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異世界工場管理  作者: 好山 雪


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第24話 売られた帰還先

いつも読んでくださり、ありがとうございます。


第十三工廠の鐘は正しい時刻を取り戻し、シーラ・メイズの帰還意思も確認されました。


しかし、燃料局と外縁案内人の契約報酬は「帰還先一名分」。


さらに、俊平の止まっていた腕時計が動き始め、元の世界へつながる光景まで見せました。


今回は、売られた帰還先を取り戻すための契約調査が始まります。


それでは、第24話をお楽しみください。


腕時計は、一秒ごとに俊平の皮膚へ食い込んだ。


針が動くたび、手首の内側に細い黒線が増えていく。


まるで時間が傷として記録されているようだった。


「切ります」


ミルカが鋏を構えた。


「時計ごとですか」


「腕ごと切るよりましでしょ」


冗談には聞こえなかった。


第十三工廠の整備台には、俊平の左腕が固定されている。


セナは測定器を三台並べ、リゼットは一秒ごとの変化を記録していた。


時計の留め金は外れない。


革帯を切ろうとすれば、刃が元の位置へ戻る。


燃やせば、炎の方が一秒前へ戻った。


「物品じゃない」


セナが計器を睨む。


「帰還契約の時刻印よ。相模さんの時間そのものに留められてる」


「契約した覚えはありません」


「契約に本人の署名が必要だと思ってる?」


室内の隅から声がした。


誰もいなかった場所に、ひとりの女が立っていた。


灰色の長衣。


指先まで墨で汚れ、首から十数本の鍵を下げている。


年齢は三十代にも、六十代にも見えた。


顔の左半分には細かい契約文字が刻まれている。


グレンが斧を抜いた。


「どこから入った」


「扉です」


「開いてねえ」


「記録上は開いていました」


女は一枚の紙を見せた。


第十三工廠、臨時契約監査員入場許可。


俊平の署名がある。


本物と同じ筆跡だった。


ただし日付は、明日。


「私はイネス・ラート」


女は鍵を鳴らした。


「都市契約庫、抹消記録係。消された契約だけを保管しています」


「燃料局の人間ですか」


「昨日までは」


リゼットが許可証を受け取る。


「明日付の署名を、どうやって」


「相模管理官が明日、私の入場を許可するからです」


「許可しなかったら?」


「この紙が偽造になります。私は捕まり、あなたの帰還先は燃料局に納品される」


イネスは淡々と答えた。


「選んでください。未来を守るか、現在の規則を守るか」


俊平は腕時計を見た。


秒針が一周するたび、元の世界の終業チャイムが遠くで鳴る。


案内人は道を選ばせる。


そして選んだ者に、自分の意思だったと思わせる。


「許可証は保留」


俊平は言った。


「あなたを監査対象として受け入れます。行動にはリゼットが同行。持ち込んだ記録はノアさんを含む共同保全。明日、内容を確認した後で正式な許可を判断します」


イネスが初めて笑った。


「契約の外へ欄を足す人は嫌いではありません」




イネスが持ってきたのは、革表紙の薄い台帳だった。


表紙には何も書かれていない。


だが開くと、室内の全員の名前が一度だけ浮かび、すぐ消えた。


「抹消契約簿です」


「消されたのに残っている?」


リゼットが問う。


「契約は消えません。見えなくなるだけです」


イネスは赤い革手袋を台帳の上へ置いた。


鐘買いカロナが残したものだった。


革から黒い文字がにじみ、白紙へ移る。


契約者、都市燃料局。


仲介者、カロナ・ヴィス。


受託者、外縁案内機能。


契約対象、全市鐘楼。


業務内容、帰還経路の一拍遅延。


成果報酬、帰還先一名分。


「一拍遅延は何のためです」


俊平が尋ねる。


イネスは次の頁を開いた。


鐘が一拍遅れるたび、帰還経路にごく小さな隙間が生じる。


本来の道から外れた帰還情報は、白炉エリスへ流れ込む。


都市はそれを熱へ変え、百年以上使い続けた。


「つまり燃料局は、鐘が嘘をついていたことを知っていた」


リゼットの声が冷える。


「知っていたどころか、維持費を払っていました」


イネスが支出記録を示す。


鐘守りへの口止め料。


施療院への記憶処置費。


死亡通知の再発行費。


そして、外縁案内人への契約更新料。


「ヨナスさんは、それを止めようとして殺された?」


リィンが扉の前に立っていた。


いつから聞いていたのか分からない。


顔は青ざめていたが、鐘守りの鍵を強く握っている。


イネスは答えず、台帳の頁をめくった。


ヨナス・ベル。


契約違反。


処分、転落事故として記録。


実行担当者の名は黒く塗られている。


リィンが紙へ手を伸ばす。


「触らないで」


イネスが止めた。


「抹消記録に触れれば、代わりにあなたの記録が消えます」


「父さんを殺した人の名前がある」


「あります」


「見せて」


「対価が必要です」


イネスの顔に刻まれた文字が動いた。


俊平は彼女とリィンの間に立つ。


「その取引は認めません」


「本人が望んでも?」


「復讐したい意思と、記録を売る同意は別です」


リィンは俯いた。


だが鍵から手を離さなかった。


「管理官。私、子供じゃない」


「はい」


「私のことを勝手に守らないで」


俊平は言葉を失った。


帰還権。


本人以外が帰る場所を決めない権利。


守るという言葉で、本人の選択を奪えば、燃料局と同じになる。


「では共同監査の下で、対価と危険を全部説明してください」


俊平はイネスを見る。


「その後でリィンが決めます」


「対価は、鐘守りとしての姓」


イネスが告げた。


「実行者の名を受け取れば、あなたはベルの名を失います。父の娘だった記録も消える」


リィンの唇が震えた。


父を殺した者の名前。


父から返された自分の名前。


両方は持てない。


「今は、買わない」


長い沈黙の後、リィンは答えた。


「でも、諦めたわけじゃない。名前を売らなくても調べられる方法を探す」


イネスが頷く。


「良い選択です」


「選ばせようとした人が言わないで」


リィンは睨み返した。


その目には涙より強いものがあった。




「成果報酬の帰還先一名分は、誰のものですか」


俊平が本題へ戻した。


イネスは最後の頁を開く。


そこには名前ではなく、条件が書かれていた。


未登録世界から来た者。


都市の中心炉に管理権限を持つ者。


一次帰還先と二次帰還先を自ら定義した者。


「俺ですね」


「候補はあなた一人です」


「いつ契約された?」


「百十七年前」


室内が静まり返る。


俊平がこの世界へ来るより、はるか前。


生まれるより前だった。


「存在していない人間を報酬にできるんですか」


「名前を指定しなければ可能です。条件に合う者が現れた時、契約が完成する」


「それで俺が召喚された?」


「順序が逆かもしれません」


イネスは俊平の腕時計を指した。


「契約に合う者を待ったのではなく、契約に合うよう育った者を選んだ」


蛍光灯。


油のにおい。


元の世界の工場。


相模主任と呼ぶ声。


俊平は、自分がこの世界へ来た日を思い出した。


工場の夜勤。


停止したはずの生産ライン。


誰も押していない起動ボタン。


警告灯の代わりに鳴った、古い鐘の音。


あの時から、道は選ばれていた。


「案内人は元の世界にもいた」


リゼットが呟く。


「可能性があります」


イネスが答える。


「案内機能は人ではありません。道と道の間に生じる役職です。名を返すたび、次の案内人へ移る」


「七人目の身体は?」


「最初の身体は、もうありません」


白炉を運んだ七人。


その七人目は死んだのではない。


案内するたびに名と身体を替え、百年以上歩き続けている。


「今の案内人は誰です」


イネスは答えなかった。


代わりに、自分の首から鍵を一本外した。


「地下契約庫へ行けば分かります」


「燃料局の?」


「都市契約庫の最下層。存在しない契約を保管する場所です」


鍵の柄には、俊平の腕時計と同じ製造番号が刻まれていた。


「なぜあなたがこれを」


「あなたから受け取りました」


「俺は渡していない」


「明日のあなたから」


イネスは未来の日付の許可証を示す。


「明日、あなたは私を契約庫へ入れ、その時計を壊すために鍵を渡す」


未来の俊平。


未来の署名。


すでに決められた行動。


案内人が用意した道。


「行きません」


俊平は言った。


イネスの表情が初めて崩れた。


「何を」


「地下契約庫へは行く。でも明日ではない。今から行きます」


「時刻門は明日しか開かない」


「正しい時刻に開く必要はありますか」


俊平はリィンを見る。


鐘はもう嘘をつかない。


だからこそ、今度は人間が意図して時刻をずらす。


奪うためではなく、奪われた道を取り戻すために。


「リィン。第十三工廠の鐘を、一打ちだけ早く鳴らせますか」


リィンは考えた。


「できる。でも、それも嘘になる」


「記録します。誰が、何のために、どれだけ早めたか。終わった後で正しい時刻へ返します」


嘘を隠すから支配になる。


誰の意思で生じた差かを残し、返すところまで工程にする。


リィンは鐘守りの鍵を掲げた。


「一打ちだけ。借りた一拍は、必ず鐘に返して」


「約束します」




準備は三十分で終えた。


ノアは抹消契約簿を黒い箱へ収める。


セナは時刻差分計を組み直す。


ミルカは俊平の腕時計へ、切断用の細い炉線を巻いた。


グレンとサマラは工廠に残り、燃料局の追手に備える。


リゼットは同行記録の最初に、こう書いた。


地下契約庫調査。


目的、帰還先契約の保全および本人への返還。


案内人の指定時刻を拒否。


出発時刻、本日正午の一拍前。


イネスはその記録を見ていた。


「未来が変われば、私の許可証は偽造になります」


「はい」


「私は燃料局に戻れない」


「戻るつもりだったんですか」


「戻る場所があることと、戻りたいことは別です」


イネスは顔の契約文字を指でなぞった。


「私の帰還先も、契約庫にあります」


「何と引き換えに売ったんです」


「娘の命」


声に初めて感情が混じった。


「第九施療院の無痛施療石が、まだ試験段階だった頃です。代金として、私が帰る家の記録を渡した」


「娘さんは」


「助かりました」


「今は?」


「私を知りません。家の記録から私が消えたので」


俊平は何も言えなかった。


イネスは協力者ではない。


燃料局を裏切った善人でもない。


自分の帰還先を買い戻すため、俊平の契約を利用しようとしている。


「地下で俺を売りますか」


「必要なら」


イネスは迷わず答えた。


「では、その可能性も記録します」


「それでも連れていく?」


「あなたにしか開けられない扉がある。そして、あなたにも本人へ返されるべきものがある」


俊平は彼女から目を逸らさなかった。


「裏切るなら、記録の残る場所でお願いします」


イネスが乾いた笑いを漏らした。


「変な管理官」


「よく言われます」




鐘楼から合図が来た。


正午の一拍前。


リィンが鐘を鳴らす。


都市のすべての時計が、一秒だけ止まった。


俊平の腕時計だけが逆回転する。


整備台の下に、黒い扉が現れた。


扉には七つの鍵穴。


そのうち六つは名前で塞がれている。


エリシア。


ガルム。


シーラ。


オルヴィス。


ナザロ。


ヴェント。


七つ目だけが空いていた。


イネスが鍵を差し込む。


回らない。


「なぜ」


彼女の顔色が変わる。


鍵の製造番号が、ゆっくり書き換わっていた。


俊平の腕時計と同じ番号から、別の名前へ。


イネス・ラート。


「あなたの鍵になった」


リゼットが言う。


「違う」


イネスは鍵を抜こうとした。


だが指が離れない。


黒い文字が鍵から腕へ這い上がる。


「私は案内人じゃない」


扉の向こうから声がした。


「今は、まだ」


俊平たちが鐘楼で聞いた声。


男とも女ともつかない、仮面の声。


「帰還先を売った者は、道を持たない」


「やめて」


イネスが初めて怯えた。


「道を持たない者は、他者の道を案内できる」


七つ目の鍵穴が、イネスの名を飲み込んでいく。


俊平は炉線を掴み、彼女の腕へ巻いた。


「ミルカ!」


「切る!」


炉線が白く発光する。


鍵とイネスの間の契約文字が焼き切られた。


代わりに俊平の腕時計へ黒い亀裂が走る。


秒針が止まった。


黒い扉が少しだけ開く。


隙間から、数え切れない家のにおいが流れ出した。


焼きたてのパン。


雨に濡れた畳。


子供の寝息。


古い工場の油。


誰かが帰るはずだった場所。


売られ、保管され、報酬にされた帰還先。


その中央に、一人の少女が立っていた。


灰色の長衣。


イネスと同じ目。


「お母さん」


少女は確かにそう呼んだ。


イネスが扉へ手を伸ばす。


「待って」


俊平が止めるより早く、彼女は中へ踏み込んだ。


扉が閉じ始める。


「イネス!」


返事の代わりに、抹消契約簿が外へ投げ返された。


開かれた頁に、新しい契約が浮かぶ。


案内機能継承候補、イネス・ラート。


交換条件、娘との帰還。


承諾署名。


イネスの名があった。


俊平の目の前で書かれたものではない。


それでも署名は本物だった。


未来の署名か。


それとも、扉の中で今書いたのか。


黒い扉が閉じる直前、少女の顔が変わった。


幼い娘ではない。


赤い革手袋をしたカロナ・ヴィスだった。


彼女は笑い、イネスの肩へ手を置いた。


「契約成立」


扉が閉じた。


整備台の下には何も残らない。


イネスも、鍵も消えた。


リゼットが震える手で抹消契約簿を拾う。


「裏切られた?」


セナが問う。


俊平は契約頁を見た。


イネスは俊平を利用した。


だが、娘を呼ぶ声も聞いていた。


偽物だと知る時間はなかった。


「まだ判断しません」


俊平は答えた。


「本人意思と誘導を分けて記録します」


抹消契約簿の次の頁が、ひとりでに開いた。


そこには俊平の帰還先契約があった。


成果報酬、帰還先一名分。


納品済み。


受領者、イネス・ラート。


「納品済み?」


リゼットが息を呑む。


俊平の腕時計が再び動き出した。


今度は秒針だけではない。


文字盤の奥で、黒い扉が開いている。


元の世界の工場に、誰かが立っていた。


灰色の長衣。


顔の左半分に契約文字を刻んだ女。


イネスが、俊平の机へ手を伸ばす。


机の上には社員証が置かれていた。


相模俊平。


所属、第二製造部。


帰還先、自宅。


イネスが社員証を裏返す。


裏面には、見覚えのない名前が印刷されていた。


相模俊平ではない。


カロナ・ヴィスでもない。


白炉を運んだ七人目の名。


アデル・ラート。


イネスと同じ姓。


腕時計の映像が消えた。


抹消契約簿に最後の一文が浮かぶ。


外縁案内機能、初代名を確認。


アデル・ラート。


イネス・ラートとの血縁照合、一致。


イネスは案内人に選ばれたのではない。


百十七年前に名を失った七人目を、家族として探し続けていた。


そして彼女の娘を名乗ったものは、娘ではなかった。


初代案内人が見せた、帰る場所の幻だった。


「優先順位を更新します」


リゼットが言う。


俊平は止まらない時計を押さえた。


「第一、イネスさんの本人意思を確認して保護」


「第二、アデル・ラートの記録保全」


「第三、俺の帰還先契約の受領を無効化」


「第四、カロナの追跡」


「第五は?」


俊平は抹消契約簿を閉じた。


「帰還先を売った人たちに、売らずに済む選択肢を作ります」


一人だけ取り戻しても、次の誰かが売る。


娘の命。


今日の食事。


前線から帰るための金。


帰る場所は、追い詰められた者から順に買われていく。


それを止めなければ、案内人はいくらでも生まれる。


俊平の腕時計が一秒を刻む。


黒線がまた一本、皮膚に増えた。


帰還先はすでに納品された。


それでも、本人の同意なしに完了した工程なら。


管理官の仕事は一つだった。


工程を止める。


記録を開く。


そして、持ち主へ返す。


たとえ取り戻す先が、元の世界の工場の中でも。


たとえその道の入口で、裏切った協力者が待っていても。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


第24話では、消された契約を扱うイネス・ラートが登場し、全市鐘楼の一拍遅延が白炉への帰還情報供給に利用されていたことが明らかになりました。


イネスは協力者である一方、娘との帰還を望み、俊平たちを利用する危うさも持っています。


そして、白炉を運んだ七人目の初代名は「アデル・ラート」。


イネスと血縁関係にある人物でした。


俊平の帰還先はすでに契約報酬として納品され、受領者にはイネスの名が記されています。


彼女は本当に俊平を裏切ったのか、それとも案内人が見せた偽りの帰還先に捕らえられたのか。


次回は地下契約庫へ入り、イネスと売られた帰還先を追います。


引き続き読んでいただけたら嬉しいです。

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