第25話 帰還先保管庫
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
前回、俊平の帰還先は契約報酬としてすでに「納品済み」であることが判明しました。
消された契約を扱うイネス・ラートは、娘の姿を追って黒い扉の中へ消えます。
そして、白炉を運んだ七人目の初代名はアデル・ラート。
今回は、売られた帰還先が保管される地下契約庫へ踏み込みます。
それでは、第25話をお楽しみください。
黒い扉は、俊平の腕時計の中に残っていた。
文字盤を覗くと、秒針の下に細い廊下が見える。
廊下の両側には無数の扉が並び、その一つ一つに小さな灯りがともっていた。
家の灯りだった。
待つ者がいる灯り。
もう誰も待っていないのに、帰る者だけを待ち続ける灯り。
「入口は時計。出口は未登録世界か」
セナが拡大鏡を外した。
「こんなもの、壊したら何が出てくるか分からない」
「壊すのは最後です」
俊平は答えた。
「先に中の在庫を確認します」
「在庫って言い方、嫌い」
リィンが言った。
「私もです」
帰る家も、思い出も、人を待つ気持ちも。
台帳に数量を書けば、物品に見えてしまう。
だが数量を数えなければ、奪われた数さえ分からない。
管理はいつも、守ることと支配することの境目に立っている。
俊平は抹消契約簿を開いた。
「工程名、帰還先保管庫臨時監査」
リゼットが記録する。
「目的、イネス・ラートの意思確認。売却された帰還先の保全。相模俊平の帰還先契約の無効化」
「参加者は?」
「俺、リゼット、ノア、ミルカ」
グレンが机を叩いた。
「なんで俺は外す」
「中で道が分かれたら、力では戻れません。工廠側で扉を保持してください」
「また管理官だけ危ない方へ行くのか」
サマラが盆を置く。
人数分の黒パンと、塩を入れた小袋が載っていた。
「帰る場所が分からなくなったら、食べたものを思い出してください」
俊平は黒パンを一つ受け取る。
固く、少し焦げている。
第十三工廠の味だった。
「これを食べた場所へ帰る。それで十分です」
サマラは言った。
一次帰還先、第十三工廠。
書類ではなく、手の中の重さがその意味を教えてくれた。
鐘が一打ちだけ早く鳴った。
借りた一拍。
俊平の腕時計が逆回転し、整備台の下に黒い扉が現れる。
ミルカが扉の蝶番へ帰還灯を取り付けた。
「十五分。灯りが赤くなったら引っ張り戻す」
「何を引っ張るんです」
「相模さんの腕」
「また腕ですか」
「目印になる部分がそこしかないの」
腕時計から伸ばした細い炉線を、グレンが握る。
俊平たちは黒い扉をくぐった。
地下契約庫には、天井がなかった。
黒い空の下に、家が並んでいる。
石造りの家。
木の小屋。
軍用天幕。
施療院の寝台。
工場の休憩室。
一つとして同じものはない。
それなのに、すべて無人だった。
窓には灯りがあり、鍋から湯気が上がり、椅子は今しがた誰かが立ったように揺れている。
帰る者だけが欠けていた。
「死者記録ではありません」
ノアが黒い箱を開く。
「ここにあるのは、帰還先だけ。人の記録が切り離されています」
リゼットが最初の家の札を読む。
所有者、炭鉱夫セム。
売却理由、妻の薬代。
受領者、都市燃料局。
利用状況、炉温維持に十一年。
窓の中で女が食卓を整えている。
顔は見えない。
同じ皿を置き、同じスープを注ぎ、誰も来ない扉を見つめる動作を繰り返していた。
「あれは人ですか」
リゼットが問う。
「帰還先が保存した期待です」
背後から答えが返った。
黒い制服の老人が、道の中央に立っている。
胸には都市契約庫保管長の銀章。
右手に大きな剪定鋏を持ち、左手には切り取られた家の鍵を束ねていた。
「ザハル・エム。帰還先保管長です」
老人は丁寧に頭を下げた。
「無断入庫は契約違反ですが、納品物ご本人の来訪は百十七年ぶりです。歓迎します、相模俊平様」
「俺は納品物ではありません」
「もちろん。納品されたのは、あなたではなく、あなたが帰る先です」
ザハルは笑った。
「人を買うのは奴隷商。私どもは場所だけを扱います」
「帰る場所を奪えば、人も同じように縛られる」
「それは解釈です。契約書にはありません」
俊平は抹消契約簿を掲げた。
「イネス・ラートはどこです」
「受領手続き中です」
「何を受領する」
「あなたの二次帰還先を」
未登録世界。
俊平の元いた世界。
そこへ至る道が、イネスへ渡されようとしている。
「止めてください」
「受領者本人の署名があります」
「誘導された署名です」
「証明を」
ザハルの背後で、一本の道が開いた。
蛍光灯の白い光が漏れる。
油のにおい。
機械の振動。
俊平が元いた工場だった。
道の先にイネスがいる。
彼女は誰かの手を握り、こちらへ背を向けていた。
「お母さん、帰ろう」
少女の声。
「イネスさん!」
俊平が呼ぶ。
イネスは振り向かない。
「呼ばないで」
「その子は娘さんではありません」
「知っています」
足が止まった。
彼女は知っていた。
それでも少女の手を離さない。
「娘ではない。でも、娘が私を覚えている世界へ案内できると言った」
「条件は俺の帰還先です」
「分かっている」
「それでも行くんですか」
イネスが振り返る。
顔の契約文字は、目の下まで広がっていた。
「あなたには二つある。私には一つもない」
リゼットの筆が止まった。
裏切りだった。
はっきりした本人意思による裏切り。
脅迫だけではない。
知らなかったわけでもない。
「一つ余っているなら寄越せと?」
俊平は尋ねた。
「そうです」
イネスは泣いていた。
「正しいとは思っていない。それでも娘に、もう一度お母さんと呼ばれたい」
俊平は怒るべきだった。
帰還先を盗まれた。
信頼を利用された。
だが目の前の女は、燃料局の思想を口にしているのではない。
失った一言を取り戻すために、他人の帰る場所を奪おうとしている。
追い詰められた者から順に、次の誰かを追い詰める。
この保管庫は、その連鎖で建っていた。
「返しません」
俊平は言った。
「あなたを理解することと、俺の帰還先を渡すことは別です」
イネスの顔が固まる。
「なら、力ずくで止める?」
「工程を止めます」
俊平はザハルを見る。
「受領工程の入力は何です」
「本人の署名。対象帰還先。受領対価」
「出力は」
「新しい帰還経路」
「不良条件は」
老人の笑みが消えた。
「ここは工場ではありません」
「人の意思を材料にして、道を生産している。十分に工場です」
セナなら測る。
ミルカなら分解する。
リゼットなら記録する。
俊平は工程の流れを見る。
署名はある。
帰還先もある。
だが受領対価がない。
イネスが差し出したのは何か。
「あなたは何を払いました」
俊平が尋ねる。
「案内人になる可能性」
「まだ案内人ではない。なら未納です」
ザハルが鋏を開いた。
「可能性も資産です」
「測定方法は」
「契約庫が認定する」
「監査記録は」
「非公開です」
「対価の価値を売り手にも買い手にも確認できない契約は、成立ではなく収奪です」
リゼットが抹消契約簿へ大きく書く。
受領対価、未検証。
本人意思、存在。
ただし選択肢、偽装。
受領工程、一時停止を要求。
文字が光り、元の世界へ続く道が揺れた。
「記録した程度で止まるものか」
ザハルが鋏を振る。
俊平と第十三工廠を結ぶ炉線が切断された。
帰還灯が赤くなる。
外でグレンが引いているはずなのに、炉線の先には何の重みもない。
「これであなたの一次帰還先も消えました」
ザハルが言う。
「二次帰還先は受領される。あなたはここに保管される」
周囲の家々の扉が一斉に開く。
中から無数の手が伸びてきた。
帰れない者を、新しい住人として迎える手。
ノアが黒い箱を床へ置いた。
「死亡記録では対抗できません」
ミルカが切れた炉線を拾う。
「つなぐ先がない」
リゼットが俊平を見る。
「管理官。第十三工廠を帰還先に再登録しますか」
登録には接続が必要だ。
だが帰還先は、台帳の文字だけではない。
俊平はサマラから受け取った黒パンを取り出した。
一口かじる。
固い。
焦げている。
少し塩辛い。
工廠の食堂で何度も食べた味。
帰る場所の味だった。
「再登録しません」
俊平は言った。
「切られていないことを確認します」
黒パンを半分に割り、リゼットへ渡す。
リゼットが食べる。
ミルカとノアも続いた。
四人が同じ場所の食事を口にする。
黒い空に、食堂の灯りがともった。
サマラが皿を並べる音。
グレンの怒鳴り声。
セナが計器を落とす音。
リィンの鐘。
帰還先は切断された線ではなかった。
そこにいる者たちと積み重ねた、戻ってよいという確認だった。
切れた炉線の先に、再び重みが戻る。
外からグレンの声が響いた。
「俊平! パン食ってる場合か!」
俊平は思わず笑った。
「帰還先、接続確認」
リゼットが記録する。
「契約庫による切断、失敗」
ザハルの顔が歪む。
家々から伸びた手が、俊平ではなく老人へ向きを変えた。
「保管長」
窓の中の期待が囁く。
「返して」
「返して」
「返して」
百年分の声が重なる。
ザハルは鋏で手を切り払い、暗い路地へ逃げた。
その胸から銀章が落ちる。
ミルカが拾い上げた。
裏面に刻まれた名前を読む。
ガルム・レダ。
「七人の鎖機能」
俊平が言う。
「保管長はガルムの名を使っている」
本物なのか。
奪った名なのか。
追う時間はなかった。
帰還灯が明滅している。
残り三分。
元の世界への道が閉じ始めた。
少女の姿が崩れ、赤い革手袋のカロナへ戻る。
「契約はまだ終わっていない」
カロナがイネスの手を引く。
「娘に会いたいのでしょう」
イネスは動かない。
俊平を見る。
「私は、あなたを売ろうとした」
「記録しました」
「許すの」
「今は判断しません」
「またそれ」
「ただし、帰るかどうかは自分で決めてください。娘の幻でも、俺への謝罪でもなく」
イネスは少女の手を見た。
それから、首を横に振った。
「私の娘は、私を知らない」
声が震える。
「だから会いに行く。知らないままでも、生きている本人に」
少女の手を離した。
カロナの姿が黒い紙へ崩れる。
受領契約、本人撤回。
抹消契約簿に文字が浮かんだ。
俊平の二次帰還先、納品停止。
返還処理、未完了。
「まだ戻ってはいません」
リゼットが告げる。
「十分です」
俊平はイネスの腕を掴んだ。
全員で炉線を引く。
黒い扉をくぐる直前、俊平は振り返った。
無数の家が並んでいる。
灯りをつけたまま、持ち主を待っている。
その一番奥に、元の世界の工場があった。
入口に一人の男が立っている。
作業服。
白髪。
胸の名札には、相模と書かれていた。
俊平の父の名だった。
死んだはずの父が、工場の扉を押さえている。
「まだ帰るな」
声は聞こえない。
それでも口の動きで分かった。
「そっちは、お前の工場じゃない」
黒い扉が閉じた。
第十三工廠へ戻ると、鐘が借りた一拍を返した。
全市の時計が一秒だけ進む。
誰かが失った時間を、別の誰かから取らないための返還だった。
イネスは床へ座り込み、両手で顔を覆った。
リィンが黙って水を渡す。
二人の間に、許しはまだない。
必要なのは、すぐに許すことではなかった。
裏切りを消さず、帰る道も奪わず、次の選択まで監査することだった。
「優先順位を更新します」
リゼットが台帳を開く。
俊平は答える。
「第一、帰還先保管庫の入口を共同保全」
「第二、保管されている帰還先の全件調査」
「第三、ザハル・エムとガルム・レダの同一性確認」
「第四、イネスさんの娘の所在確認」
「第五、俺の二次帰還先の返還完了」
「第六は?」
俊平は止まった腕時計を見る。
文字盤に黒い扉はない。
代わりに、小さな文字が刻まれていた。
相模工業、第一工場。
閉鎖済み。
閉鎖日。
俊平が異世界へ来た、その翌日。
「元の世界の工場が、なぜ俺を帰そうとしなかったのか調べます」
父は言った。
そっちは、お前の工場ではない。
ならば、俊平が働いていた場所は何だったのか。
誰が古い鐘を鳴らし、彼をこの世界へ送ったのか。
帰還先保管庫には、まだ答えが残っている。
家の形をして。
灯りをつけて。
帰る者が扉を開くのを待ちながら。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第25話では、売却された帰還先が家の姿で保存される「帰還先保管庫」へ入りました。
イネスは俊平の帰還先を奪う意思があったことを認めますが、最後には偽りの娘ではなく、自分を知らない現実の娘へ会いに行く道を選びます。
また、帰還先は書類や導線だけではなく、共に食べた味や「戻ってよい」と認める人々によって結ばれることも示されました。
保管長ザハルの銀章には、七人の一人であるガルム・レダの名が刻まれています。
さらに俊平の元いた工場は、彼が異世界へ来た翌日に閉鎖されていました。
次回はガルムの鎖機能と、俊平を送り出した元の世界の工場の秘密を追います。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




