第7話「神獣の恩返し」
朝の陽光が、厚いガラス窓を透過して部屋の絨毯に四角い光の模様を描き出している。
光の帯の中で、微小な埃が金色の砂金のようにゆっくりと舞い踊る。
リアナは滑らかな絹のシーツから腕を伸ばし、冷たい空気に触れた肌をわずかに震わせる。
ベッドの足元では、白い毛玉のようなルティが規則正しい寝息を立てている。
その小さな体が上下するたびに、周囲の空気がほんのりと温かさを増していく。
ルティは神獣としての強大な力を内に秘めているが、リアナの前では常に愛らしい仔犬の姿を保っている。
リアナがそっと指先を伸ばし、その背中の柔らかな毛並みに触れる。
絹糸よりも滑らかで、新雪のように純白な毛並みから、優しい熱が指の腹へと伝わってくる。
ルティは心地よさそうに短い尾を揺らし、リアナの手のひらに鼻先を押し付ける。
その湿った鼻の感触に、リアナの口元から自然と笑みがこぼれる。
部屋の重厚な扉が控えめに叩かれ、心地よい木の音が響く。
入室を促すと、焦茶色の制服に身を包んだメイドが、銀の盆を両手で丁寧に持ちながら部屋へ入ってくる。
盆の上には、湯気を立てる陶器のカップと、焼きたての丸いパンが乗っている。
香ばしい小麦の匂いと、果実を煮詰めたような甘いお茶の香りが、部屋の空気を一瞬にして塗り替える。
「おはようございます、リアナ様」
メイドは穏やかな笑みを浮かべ、テーブルに朝食の用意を整える。
「ありがとうございます、いつもご苦労様です」
リアナが頭を下げると、メイドは恐縮したように目を伏せる。
「とんでもございません」
メイドの声音には、深い敬意と親愛の情が込められている。
「リアナ様がこの城にいらしてから、庭園の花々は美しく咲き誇り、私たちの心まで温かくなりました」
その言葉に嘘や追従の色はなく、純粋な感謝だけが満ちている。
リアナは胸の奥にじんわりとした熱が広がるのを感じながら、湯気を立てるお茶を一口すする。
果実の酸味と蜂蜜の甘さが舌の上で溶け合い、冷え切っていた胃の腑を優しく温めていく。
焼きたてのパンを手で割ると、中から柔らかな湯気が立ち上る。
外側の硬い皮の歯ごたえと、内側のふんわりとした生地の甘みが、噛み締めるたびに口いっぱいに広がる。
食事を終えたリアナは、厚手のショールを肩に羽織り、ルティを伴って中庭へと向かう。
石造りの階段を下りるたびに、冷たい空気が足首を掠めていく。
しかし、中庭への扉を開け放つと、そこには春の陽だまりのような温かな空気が満ちていた。
色鮮やかな花々が朝露に濡れ、光を反射して宝石のように輝いている。
青や淡い桃色、純白の花弁が風に揺れ、甘く清々しい香りを運んでくる。
庭園の隅では、若い騎士たちが剣の稽古を行っている。
彼らはリアナの姿を認めると、一斉に動きを止め、深く頭を下げる。
その動作には、かつて祖国で向けられていた蔑みの視線など微塵もなく、純粋な敬意が込められている。
リアナは戸惑いながらも、小さく会釈を返す。
ソルスティス王国では、誰も彼女の献身に目を向けることはなかった。
魔力を搾り取られるだけの道具として扱われ、不要になれば冷たい森へと捨てられた。
しかし、このグラシエール帝国では、彼女が息をしているだけで、歩いているだけで、人々が温かい視線を送ってくれる。
その事実が、リアナの強張っていた心を少しずつ、確実にほぐしていく。
庭園の中央に設えられた白い石のベンチに腰を下ろすと、足元の土から微かな鼓動が伝わってくる。
土の奥深くに眠る無数の種子たちが、リアナの魔力を求めてそっと手を伸ばしてくる感覚がある。
彼女は手袋を外し、冷気を帯びた石畳の隙間から覗く黒い土に直接指先を触れる。
体内の魔力が静かに巡り、指先から金色の粒子となって土の中へと溶け込んでいく。
光の粒子を吸い込んだ土は、ゆっくりと温度を上げ、柔らかな弾力を取り戻していく。
硬く閉じていた小さな蕾が、リアナの指先に擦り寄るようにして花弁を開く。
その繊細な生命の動きに、リアナの胸は満ち足りた思いで溢れる。
「精が出るな」
背後から掛けられた低い声に、リアナは肩を震わせて振り返る。
そこには、漆黒の外套を羽織ったアルヴィドが立っていた。
彼の銀色の髪が冷たい風に揺れ、深い青色の瞳がリアナの足元に咲く花を静かに見下ろしている。
「王様……」
リアナが立ち上がろうとすると、アルヴィドは大きな手で彼女の肩を軽く押しとどめる。
「そのままでいい。お前が花を咲かせる姿は、見ていて心が安らぐ」
彼の言葉は飾り気がなく、真っ直ぐにリアナの心へと届く。
アルヴィドはベンチの空いている空間に腰を下ろし、長い足を組む。
ルティが嬉しそうに彼の膝に飛び乗り、丸くなって喉を鳴らすような低い息遣いを漏らす。
アルヴィドの分厚い手が、ルティの白い毛並みを無骨な動作で撫でる。
「この国の大地は、長く冷気の中に取り残されていた。お前の力がなければ、この光景を見ることは二度となかっただろう」
アルヴィドの横顔には、王としての深い憂いと、それを取り払ってくれたリアナへの静かな感謝が刻まれている。
リアナは膝の上で両手を重ね、花弁の揺れを見つめながら答える。
「私はただ、声を聞いただけです。土の奥で、皆が春を待っていました」
『私自身も、ずっと春を待っていたのかもしれない』
胸の奥で密かにそう思いながら、リアナは隣に座るアルヴィドの体温をすぐそばに感じる。
彼の放つ静かな威圧感は、今では恐怖ではなく、絶対的な安心感となって彼女を包み込んでいる。
太陽が高く昇るにつれて、中庭の空気はさらに温かさを増していく。
風が花々を揺らし、甘い香りが二人の間を通り抜けていく。
ルティが短い尾を揺らしながら、リアナとアルヴィドの手の甲に交互に鼻先を押し付ける。
その無邪気な仕草に、アルヴィドの口元がわずかに緩む。
氷の彫刻のように冷たい美貌を持つ彼が、一瞬だけ見せる柔らかな表情。
その変化を目の当たりにして、リアナの心臓が早鐘を打つ。
この穏やかで満ち足りた時間が、永遠に続けばいいと、彼女は心から願うのだった。




