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異世界工場管理  作者: 好山 雪


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31/35

第31話 百年分の返却口

いつも読んでくださり、ありがとうございます。


前回、本人だけが行使できる「帰還保留権」が新たに定められました。


しかし契約機能ナザロの封印が崩れ、百年分の契約が都市へ流出。


都市燃料局は成立直後の権利を全市労働者へ代理行使し、返還を止めようとしています。


今回は、悪い契約を止めても、そこで得た薬や住居まで奪われないための大規模な仕分け工程へ進みます。


それでは、第31話をお楽しみください。


契約は、雨より重かった。


第九施療院の窓から黒い紙が降り続ける。


屋根へ積もり。


煙突へ詰まり。


石畳を川のように流れた。


紙に触れた者の手には、契約の結果だけが現れる。


ある女の指から結婚指輪が消えた。


契約満了後、家族関係を燃料局へ返却する条項。


ある老人の背中へ軍務番号が焼きついた。


二十歳の時に完了したはずの徴用契約。


ある子供の口から、母親の名前が出なくなった。


治療費の担保にされた家族記録。


封印されていた契約が、百年分の遅延を取り戻そうとしている。


「紙を破くな!」


俊平が叫ぶ。


黒い契約書を引き裂いた男の腕から、受け取った義手まで消えた。


負担と利益が、一枚の紙に縫いつけられている。


契約を壊せば両方が失われる。


「契約書を拾った人は、文字を読まずに裏返してください!」


リゼットが鐘楼の拡声管へ指示を送る。


「名前が見えても呼ばない! 本人確認が済むまで署名しない!」


第九施療院の中庭に、長机が並べられた。


第十三工廠から運んだ作業台。


死者会計局の黒箱。


医療契約課の審理印。


労働者監査席の台帳。


軍務局の認識票読取器。


食堂からは湯と黒パン。


人が集まり始める。


契約を読める者。


契約で傷ついた者。


契約のおかげで生き延びた者。


そして、どちらか分からない者。


「残り五十二分」


セナが告げる。


ナザロの契約章は胸の上で割れ続けている。


完全に開けば、すべての契約が同時執行される。


彼を痛覚成熟槽へ戻せば止まる。


もっとも早く、確実な方法。


ナザロは何度もそれを求めていた。


「まだ選択肢を見せるつもりか」


「はい」


「間に合わなければ、何人死ぬ」


「分かりません」


「管理官なら計算しろ」


「計算しています」


俊平は台帳から目を上げない。


「あなた一人を痛めれば早い。その答えが一番上に出る計算方法を、今まで使いすぎたんです」




契約の仕分けは、三つでは足りなかった。


最初は、破棄、継続、保留の三分類だった。


だが最初の十件で崩れた。


娘の薬と引き換えに、母親が十年の労働を約束した契約。


薬は返せない。


労働だけを破棄すれば、施療院は費用を失う。


継続すれば母親は帰れない。


「利益と負担を分けます」


俊平は新しい欄を作る。


受領済み利益。


未履行利益。


履行済み負担。


未履行負担。


本人意思。


第三者への影響。


「受け取った薬は返還済み利益として本人側へ固定。未履行の強制労働は停止。施療費は都市の不正契約補償勘定へ移す」


マグダが眉を寄せる。


「補償勘定に財源がない」


「燃料局が返還差分から得た過去百年分の利益を監査します」


「回収できなければ」


「都市債務として残す。母親一人へ戻しません」


借りた者が弱いからといって、支払いだけをその者へ集中させない。


契約から利益を得た組織も負担する。


「分類名は」


リゼットが問う。


「負担停止、利益保全」


一枚目へ青い印が押された。


母親の足首から労働鎖が外れる。


娘の身体から薬の効果は消えない。


黒い紙が白くなり、二人の手元へ戻った。


最初の返却だった。




仕分け台は七列へ増えた。


第一、本人が継続を望む契約。


第二、負担停止・利益保全。


第三、説明不足による再同意待ち。


第四、本人不在の分類前保全。


第五、死者契約としてノアが監査。


第六、第三者の生活を支えるため即時破棄できない契約。


第七、本人以外が権利を行使した無効契約。


帰還保留権の一括代理行使申請は、第七列へ置かれた。


「申請者本人を呼んでください」


俊平が言う。


燃料局長ゲルト・ハインは来ない。


代わりに灰色の制服を着た若い書記たちが現れた。


全員、同じ申請書を持っている。


対象者名だけが違う。


一万二千三百六名。


「本人署名があります」


先頭の書記が言う。


エナ・ベルが申請書を一枚取った。


彼女はかつて燃料局に利用され、返還差分工程から制限条項を消した補助記録員だった。


署名を光へ透かす。


「偽物です」


「筆跡は一致している」


「一致しすぎています」


一万二千三百六人の署名が、同じ圧力、同じ速度、同じ迷いで書かれている。


同意器官ではない。


労働者の過去の署名を、契約機能が複製したものだった。


「誰が複製を許可した」


マグダが問う。


書記たちは答えない。


その背後でナザロの法槌が小さく鳴った。


全員が振り返る。


「私だ」


ナザロが言った。


俊平は耳を疑った。


「なぜ」


「権利は、侵害された実例がなければ強い判例にならない」


ナザロは燃料局の申請を受けると知りながら、署名複製を止めなかった。


実際の侵害を発生させ、帰還保留権の代理行使禁止を確定させるために。


「一万二千人を試験材料にしたんですか」


「執行前に審理できると判断した」


「判断が外れたら」


「私が責任を負う」


「どうやって」


「痛みで」


またそこへ戻る。


ナザロにとって責任とは、自分を罰することだった。


他人を危険へ晒しても、後で自分が苦しめば釣り合うと思っている。


「あなたは契約を守っているんじゃない」


俊平は言った。


「罰を受ける自分を守っている」


ナザロの顔が歪む。


「黙れ」


「責任は痛むことではありません。危険に晒した人へ、選択肢と補償を返すことです」


「私を裁くのか」


「今は仕分けします。あなたの審理は、その後です」


リゼットが一万二千三百六枚の申請へ赤い印を押す。


本人以外による代理行使。


署名複製。


無効。


紙が燃える。


熱は燃料局へ流れない。


奪われかけた署名が一万二千三百六人へ返り、小さな光となって都市へ散った。


その一つがエナの手へ戻る。


彼女は自分の名を見つめ、今度は自分の筆で書いた。


帰還保留権を行使しない。


返還差分の本人返却を求める。


「本人意思、確認」


リゼットが記録した。




残り二十九分。


契約はまだ数万枚ある。


人の手では間に合わない。


セナが流れを測り、ミルカが仕分け台の下へ導管を組む。


だが自動化すれば、また本人意思を機械が代行する。


「分類だけ機械にさせます」


俊平は工程を分けた。


文字種。


契約年代。


本人所在。


利益と負担の記載位置。


機械ができるのは、読む順番を整えることだけ。


有効か無効かは決めさせない。


七本の避難路から、人々が到着する。


元契約書を持つ者。


家族の証言を持つ者。


字が読めない者は、読める者へ内容を聞き、最後は自分で印を選ぶ。


青。


赤。


白。


黒。


色印が中庭を埋めていく。


誰か一人の痛みで封じるのではない。


一人一人が、自分の契約へ小さな判断を返す。


そのたびにナザロの胸から黒い文字が剥がれた。


「契約機能が分散している」


マグダが気づく。


契約を一人が審理するから、ナザロ一人へ負荷が集まる。


本人が自分の契約を確認し、複数の監査者が記録すれば、契約機能は一時的に共有できる。


「分散封印」


セナが測定値を読む。


「痛みなし。熱変換なし。本人判断一件につき、封印圧が少しずつ下がってる」


ナザロが青ざめる。


「やめろ」


「なぜです」


「契約機能が私から離れる」


「それを望んでいたのでは」


「封じたかった。失いたいとは言っていない」


契約機能は彼の苦痛であり、役割であり、存在理由だった。


痛みを止めたい。


だが機能を失えば、自分が何者か分からない。


「帰還保留を使えます」


俊平が言う。


「決めない権利を、私に勧めるのか」


「はい。契約機能を手放すかどうか、今すぐ決めなくていい」


「だが封印は」


「市民へ機能そのものを渡すのではありません。本人判断の記録だけを分散保全する。あなたの機能は、使わずに保留できます」


ナザロは胸を押さえた。


痛みが薄れている。


百十七年ぶりに訪れた、痛くない時間。


男はそれを恐れるように震えた。


「次の朝まで」


「確認しました」


「契約機能の処遇を、次の朝まで保留する」


リゼットが記録する。


患者番号零の同意書から、痛覚成熟工程継続の文字が消えた。


代わりに一行が現れる。


痛みを止める。


それだけだった。




残り十一分。


最後の山は、本人不在契約だった。


死者。


行方不明者。


名を失った者。


生まれる前に条件だけ指定された者。


俊平自身の帰還先契約も、その中にある。


「分類前保全へ」


ノアが死者分を黒箱へ受け入れる。


「負担は停止。受領済み利益は保持。本人または正当な承継者が現れるまで執行禁止」


マグダが仮規則を押印する。


一枚ずつ白い箱へ移される。


最後から二枚目。


白炉エリス搬送契約。


契約者、都市中央評議会。


受託者、白炉搬送七名。


追加技術者、相模冬一。


負担、白炉の固定および安定化。


利益、相模冬一の元世界への帰還。


追加対価。


息子一名の将来派遣。


俊平の指が止まった。


父は自分を送り込んだだけではない。


契約の対価として、まだ生まれていない息子を記載していた。


本人署名、相模冬一。


証人、アデル・ラート。


外縁案内人の初代名。


「署名は本物ですか」


俊平が問う。


イネスが契約文字を調べる。


「本物です」


父の声が腕時計から蘇る。


俺には切れなかった。


お前を使う。


謝罪を許す材料にするな。


あの告白にも、書かなかったことがあった。


息子を対価にした契約。


「破棄しますか」


リゼットが静かに問う。


契約を破けば、父が得た元世界への帰還まで無効になる可能性がある。


父は帰れなかったことになる。


俊平が生まれた歴史そのものが変わるかもしれない。


「負担停止、利益保全」


俊平は答えた。


「父が帰った事実は奪わない。俺を派遣する条項だけを停止。本人同意なしの将来契約として無効を申請します」


「申請者は」


「相模俊平」


自分の名を、自分の筆で書く。


契約が二つに分かれた。


父の帰還は白い紙へ。


息子の派遣は黒い紙へ。


黒い紙が燃える。


俊平の腕時計から鎖が一本外れた。


だが時計は消えない。


この世界へ来た事実も、第十三工廠で過ごした時間も残った。


契約を無効にしても、俊平の現在は消えなかった。


「本人への負担返還、完了」


リゼットの声が少しだけ震えた。




残り一分。


最後の契約が台上へ落ちる。


表題はない。


契約者もいない。


ただ一つの約束だけが書かれている。


七名を帰す。


対価、都市の存続。


署名欄には七人の名。


エリシア。


ガルム。


シーラ。


オルヴィス。


ナザロ。


ヴェント。


アデル。


だが筆跡は七人分ではなかった。


すべて同じ手が書いている。


「偽造です」


リゼットが言う。


ナザロが首を横に振った。


「違う。契約機能が本人の代わりに書いた」


「あなたが?」


「覚えていない」


彼の記憶にも封印がある。


契約書の裏から、黒い仮面が浮かび上がった。


案内人の声がする。


「百年分の審理、完了を確認」


残り時間がゼロになる。


ナザロの契約章が完全に割れた。


だが契約は暴走しない。


市民の判断へ分散され、静かに保全されている。


痛みなし。


燃料化なし。


本人への返却を優先。


ナザロが床へ倒れた。


胸の傷から血ではなく、七枚の署名が落ちる。


七人の本当の署名だった。


すべてに同じ言葉が添えられている。


帰還を望む。


ただし、都市を滅ぼしてまでとは望まない。


俊平は最後の契約を保全箱へ入れた。


「優先順位を更新します」


「第一、七人の本当の帰還意思を共同保全」


「第二、代替炉の完成」


「第三、偽造された七名契約の作成者を特定」


「第四、燃料局による代理申請の責任審理」


「第五は?」


俊平は父の契約から分かれた白い紙を見る。


相模冬一、元世界への帰還。


その到着確認欄が空白だった。


父は帰ったはずだ。


俊平は父と暮らした。


それなのに契約上、帰還は完了していない。


「父が、どこへ帰ったことになっているのか確認します」


腕時計が一度だけ鳴った。


文字盤に新しい時刻が表示される。


午前零時。


相模工業第一工場、夜勤開始。


閉鎖された工場で、誰かが今も働き始めていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


第31話では、百年分の契約を市民自身が確認する大規模な返還審理が行われました。


契約を丸ごと破棄するのではなく、強制労働などの負担を止めながら、すでに受け取った薬や住居などの利益は本人側へ残す「負担停止・利益保全」が導入されます。


ナザロは強い判例を作るため、燃料局による権利侵害を意図的に見逃していました。


その裏切りも記録され、彼自身は契約機能を失うかどうか、次の朝まで保留することを選びます。


また、俊平の父・冬一が元世界へ帰る対価として、まだ生まれていない息子の将来派遣を契約していたことも判明しました。


俊平は父の帰還という利益を奪わず、自分を対価にした負担だけを無効化します。


次回は、完了していない冬一の帰還記録と、閉鎖された相模工業第一工場の夜勤へ進みます。


引き続き読んでいただけたら嬉しいです。


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