第30話 決めない権利
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
第九施療院の手術は止まり、オルヴィス・セヴェルは誰かの身体へ入ることを拒みました。
俊平は本人が帰還先を選ぶまで、分類前保全された返還灯で待機させます。
しかし契約機能ナザロ・クラインは、その判断を新たな監禁だと指摘しました。
今回は、帰る場所を今は決めない権利と、善意で作られた保護が牢獄へ変わる危険を描きます。
それでは、第30話をお楽しみください。
法廷に椅子はなかった。
第九施療院の手術室。
血のついた床へ白線が引かれ、その内側が被告席とされた。
俊平の両手には紙の拘束帯。
破こうと思えば破れる。
だが破れば、審理から逃げる意思として記録される。
鉄より軽く、鉄より重い拘束だった。
正面にはナザロ・クライン。
黒い法衣の胸を、古い契約章が塞いでいる。
右側にマグダ・クライン。
左側には、黒く染まった返還灯。
灯りの中でオルヴィスの白い影が揺れていた。
「審理を開始する」
ナザロが法槌を鳴らす。
八千三百四十四枚の同意書が宙へ浮いた。
すべての紙に口が現れる。
はい。
はい。
はい。
かつて同意器官が患者の代わりに答えた声。
手術室は、偽物の承諾で満たされた。
「被審理者、相模俊平」
ナザロが告げる。
「オルヴィス・セヴェルを、本人が帰還先として指定していない器へ収容した事実を認めるか」
「認めます」
「収容期間を定めたか」
「定めていません」
「外部との連絡方法は」
俊平は返還灯を見る。
「呼びかければ応答できます」
「呼びかける者は誰が選ぶ」
「第十三工廠の共同監査員です」
「オルヴィス本人ではない」
「はい」
「器から出る方法は」
答えられなかった。
返還灯へ入る工程は作った。
出る工程は作っていない。
安全な帰還先が見つかるまで守る。
そう考えた。
だが見つける者も、いつまで待つか決める者も、俊平たちだった。
「保護という名前の収容です」
マグダが言った。
「本人のため、危険防止のため、判断能力回復まで。その言葉で医療契約課は何千人も閉じ込めてきました」
「だから俺を拘束したんですか」
「あなたが同じ入口へ立ったからです」
帰還権を守る俊平なら見逃してもらえる。
そんな例外はない。
マグダは味方ではなかった。
敵でもなかった。
だからこそ、厳しかった。
「オルヴィスさんへ確認させてください」
俊平が言う。
ナザロは首を横に振った。
「被収容者への誘導になる」
「では独立した質問者を」
「誰を独立と認定する」
第十三工廠の者は俊平に近すぎる。
施療院は利害関係者。
医療契約課は審理側。
軍務局も燃料局も、施療機能を欲しがる。
完全に中立な者など、この都市にはいなかった。
「中立でなくていい」
後方から声がした。
オルド・セヴェルが、患者衣のまま立っている。
胸の空洞には包帯が詰められていた。
「利害を公開した者を七人集めろ」
ナザロの目が細くなる。
「お前に発言資格はない」
「私は帰還先候補だった。最も利害がある」
「だから排除する」
「利害がある者をすべて排除した結果が、あの偽造同意だ」
オルドは宙の紙を指す。
患者本人。
家族。
治療者。
支払者。
全員に利害がある。
だから施療院は、利害がないとされた同意器官へ判断を任せた。
だが同意器官には、人生がなかった。
失うものがない存在は、中立ではなく無責任だった。
「七人の立場を公開し、質問と回答を全部記録する」
オルドは俊平を見ない。
「それなら少なくとも、私を器にした時よりましだ」
ナザロが法槌を握る。
その手がわずかに震えていた。
「契約審理は、一つの正しい解釈を求める」
「その一つを決めるのは誰だ」
「契約機能だ」
「つまり、あなたです」
オルドの言葉に、ナザロの胸の章が黒く光った。
彼もまた、一つの正しさを出すために作られた機能だった。
七人の質問者が選ばれた。
第十三工廠からリゼット。
第九施療院からオルド。
死者会計局からノア。
医療契約課からマグダ。
敵国の心臓保持者としてニコ。
労働者代表としてサマラ。
最後の一人は、帰還先を持たない者から選ぶことになった。
ダリオ・ヴェントが名乗り出た。
「軍務局がくれた場所しかない」
彼は武器を入口へ置く。
「その場所に戻るかも、まだ決めていない」
七人全員の利害を、リゼットが読み上げる。
誰も中立ではない。
その事実を隠さないまま、返還灯の封を開いた。
白い影が人の形になる。
オルヴィスは最初に俊平を見た。
「私は囚人か」
「その可能性があります」
俊平は答えた。
「設計が不十分でした」
「善意だったと弁明しないのか」
「善意は出口になりません」
オルヴィスの影が少しだけ濃くなる。
質問が始まった。
今、返還灯から出たいか。
「出たい」
帰還先は決まっているか。
「決まっていない」
オルドの身体へ入りたいか。
「望まない」
エダの身体へ戻りたいか。
「望まない」
黒炉へ戻りたいか。
「望まない」
ならば、どの状態を望むか。
「身体を持たず、患者の声を聞ける場所」
「治療を続けたい?」
サマラが問う。
「続けたい」
「償いのため?」
長い沈黙。
「分からない」
「分からないまま治療したら、また患者を自分の理由にするかもしれません」
オルヴィスは俯いた。
「では、治療しない」
「今すぐ決めなくていいですよ」
サマラの声は柔らかかった。
「食堂の皿洗いからでもいい」
「私は施療機能だ」
「皿を洗う手はあります?」
白い影が両手を見る。
「ない」
「では、そこから相談ですね」
誰も笑わなかった。
だが手術室の緊張が少しだけほどけた。
俊平は新しい工程案を提出した。
帰還保留。
本人は帰還先を決めない意思を表明できる。
保留期間は本人が選ぶ。
期間を決めたくない場合、一日ごとに継続意思を確認する。
確認者は利害を公開した複数の監査員。
本人はいつでも質問者を拒否できる。
保留中の情報、痛み、記憶、熱を利用しない。
待機器から本人自身で出られる仕組みを必須とする。
意思表示できなくなった場合も、自動的に他者へ所有権を移さない。
「名称は権利ではなく工程です」
ナザロが指摘する。
「工程だけでは、管理者が変更できる」
俊平は頷く。
「では帰還権へ追加します」
帰る場所を本人以外が決めない権利。
帰還先を安全に言えない権利。
帰還先を持たないまま保護される権利。
そして。
帰るかどうかを、今は決めない権利。
「帰還保留権」
マグダが言葉を記す。
「ただし本人だけが行使できる。家族、管理者、契約者、国家による代理保留を禁止」
「期限を延ばす対価も禁止してください」
イネスが法廷の外から口を挟む。
彼女も利害関係者として傍聴していた。
帰還先を売った者が、保留期間まで売られる危険を知っている。
「保留情報の売買、担保化、燃料化を禁止」
リゼットが追記する。
一つの権利を作れば、それを商品にする者が現れる。
だから禁止事項も同時に記録する。
完全ではない。
それでも出口のない灯りよりはよかった。
「オルヴィス・セヴェル」
ナザロが問う。
「この条件で帰還を保留するか」
「保留する」
「確認期間は」
「次の朝まで」
「待機場所は」
「第十三工廠の施療記録室」
オルドの肩が揺れた。
選ばれなかった。
だが拒まれた事実を、今度は誰も偽造しなかった。
「外部との連絡者は」
オルヴィスは七人を見る。
「サマラ」
「私ですか」
「皿洗いの相談がある」
サマラは少し考え、頷いた。
「食堂の規則には従ってもらいます」
「確認した」
返還灯の黒い色が抜ける。
内側に小さな取っ手が生まれた。
オルヴィス側から開けられる出口だった。
ナザロが法槌を上げる。
「相模俊平に対する帰還権侵害容疑」
俊平は白線の中で待つ。
「保護目的は認める。しかし出口を設けず、期限も本人確認手段も定めなかった過失は成立する」
無罪ではなかった。
「処分。帰還灯保全工程の単独管理権を停止。今後は七者監査を必須とする」
俊平は息を吐く。
「受け入れます」
「また、新設された帰還保留権により、継続収容の違法状態は解消された。拘束を解く」
紙の帯が床へ落ちた。
「相模管理官」
マグダが言う。
「私を裏切り者と思いますか」
「少し」
彼女は苦く笑った。
「正直ですね」
「でも、止めてくれてよかったとも思います」
「両方、記録しますか」
「してください」
信頼は、疑わないことではない。
疑った後も同じ卓へ戻れる仕組みのことかもしれなかった。
審理が終わった直後、八千三百四十四枚の同意書が床へ落ちた。
一枚ずつ、偽造された「はい」が消えていく。
その下から、本当の回答が現れた。
分からない。
怖い。
説明してほしい。
家族を呼んでほしい。
痛いから今は決められない。
帰りたい。
帰りたくない。
何も言いたくない。
同意は一つの言葉ではなかった。
沈黙も、迷いも、質問も含まれていた。
だが八千三百四十四枚のうち、一枚だけ文字が消えない。
私は痛覚成熟工程の継続を望む。
本人署名。
代筆でも同意器官でもない。
患者番号、零。
氏名、ナザロ・クライン。
全員が黒い法衣の男を見る。
「あなたが患者番号零?」
俊平が問う。
ナザロの胸の契約章に亀裂が入った。
「契約機能を封印するには、痛みが必要だった」
彼の法衣の下から、無数の縫合痕が現れる。
百十七年間、契約機能が都市のすべての不正契約を実行しないよう、自分の痛みで封じ続けていた。
「工程を止めれば、封印が解ける」
「だから継続を望んだ?」
「都市を守るためだ」
また同じ言葉。
誰か一人が痛み続ければ、多くが救われる。
本人が望んでいるなら許されるのか。
「他の封印方法を探します」
俊平が言う。
「間に合わない」
ナザロの章が割れた。
法廷の床から黒い契約文が噴き出す。
帰還先売買契約。
白炉固定契約。
前線移送契約。
死者燃料化契約。
百年分の契約が、封印の外へ出ようとしている。
ナザロが膝をつく。
「私を痛覚成熟槽へ戻せ」
「戻しません」
「本人意思だ!」
「はい。だから無視はしません」
俊平は割れた契約章を押さえる。
手のひらへ黒い文字が焼きつく。
「でも、痛み以外の選択肢を全部見せてから、もう一度聞きます」
「時間がないと言った!」
黒い契約文が手術室の扉を破る。
都市へ向かって流れ出す。
その一枚を、リゼットが掴んだ。
紙には新しい契約が記されている。
帰還保留権、一括代理行使申請。
申請者、都市燃料局。
対象、全市労働者。
目的、返還時に生じる熱の損失防止。
新しい権利は、成立した直後に奪われようとしていた。
ナザロの封印が完全に割れるまで、残り一時間。
俊平は台帳を開く。
「優先順位を更新します」
「第一、帰還保留権の代理行使を無効化」
「第二、ナザロさんの契約機能を痛みなしで分離」
「第三、流出した百年分の契約を保全」
「第四は?」
俊平は黒い契約の奔流を見る。
一枚一枚に、誰かの名前がある。
「契約を破る前に、契約で守られている人を確認します」
悪い契約をすべて消せばよいわけではない。
借金と引き換えに今日の薬を得た者。
軍務局への義務と引き換えに寝床を得た者。
帰還先を担保に家族を守った者。
契約だけを消せば、今度は受け取ったものまで奪われるかもしれない。
「第五」
俊平は続けた。
「壊す契約と、返す約束を分けます」
ナザロが苦痛に顔を歪めながら笑った。
「一時間で、百年を審理するつもりか」
「一人ではやりません」
第十三工廠の鐘が鳴る。
七本の避難路へ、新しい呼びかけが流れた。
契約を読める者。
契約に傷つけられた者。
契約に守られた者。
全員、第九施療院へ。
百年分の契約を、持ち主へ返すために。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第30話では、俊平がオルヴィスを返還灯へ待機させた判断について審理されました。
保護目的であっても、出口も期限も本人確認方法もない状態は監禁になり得ます。
その反省から、本人だけが行使でき、代理行使や売買を認めない「帰還保留権」が追加されました。
俊平は無罪ではなく、帰還灯の単独管理権を停止され、今後は七者監査が必要となります。
また、ナザロは契約機能を封じるため、自ら患者番号零として痛覚成熟工程を受け続けていました。
終盤では封印が崩れ、百年分の契約が都市へ流出。燃料局は早くも帰還保留権を全市労働者へ代理行使しようとしています。
次回は、百年分の契約を一時間で仕分ける大規模な返還審理へ進みます。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




