第9話「傲慢な使者」
グラシエール帝国の応接室には、穏やかな午後の光が差し込んでいる。
繊細な彫刻が施された木製のテーブルの上には、純白のティーカップが置かれ、注がれた紅茶が琥珀色の輝きを放っている。
湯気とともに立ち上るベルガモットの爽やかな香りが、室内の空気を優しく満たしている。
リアナはソファに深く腰掛け、両手でカップを包み込むようにしてその温もりを感じている。
向かいの席では、アルヴィドが分厚い書物に目を通しながら、時折リアナの方へ静かな視線を向ける。
彼がページをめくる紙の擦れる音が、心地よいリズムを刻んでいる。
足元ではルティが丸くなり、日向の温かさを独り占めするように穏やかな寝息を立てている。
この城で過ごす時間は、リアナにとって何にも代えがたい平穏そのものだった。
しかし、その静寂は、廊下から響いてくる硬い足音によって唐突に破られる。
応接室の扉が開き、厳しい表情を浮かべた騎士が姿を現す。
「陛下、ソルスティス王国からの使者が到着いたしました。謁見を求めております」
騎士の固い声が響いた瞬間、部屋の空気が一瞬にして緊張に包まれる。
リアナの指先が小刻みに震え、カップの中の水面が微かに揺れる。
ソルスティスからの使者。
その言葉が意味するものを理解し、リアナの胸の奥で心臓が激しく跳ねる。
アルヴィドは書物をゆっくりと閉じ、氷のように冷徹な瞳を扉の方へ向ける。
「通せ」
短く発せられた声には、圧倒的な威厳と、隠しきれない静かな怒りが込められている。
リアナは立ち上がろうとするが、膝から力が抜け、ソファに沈み込んでしまう。
アルヴィドは立ち上がり、リアナの側へと歩み寄る。
彼の大きな手がリアナの震える肩にそっと置かれ、その温もりが彼女の恐怖をわずかに和らげる。
「案ずるな。私がお前を守る」
低く囁かれた言葉に、リアナは小さく頷く。
謁見の間へと向かう廊下を歩く間、リアナの足取りは重い。
石造りの床を叩く靴音が、不吉な宣告のように耳に響く。
冷たくなる指先を隠すように、リアナは両手を体の前で強く握りしめる。
謁見の間の重厚な扉が開かれると、そこには派手な装飾品を身につけた恰幅の良い男が立っていた。
男の顔は脂ぎっており、顎を高く上げて周囲の騎士たちを見下している。
彼の身につけている金や宝石が、動くたびに耳障りな金属音を立てる。
男はアルヴィドの姿を認めると、形式だけの浅いお辞儀をする。
「お初にお目にかかります、グラシエール国王陛下。私はソルスティス王国第一王子、レオン殿下の名代として参りました」
男の甲高い声が、広い謁見の間に不快な響きをもたらす。
アルヴィドは玉座に深く腰掛けたまま、男を見下ろす。
その眼差しは、羽虫を見るように冷ややかで感情を欠いている。
「何の用だ」
短く切り捨てるようなアルヴィドの言葉に、使者の男はわずかに顔をしかめるが、すぐに傲慢な笑みを浮かべる。
「単刀直入に申し上げます。そちらに保護されている我が国の女、リアナを引き渡していただきたい。彼女は我が国の聖女であり、レオン殿下の寛大な御心により、再びその地位に戻すことが決定いたしました。さあ、リアナ殿、早く荷物をまとめて共に祖国へ戻りましょう」
男の言葉には、リアナの意思を尊重する響きなど微塵もない。
ただ王子の命令を押し付け、従うのが当然だという態度だ。
リアナは一歩後ずさる。
あの冷たい牢獄のような国へ、再び戻ることなど絶対にできない。
彼女の恐怖を感じ取ったルティが、喉の奥で低い唸り声を上げる。
小さな体から放出される冷気が、床石を這うようにして使者の足元へと広がっていく。
室内の温度が一気に急降下し、使者の吐く息が白く染まる。
「な、なんだこの寒さは……」
使者が肩を震わせ、周囲を見回す。
アルヴィドはゆっくりと玉座から立ち上がり、石段を下りて使者の目の前まで歩み寄る。
彼から放たれる目に見えない重圧が、室内の空気をさらに重く、息苦しいものに変えていく。
床石の表面が薄っすらと凍りつき、ピキリという微かな音が静寂を裂く。
「引き渡すだと? 貴様らは、彼女を偽物と呼び、凍てつく森へ捨てたのではないのか」
アルヴィドの声は地を這うように低く、深淵のような恐ろしさを秘めている。
使者はその威圧感に耐えきれず、膝をわずかに震わせる。
「そ、それは手違いでして……。殿下も深く反省しておられます。それに、彼女は我が国の臣民です。返還の要求を拒むことは、国際的な問題に……」
使者の言葉を遮るように、アルヴィドは冷たく言い放つ。
「彼女はすでに、このグラシエール帝国の民であり、私が庇護する大切な存在だ。ソルスティスのような泥舟に、彼女を返す理由がどこにある」
アルヴィドの瞳から放たれる鋭い光が、使者を射抜く。
ルティの体がわずかに膨張し、毛が逆立ち、室内の空気が氷点下まで下がるような強烈な冷気が渦を巻く。
使者は恐怖のあまり言葉を失い、後ずさりして尻餅をつく。
「二度とその汚い足をこの国に踏み入れるな。レオン王子に伝えよ。リアナを求めるならば、私自身が相手になると」
アルヴィドの決定的な宣告が、謁見の間に響き渡る。
使者は青ざめた顔で立ち上がり、逃げるようにして扉の向こうへと消えていく。
重厚な扉が閉ざされた後、室内の冷気は嘘のように引き、元の穏やかな温度へと戻っていく。
リアナは全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
アルヴィドが素早く腕を伸ばし、彼女の体をしっかりと支える。
「終わった。もう何も恐れる必要はない」
彼の低い声が、リアナの耳元で優しく響く。
リアナは彼の広い胸に顔を埋め、安堵の涙を流す。
大粒の涙が彼女の頬を伝い、アルヴィドの外套を微かに濡らす。
その涙の温かさが、リアナがこの国で得た絶対的な守護と、決して切れることのない強い絆の証だった。




