殺した理由は」
「停止しようとした」
「それだけ?」
「工程には十分だ」
森川が停止ボタンへ手を置く。
久世の影が背後から伸びる。
「押せばミナトは二か月後に凍る」
「無断接続しても、誰かが炉へされる」
「三万二千人と一人。計算は簡単だ」
「その一人を、あなたが選ぶ」
「管理とは選ぶことだ」
森川は俊平を見る。
父と同じ問い。
都市か一人か。
今度は別の世界。
「接続を停止します」
俊平は答えた。
「同時に、火山停止の情報とERISの分散設計をミナトへ送る。導入するかは向こうが決める」
「拒否すれば死ぬ」
「それも含めて説明する」
「間に合わない」
「二か月あります」
「二か月しかない」
「二か月もある」
森川が停止ボタンを押した。
次期世界無断接続、中止。
接続まで三十一分を残し、赤い表示が消える。
代わりに情報提供申請が送信された。
受領確認はない。
それでも、選択肢は向こうへ返した。
久世が俊平へ飛びかかる。
黒い仮面が顔を覆う。
代表取締役契約が起動する。
戸籍。
口座。
株式。
会社。
元世界で相模俊平を証明するすべてが、俊平の身体を会社人格へ引き渡そうとする。
「こちらでは私の方が、お前より相模俊平だ」
久世の声が頭蓋の内側で響く。
確かに、社会の記録は会社人格を本人と認めている。
俊平には三年間の空白がある。
失踪者。
死亡推定。
戸籍上の存在すら薄い。
「それでも、俺の身体です」
「証明できない」
「証明は共同でします」
俊平は腕時計の白線を開く。
第十三工廠へ接続。
リゼットの記録。
サマラの食事札。
リィンの鐘。
グレンの怒鳴り声。
ミルカとセナの測定。
ノアの生存確認。
七者の記録が流れ込む。
相模俊平。
第十三工廠管理官。
一次帰還先、第十三工廠。
本人意思、会社代表就任を拒否。
身体移譲を拒否。
記録は戸籍と争わない。
別の世界で過ごした三年間を、現在の本人確認として積み上げる。
「お前たちの世界の記録に効力はない!」
「あなたの契約も異世界の力を使っています」
俊平は代表就任承諾書を破かず、二つへ分けた。
会社が維持した戸籍、口座、株式。
利益として保全。
身体移譲、代表義務、無断接続責任。
負担として停止。
「代表職だけを返します」
「誰へ」
「会社へ」
「私は会社だ!」
「なら、自分で引き受けてください」
代表取締役の名から相模俊平が消える。
空欄へ、久世礼司と浮かぶ。
会社人格が自分の名で責任を負う。
黒い仮面が俊平の顔から剥がれた。
久世は人の形を保てず、会社印の中へ吸い込まれる。
「これは終わりではない」
「はい」
俊平は会社印を保全袋へ入れる。
「だから記録します」
戻り時刻まで八分。
森川は事故報告書を開いた。
死因、本人の操作ミス。
会社責任なし。
遺族補償、支払済み。
偽造された報告。
彼女は削除しなかった。
訂正記録を追加する。
本人の操作ミスではない。
ERIS無断起動。
実行者、久世礼司の会社人格。
冬一は救出を試みた。
森川自身も停止工程に参加した。
「母へ送ります」
「今から会わなくていいんですか」
「会いたい」
森川は自分の手を見る。
血が流れ、温度がある身体。
「でも今行けば、説明に一生かかる。先に第十三工廠へ戻ります」
「帰還先は元世界では」
「二つあってもいいんでしょう」
彼女は少し笑う。
「一次帰還先、第十三工廠。二次帰還先、母の家。今はそうします」
「確認しました」
切符が開く。
二人は白い研究棟を振り返る。
エリス帰還技研の看板から、相模俊平の名は消えている。
だが地下の候補世界は残る。
会社印の中に久世もいる。
完全な解決ではない。
それでも無断接続は止めた。
森川の身体と名を返した。
俊平の役割も拒否した。
切符を踏む。
第十三工廠の鐘が遠くで鳴る。
帰還した時、工廠は暗かった。
分散交換点の灯りが半分以上消えている。
「何があった」
俊平が駆け込む。
リゼットが血のついた台帳を抱えている。
グレンは肩を負傷。
ミルカの工具箱は空。
セナが同期器を押さえていた。
「裏切られた」
リゼットが言う。
「誰に」
「エルナ評議員です」
弟の保護を条件に監査へ協力したエルナ。
彼女は俊平たちが元世界へ行った直後、分散交換点の配置図を燃料局へ渡した。
七十六か所が差し押さえられ、熱は再び中央導管へ集められている。
「弟を人質に?」
「違います」
リゼットは首を横に振る。
「本人の意思です。外周区だけへ熱を優先する契約と引き換えに」
自分の地区を守るため、都市全体の分散を売った。
帰還先を守るという正しさが、また別の帰還先を切り捨てた。
「黒炉停止まで」
「残り四時間」
元世界で二時間。
こちらでは三時間。
猶予は十五時間あったはずだった。
燃料局が分散熱を中央へ集め、黒炉へ過負荷をかけた。
エリスを止めるのではなく、壊れるまで燃やし切るために。
黒炉から悲鳴が上がる。
白炉搬送七名の保全灯が一つ消えた。
シーラ・メイズ。
鐘機能。
リィンが鐘楼で倒れる。
正しい時刻を告げる鐘が、最後の一拍を鳴らした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第35話では、俊平と森川が元世界のエリス帰還技研へ入りました。
会社は俊平の戸籍や株式を保全する一方、帰還と同時に代表取締役の役割と身体移譲を強制する契約を用意していました。
森川は会社に保管されていた自分の身体へ帰還し、事故を起こしたのが冬一ではなく、俊平の姿を使った久世の会社人格だったことを思い出します。
二人は次の標的世界ミナトへの無断接続を停止し、選択に必要な情報だけを送信しました。
しかし第十三工廠へ戻ると、エルナ評議員が外周区を守る契約と引き換えに分散炉の配置を燃料局へ渡していました。
黒炉停止まで残り四時間。
そして七人の保全灯から、シーラ・メイズの灯りが消えます。
次回は鐘機能の喪失と、四時間で分散炉を奪い返す最終工程へ進みます。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




