第29話 帰る身体
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
敵国の炉守りニコが背負う七つの心臓のうち、一つは姉エダ・セルヴァのものでした。
しかし彼女の身体には、白炉を運んだ七人の一人、施療機能オルヴィス・セヴェルが宿っています。
第九施療院では手術が始まり、地中を走る白い管は俊平の胸へ伸びました。
今回は、人にとって最も近い帰還先である「自分の身体」をめぐる物語です。
それでは、第29話をお楽しみください。
白い管は、俊平の胸に刺さらなかった。
皮膚へ触れる一寸前で止まり、先端を花のように開いた。
中から細い指が七本伸びる。
一本が心臓。
一本が肺。
一本が喉。
一本が右目。
一本が左手。
一本が背骨。
最後の一本が、額へ触れた。
俊平の視界に文字が流れる。
身体帰還先、未登録。
施療機能受入適性、九十七パーセント。
管理権限、使用可能。
「切って!」
ミルカが炉線を振り下ろす。
白い管は刃を避け、俊平の影へ潜った。
胸の内側で、知らない鼓動が一つ増える。
痛みはない。
それが何より恐ろしかった。
「相模さん、聞こえる?」
セナの声が遠い。
返事をしようとした口から、別の男の声が出た。
「患者を、返せ」
ニコの背負い炉で七つの心臓が一斉に跳ねた。
少年が姉の炉を抱えて後ずさる。
「オルヴィス」
俊平は自分の喉を押さえた。
声の主は答えない。
代わりに右手が勝手に動き、空中へ施療記号を描く。
傷病者一覧。
帰還不能者一覧。
身体欠損者一覧。
第九施療院に保存された患者記録が、俊平の目の前へ並んだ。
その数、八千三百四十四。
全員の身体欄に同じ文字がある。
一時保管。
「俺は保管庫ではありません」
俊平が言う。
「知っている」
今度の声は、胸の奥から直接響いた。
「だから選んだ」
第九施療院へ向かう馬車の中で、俊平は両手を拘束された。
オルヴィスに身体を奪われる危険がある。
本人の希望である。
「外から見て、俺の行動がおかしかったら止めてください」
「どこからがお前で、どこからがそいつだ」
グレンが問う。
「分かりません」
「分からないものをどう止める」
「質問してください」
リゼットが台帳を構える。
「一次帰還先は」
「第十三工廠」
「二次帰還先は」
「未登録世界。詳細非公開」
「昼食は」
「まだです」
「違います。サマラさんの黒パンを半分」
俊平の右手が震えた。
記憶の一部が抜けている。
オルヴィスが奪ったのか。
それとも、自分が忘れただけか。
「次」
「鐘を壊したのは」
「ニコさん」
「その責任は」
「記録し、共同修理」
馬車の隅でニコが顔を上げる。
俊平の声は自分のものだった。
だが胸の内側では、別の男が笑っている。
「その質問では見分けられない」
オルヴィスが言った。
「私はお前の記録を読める」
俊平の口が勝手に動く。
リゼットが筆を止めない。
「オルヴィス・セヴェル。本人発言として記録します」
「記録など、身体の前では弱い」
「では質問を変えます」
リゼットが俊平を見る。
「あなたは今、誰に帰ってほしいですか」
胸の鼓動が乱れた。
記録に答えはない。
俊平自身も、すぐには答えられない。
エダを身体へ返したい。
七つの心臓を分けたい。
オルヴィスも百十七年の拘束から解放したい。
だが誰かを返すために、別の身体を奪うことはできない。
「全員です」
俊平は答えた。
「ただし、同じ場所へではありません」
胸の鼓動が一つ弱くなる。
オルヴィスは答えなかった。
第九施療院は、巨大な臓器になっていた。
白い壁の下を赤い管が走り、窓が呼吸するように開閉している。
正面玄関には患者も看護師もいない。
床へ白い仮面が整然と並べられていた。
その奥にオルド・セヴェルが立っている。
今日は仮面を着けていなかった。
初めて見る素顔は、右半分だけが老人だった。
左半分は若く、皮膚の下で別人の顔が動いている。
「お待ちしていました、相模管理官」
「手術を停止してください」
「すでに始まっています」
「患者の同意確認ができていません」
「患者は私です」
オルドは胸を開いた。
皮膚の下に心臓がない。
代わりに白い空洞があり、無数の名前が脈打っている。
「私はオルヴィス・セヴェルの帰還先として作られました」
「子孫ではない?」
「後継身体です」
第九施療院は百十七年間、オルヴィスを戻す器を作り続けた。
血縁者。
孤児。
身元不明の患者。
身体の一部を継ぎ合わせ、施療機能に耐えられる人間を育てた。
オルドは九人目の完成品だった。
「あなた自身の意思は」
俊平が尋ねる。
「オルヴィスを迎えることです」
「それは誰に教えられた意思です」
オルドの若い半面が引きつる。
「生まれた目的を疑えと?」
「疑うかどうかも、あなたが決めることです」
「選択肢を与えるふりをして、私から意味を奪う」
オルドは白い管を掲げた。
俊平の影に潜った管が反応する。
「あなたも同じだ。父親にこの世界へ送られ、工廠を救う意味を与えられた」
「だから、その意味を俺の義務にしないと記録しました」
「強がりです」
「そうかもしれません」
俊平は認めた。
「でも、選び直す時間は必要です」
オルドの老いた半面から涙が流れた。
若い半面は笑っている。
二つの表情のどちらが本人か、誰にも分からなかった。
「エダ・セルヴァの身体を見せてください」
ニコが前へ出る。
オルドは少年を見下ろした。
「使者の弟か」
「姉を返せ」
「身体だけなら、いつでも」
白い床が割れる。
地下から透明な手術槽が上がってきた。
中に若い女が眠っている。
胸には心臓がない。
頭部から伸びた管が、施療院の壁へつながっている。
エダの身体。
だがその両手は動き続けていた。
見えない患者へ包帯を巻き、傷を縫い、薬を量る。
オルヴィスの施療機能が使っている。
「オルヴィスさん」
俊平が自分の胸へ呼びかける。
「これはあなたの意思ですか」
右手が勝手に手術槽へ伸びる。
「患者を治す」
「誰を」
「全員」
「本人が望まなくても?」
「痛みは判断を誤らせる」
「痛みを取った後で聞けばいい」
「時間がない」
「百十七年あった」
沈黙。
俊平の胸に鋭い痛みが走る。
初めてオルヴィスが痛みを返した。
「私は失敗した」
男の声が震える。
「白炉の固定を止められなかった。負傷者を治すため、エリスの熱を使った。もっと必要になり、痛覚成熟工程を作った」
「あなたが作ったんですか」
「最初の設計を」
オルドが顔を上げる。
「違う。反転させたのは後世の施療院だ」
「違わない」
オルヴィスはオルドの口を借りず、俊平の口で答えた。
「痛みを資源として数えたのは私だ」
治療のため。
一人でも多く救うため。
善意で作った入口から、百年分の搾取が流れ込んだ。
「だから全員を治してから帰る」
「終わりはありますか」
「ない」
八千三百四十四人。
今日も増える。
オルヴィスは償いを終えないために、患者を保管し続けていた。
治れば、自分が帰らなければならないから。
「あなたは患者を治しているんじゃない」
俊平は言った。
「帰れない理由として置いている」
施療院全体が震えた。
壁の管が俊平へ襲いかかる。
グレンが斧で払い、ミルカが床の接続を切る。
イザベラは手術槽を守る。
ニコが姉の身体へ走った。
オルドだけが動かない。
「言うな」
彼の若い半面が叫ぶ。
「オルヴィス様には帰る理由がある。私には迎える理由がある!」
「あなたが望むなら、その意思は記録します」
「記録ではなく身体を渡せ!」
オルドが自分の胸へ手を突き入れた。
白い空洞から、小さな臓器を取り出す。
心臓ではない。
人の口の形をした肉の塊。
同意器官。
患者の代わりに「はい」と答えるため、第九施療院が育てた臓器だった。
口が一斉に開く。
エダは帰還を望む。
オルヴィスはオルドへの帰還を望む。
相模俊平は施療機能の管理移譲を望む。
八千三百四十四人の患者は継続治療を望む。
偽の同意が、正しい文法で読み上げられる。
白い管が俊平の影から飛び出し、額へ刺さった。
「管理権限、承認」
俊平の声が勝手に出る。
「違う!」
リゼットが叫ぶ。
だが手術記録には承認済みの文字が浮かんだ。
オルドの身体が裂ける。
俊平の胸からオルヴィスの鼓動が抜け、白い光となって移る。
エダの身体から施療管が外れ始める。
すべてがオルドの望んだ順序で進む。
「工程停止!」
俊平は叫ぶ。
止まらない。
管理官の声が、すでに承認へ使われている。
「本人確認質問!」
リゼットが台帳を叩く。
「相模俊平。あなたは今、誰に帰ってほしいですか!」
同じ質問。
偽の同意器官が答えを探す。
記録の中には前の返答がある。
全員。
ただし同じ場所へではない。
肉の口が、そのまま読み上げた。
「追加質問」
リゼットの声が震える。
「帰った後、最初に何を食べますか」
同意器官が止まる。
管理記録にない。
未来の予定。
本人しか今決められない答え。
俊平は胸の痛みに耐えて言った。
「サマラさんの、温かいスープ」
偽の口は答えられない。
「本人識別、一致!」
リゼットが記録する。
「先の承認を偽造同意として保留!」
手術工程が一拍止まった。
ミルカが同意器官へ炉線を巻く。
「切るよ!」
「返還先はオルドさんです。彼の身体から奪わないで!」
「こんなもの返すの?」
「本人の一部なら」
ミルカは舌打ちし、焼き切らずに白い空洞へ押し戻した。
肉の口がオルドの中へ帰る。
偽の声が消えた。
手術室に、本当の本人意思だけが残る。
「オルドさん。オルヴィスを迎えたいですか」
俊平が問う。
オルドは崩れた身体を抱える。
「迎えたい」
「オルヴィスさん。オルドへ帰りたいですか」
白い光が二つの身体の間で揺れる。
「帰りたくない」
初めて、はっきり答えた。
オルドの若い半面が絶望に歪む。
「なぜ」
「お前を私にしたくない」
「私はそのために作られた!」
「だからこそだ」
オルヴィスの光が手術槽へ戻ろうとする。
エダの身体が拒むように震えた。
「そこもあなたの身体ではありません」
俊平が止める。
「では、どこへ帰れという」
「今すぐ決めなくていい場所へ」
俊平は空の返還灯を一基、床へ置いた。
人の身体ではない。
燃料にも患者にも分類しない。
本人が選べるまでの、一時保全器。
「これは帰還先ではありません。待機場所です」
オルヴィスは長く沈黙した。
やがて白い光が返還灯へ入る。
施療機能、分離。
本人意思、帰還先未決定。
分類前保全。
エダの身体から最後の管が外れた。
ニコの背負い炉で、姉の心臓が強く鳴る。
まだ戻さない。
身体の安全を確認し、エダ自身が望むまで。
ニコは姉の手を握った。
「温かい」
四年ぶりに触れた、本人の手だった。
オルドは床に座り込んでいた。
胸の空洞は閉じない。
「私は空だ」
「空白は、他人が入るためだけにあるわけではありません」
俊平が言う。
「では何を入れる」
「自分で決めてください」
オルドは笑った。
乾いた、怒りに近い笑いだった。
「残酷な治療だ」
「治療ではありません」
「なら何だ」
「退院です」
オルドの顔から、若さが少しずつ剥がれる。
老人の顔だけが残った。
それが本当の年齢かどうかは分からない。
それでも初めて、一人分の顔だった。
「優先順位を更新します」
リゼットが台帳を開く。
「第一、エダ・セルヴァの身体保全と本人意思確認」
「第二、オルヴィス・セヴェルの分類前保全」
「第三、同意器官を用いた全手術記録の再監査」
「第四、八千三百四十四人の患者記録を本人へ返還」
「第五、七つの心臓の分離工程」
「第六は?」
俊平は施療院の壁を見る。
赤い管が止まり、建物の呼吸が静かになっている。
だが地下から、紙をめくる音がした。
一枚。
二枚。
数千枚。
患者記録が自分で頁を開いている。
その中央に、一人の男が立っていた。
黒い法衣。
胸に契約審理官の古い章。
白炉を運んだ七人の一人。
ナザロ・クライン。
契約機能、封印。
男は八千三百四十四枚の同意書を抱え、俊平へ告げた。
「偽造同意の再審理を受理する」
その背後にマグダ・クラインがいた。
現代の医療契約課主任審理官。
彼女は目を逸らさずに言った。
「相模管理官。あなたを、帰還権侵害の容疑で拘束します」
「俺を?」
「オルヴィス・セヴェルを本人の帰還先ではない器へ収容した」
返還灯が黒く染まる。
救ったはずの選択が、今度は監禁として審理される。
ナザロが法槌を上げた。
「帰る場所を決めないこともまた、誰かが決めた帰還である」
法槌が落ちる。
第九施療院の扉がすべて閉じた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第29話では、第九施療院がオルヴィスの帰還先として作った後継身体、オルド・セヴェルの真実が明らかになりました。
施療院は患者の代わりに同意する「同意器官」まで作り、俊平の管理権限を利用して手術を成立させようとします。
オルドはオルヴィスを迎えることを望みましたが、オルヴィス本人は彼へ帰ることを拒み、帰還先を決めるまで返還灯で待機する道を選びました。
エダの身体も施療機能から解放されましたが、心臓を戻すのは本人の意思確認後となります。
終盤では契約機能ナザロ・クラインが現れ、俊平の判断そのものが帰還権侵害として審理されることになりました。
次回は、帰還先を「決めない」権利をめぐる裁判へ進みます。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




