第4話「凍てつく国に咲く花」
微かな衣擦れの音が、静まり返った部屋の空気を優しく揺らした。
リアナは分厚い羽毛の掛け布団を押しのけ、冷たい木の床に裸足を下ろした。
足の裏から伝わってくるのは、刺すような冷気ではなく、よく磨かれた木材が持つほのかな温もりだった。
何日かの間、この広々とした客室で過ごし、メイドたちが運んでくる栄養価の高い食事と温かいお茶のおかげで、すり減っていた体力は嘘のように戻りつつあった。
鏡台に映る自分の顔は、かつての幽鬼のような青白さが消え、うっすらと赤みが差している。
手首や足首にあった擦り傷も、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。
窓枠に手をかけ、重厚なガラス窓を押し開ける。
冷たい風が頬を打ち、銀色の髪がふわりと空中に舞い上がった。
眼下に広がるのは、グラシエール帝国の王城が誇る広大な中庭だった。
しかし、そこに色とりどりの花や豊かな緑の姿はない。
あるのは、霜に覆われて白く変色した土と、枯れ木のように干からびた低木の残骸だけだ。
この国は、数百年前に起きた大規模な魔力災害の影響で、土壌の奥深くまで冷気が染み込み、植物が育たない呪われた土地となっているのだと、世話をしてくれるメイドが申し訳なさそうに教えてくれた。
リアナは窓枠に両手をつき、その荒涼とした景色をじっと見つめた。
ソルスティス王国の庭園は、いつも生命力に溢れ、色鮮やかな花々が競うように咲き乱れていた。
それは彼女が毎日、身を削って魔力を注いでいたからだという事実を、誰も知らなかった。
『この土は、深く眠っているだけだわ』
リアナの胸の奥で、微かな鼓動が跳ねた。
植物や大地が発する声なき声。
彼女には、土の下で身を寄せ合い、寒さに耐えながら春の訪れを待っている種子たちの震えが、手に取るように分かった。
誰に命じられたわけでもない。
ただ、その苦しげな声を見過ごすことができなかった。
リアナは部屋を出て、長い廊下を抜け、中庭へと通じる石段を下りた。
冷たい外気が、薄手のショールを通り抜けて肌を刺す。
ルティがどこからともなく現れ、彼女の足元にじゃれつきながらついてきた。
その白銀の毛並みは、周囲の冷たい空気と同化して、不思議な輝きを放っている。
中庭の中央に立ち、リアナはゆっくりと膝をついた。
両手を霜の降りた土の表面にそっと添える。
指先から伝わってくるのは、長年の寒さに凍りついた土の硬さと、その奥に隠されたわずかな生命の脈動だった。
リアナは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
肺に冷たい空気を満たし、全身の血流を意識する。
心臓の鼓動に合わせて、体の中心から温かなエネルギーが湧き上がってくるのを感じた。
ソルスティス王国にいた頃は、この力を無理やり引き出され、絞り取られるような痛みを伴っていた。
だが今は違う。
誰の強制もなく、ただ自分の意思で、この大地を温めたいと願っている。
彼女の指先から、淡い金色の粒子がこぼれ落ちた。
それは蛍の光のように優しく瞬き、凍てついた土の中へと吸い込まれていく。
金色の粒子は土の表面を伝い、枯れた低木の根元を包み込み、周囲へと波紋のように広がっていった。
パキ、パキと、小さな音が響く。
それは、土の表面を覆っていた霜が溶け、氷の結晶が砕ける音だった。
リアナの周囲の土が、ゆっくりと黒く、本来の柔らかな色を取り戻していく。
そして、その土を押し上げるようにして、小さな緑色の双葉が顔を出した。
一つ、また一つと、双葉は次々に芽吹き、あっという間に中庭の半分を覆い尽くした。
枯れた低木の枝先には、固く閉じていた蕾が一斉に膨らみ始める。
やがて、淡いピンク色や黄色、純白の花弁が、春の陽射しを浴びるように次々と花開いた。
花の甘い香りが、冷たい風に乗ってリアナの鼻腔をくすぐる。
それは、彼女自身の魔力が具現化した、生命の息吹そのものだった。
ルティが嬉しそうに短い尾を振り、咲き乱れる花々の間を駆け回っている。
「……嘘だろう」
背後から聞こえた低い声に、リアナは肩をビクッと震わせて振り返った。
そこには、漆黒の外套を羽織ったアルヴィドが立っていた。
彼の深い青色の瞳は、信じられないものを見るように、大きく見開かれている。
いつもは氷のように冷徹な彼の顔に、明確な驚きの色が浮かんでいた。
リアナは弾かれたように立ち上がり、両手を胸の前で強く握りしめた。
勝手に城の庭を改変してしまったことで、責められるかもしれないという恐怖が、冷や汗となって背中を伝う。
「も、申し訳ありません。土が、あまりにも苦しそうで、つい……」
声が震え、視線が足元をさまよう。
アルヴィドはゆっくりと歩み寄り、リアナの足元に咲く一輪の青い花に視線を落とした。
彼は革手袋を外すと、その花弁にそっと触れた。
「……温かい」
彼がつぶやいた声には、怒りではなく、深い感慨が込められていた。
「数百年もの間、我が国の土は凍てつき、魔術師たちが束になっても、一本の草すら生やすことができなかった」
アルヴィドは立ち上がり、リアナを真っ直ぐに見つめた。
「お前は、これほどの力を持ちながら、ソルスティスで偽物と呼ばれていたのか」
その言葉に含まれた呆れと、静かな怒り。
それはリアナに向けられたものではなく、彼女を不当に扱った祖国に向けられたものだった。
リアナは戸惑いながらも、小さく首を横に振った。
「私はただ、声が聞こえたから、それに応えただけです」
「声、だと?」
「はい。土や植物が、寒さに耐えて、助けを求めている声が……。私には、それが分かるんです」
アルヴィドはしばらくの間、リアナの顔をじっと見つめていた。
その視線の強さに、リアナは思わず目を逸らしそうになる。
やがて彼は、小さく息を吐き出した。
「お前のその力は、我が国にとって希望そのものだ」
アルヴィドの大きな手が、リアナの肩にそっと置かれた。
外套越しにも伝わってくる彼の体温が、リアナの冷えた体を優しく包み込む。
「ソルスティスが捨てた宝を、私は手に入れたというわけだ。……悪くない」
彼の口元に、初めて見る穏やかな笑みが浮かんでいた。
その微かな表情の変化が、リアナの胸の奥を、花が咲くように温かく満たしていった。




