第10話「守るべき場所」
謁見の間の重厚な扉が背後で重い音を立てて閉ざされた瞬間、リアナの膝から最後の一端の力が抜け落ちた。
石造りの冷たい床に崩れ落ちそうになった彼女の体を、漆黒の外套に包まれたアルヴィドの強靭な腕がしっかりと抱きとめる。
彼の胸板越しに伝わってくる規則正しい心臓の鼓動が、リアナの耳の奥でうるさく跳ねていた脈拍を少しずつ落ち着かせていく。
外套の表面から漂うかすかな獣の毛皮の匂いと、彼自身がまとう冷涼な雪のような香りが、リアナの鼻腔を満たした。
アルヴィドは何も言わず、ただリアナの細い背中に大きな掌を添え、彼女の呼吸が整うのを静かに待っている。
使者が持ち込んだソルスティス王国の淀んだ空気は、アルヴィドの放つ清冽な気配によって完全に浄化されていた。
リアナの指先はまだ微かに震えていたが、それは恐怖からくるものではなく、張り詰めていた緊張が急速に解けた反動だった。
足元ではルティが心配そうに短い鼻鳴らしの声を上げ、リアナの足首に柔らかな毛並みを擦りつけている。
「歩けるか」
頭上から降ってきたアルヴィドの声は、先ほど使者に向けた冷酷な刃のような響きを完全に消し去り、深い湖のように穏やかだった。
リアナは小さく頷き、アルヴィドの腕の中で姿勢を正そうとするが、彼はリアナの体を支えたままゆっくりと歩き出す。
向かった先は、リアナが最初に魔力を注ぎ込み、色鮮やかな花々を咲かせた王城の大温室だった。
ガラス張りの天井から降り注ぐ午後の柔らかな光が、室内に満ちる植物たちの緑の葉脈を透かして黄金色に輝かせている。
温室の中に足を踏み入れると、湿気を帯びた温かい空気と、甘く熟した果実のような花の香りが全身を包み込んだ。
外の凍てつく世界とは完全に隔絶されたこの空間は、リアナ自身の力とアルヴィドの庇護が作り上げた安全な箱庭だった。
アルヴィドは温室の中央に置かれた、蔓草の意匠が彫り込まれた白い木製のベンチにリアナを静かに座らせる。
彼自身は隣には座らず、リアナの目の前で片膝をつき、彼女と視線の高さを合わせた。
「すまない、あの男の言葉でお前に過去の傷を思い出させてしまったな」
謝罪の言葉を口にするアルヴィドの青い瞳には、隠しきれない痛みの色が浮かんでいた。
一国の王である彼が、追放された異国の娘に対してひざまずき、許しを乞うような姿勢をとっている。
その事実がリアナの胸の奥を強く締め付け、目頭の奥に熱い塊をせり上がらせた。
「謝らないでください、アルヴィド様が私を庇ってくださったから、私は立っていられたのです」
リアナの声は微かに掠れていたが、その響きには迷いのない確かな感謝の念が込められていた。
アルヴィドは革手袋を外し、露出した大きな掌でリアナの冷え切った両手をそっと包み込む。
彼の手のひらには剣を握り続けたことによる硬い剣だこがいくつもあったが、その感触はリアナにとってこの世の何よりも温かく、頼もしいものだった。
「ソルスティスの王子は、お前が持つ力の価値にようやく気づき、欲をかいたのだろう」
アルヴィドの声のトーンが一段低くなり、彼の眉間に深いシワが刻まれる。
「だが、一度自らの手で捨てた宝石を、土にまみれてから拾い直そうとするなど、身の程を知らぬにも限度がある」
彼の言葉には、リアナを傷つけた者たちへの静かで深い怒りが込められていた。
リアナはアルヴィドの掌の中で自分の指先をわずかに動かし、彼の温もりに応えるようにそっと握り返す。
その小さな動きに気づいたアルヴィドは、険しかった表情をわずかに和らげ、深く静かな息を吐き出した。
「リアナ、私を見てくれ」
名を呼ばれ、リアナが視線を上げると、至近距離にあるアルヴィドの瞳が、彼女の顔を真っ直ぐに捉えていた。
その視線には、いかなる虚飾も打算も存在せず、ただ純粋な決意だけが揺るぎなく輝いている。
「あの使者にも言った通り、お前はすでにこのグラシエール帝国の民であり、私の庇護下にある」
アルヴィドの親指が、リアナの手の甲を優しく撫でる。
「いや、国や立場など関係ない、私は私個人の意志として、お前を何があっても守り抜くと決めている」
その言葉は、大げさな誓いでも甘い囁きでもなく、大地に根を張る大樹のような確固たる事実としてリアナの心に打ち込まれた。
リアナの視界が急速に水面のように歪み、瞬きをした瞬間に大粒の涙が頬を滑り落ちた。
祖国では常に誰かの身代わりとして扱われ、自分の存在意義を否定され続けてきた。
だが目の前にいるこの人は、リアナという一人の人間を正面から見据え、その存在すべてを肯定してくれている。
アルヴィドはもう片方の手を伸ばし、リアナの頬を伝う涙の痕を、硬い指の腹で丁寧に拭い去った。
「泣くことはない、お前はもう二度と、あの冷たい森を一人で歩くことはないのだから」
彼の指先から伝わる不器用で真っ直ぐな優しさが、リアナの心の奥底にこびりついていた最後の氷を溶かしていく。
温室のガラス屋根を叩く微かな風の音が、今の二人にはまるで祝福の音楽のように心地よく響いていた。
リアナは溢れ続ける涙を止めることもせず、ただアルヴィドの温かな掌の感触に全神経を委ねる。
もう何も恐れる必要はないのだと、彼女の魂が深く安堵の息を吐き出した。
この温室に満ちる花の香りも、窓越しの光も、目の前の彼が与えてくれる熱も、すべてがリアナにとって永遠に守るべき大切な場所になっていた。




