第3話「氷の王と白銀の奇跡」
鼻孔をくすぐるのは、清涼な針葉樹の香りと、どこか懐かしい薪の燃える匂いだった。
背中には、これまで経験したことのないほど柔らかで、温かな感触がある。
リアナは、重い瞼をゆっくりと押し上げた。
視界に入ってきたのは、黒く磨き上げられた木の天井と、規則的に刻まれた繊細な彫刻だった。
窓からは薄い光が差し込み、空気中に舞う小さなチリを照らしている。
そこは、王宮のきらびやかさとは無縁の、だが重厚で落ち着いた空気の流れる部屋だった。
『ここは……?』
起き上がろうとすると、脇腹に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
その拍子に、ベッドの端で丸まっていた何かが、ピクリと動いた。
真っ白な、綿菓子のような塊が顔を上げる。
あの森で助けた神獣だった。
傷はすっかり癒えたようで、今はふさふさとした尾を忙しなく振り、リアナの顔を覗き込んでいる。
「クゥン」
神獣が甘えた声を出し、リアナの掌に鼻先を押し当ててきた。
その湿った温かさが、自分がまだ生きていることを実感させる。
リアナは安堵から、自然と目尻を下げた。
「……よかった、元気になったのね」
声はまだ枯れているが、喉の痛みは和らいでいる。
神獣を撫でようと手を伸ばしたとき、部屋の重い扉が静かに開いた。
入ってきた人物を一目見た瞬間、リアナの呼吸が止まった。
そこに立っていたのは、夜の闇をそのまままとったような、漆黒の毛皮の外套に身を包んだ男だった。
背は高く、肩幅は広く、立っているだけで周囲の空気が張り詰めるような圧倒的な威圧感を放っている。
銀糸のような髪が、冷ややかな額に薄くかかり、その奥にある瞳は、北方の海を思わせる深い青色をしていた。
整いすぎた容貌は、まるで熟練の彫刻家が長い年月をかけて削り出した氷細工のようで、人ならざる美しさを漂わせている。
「目が覚めたか」
低く、深く響く声。
それは耳を心地よく震わせると同時に、リアナの姿勢を正させるような厳格さを持っていた。
男はゆっくりとベッドに近づき、リアナの様子を観察するように視線を落とした。
神獣が嬉しそうに男の足元へ駆け寄り、その裾に体を擦りつける。
「お前が助けたこの神獣――ルティが、お前を運んでこいとうるさくてな。我が騎士団の者が、国境付近で保護した」
男の言葉を聞き、リアナは混乱した頭で必死に思考を巡らせた。
国境付近。
そしてこの厳格な男の雰囲気。
ソルスティス王国の北、広大な領土を持ちながらも、常に寒波にさらされている軍事強国。
グラシエール帝国の王、アルヴィドに違いなかった。
「……あなたが、隣国の王様……ですか?」
震える声で尋ねると、アルヴィドはわずかに顎を引いて頷いた。
「そうだ。お前がどこの誰で、なぜあのような禁域に一人でいたのか、聞かせてもらおうか」
彼の瞳が、射抜くような鋭さを持ってリアナを見据える。
それは隠し事を許さない、王者の目だった。
リアナは一瞬、言葉に詰まった。
偽聖女として追放されたと言えば、すぐに突き返されるのではないか。
あるいは、不審者として捕らえられるのではないか。
だが、今の自分には失うものなど何一つない。
嘘をつく気力さえ、森の寒さに置いてきてしまった。
リアナは静かに、自分の身に起きたことを話し始めた。
妹の手柄にされたこと。
冤罪を着せられたこと。
そして、王子に捨てられたこと。
言葉を紡ぐたびに、胸の奥の傷口から血が流れるような痛みを感じたが、彼女は視線を逸らさなかった。
話し終えると、部屋には長い沈黙が流れた。
パチパチと、暖炉の中で爆ぜる薪の音だけが響く。
アルヴィドは表情一つ変えず、ただじっとリアナの話を聞いていた。
やがて、彼はフッと鼻で笑うような仕草を見せた。
「……ソルスティスの連中は、相変わらず無能の集まりだな」
その言葉に含まれた明らかな侮蔑の色に、リアナは驚いて目を見開いた。
「お前のような規格外の魔力を持つ者を、偽物だと切り捨てる。あの大地が枯れ始めている理由さえ、理解していないらしい」
「規格外の、魔力……?」
「自覚がないのか? ルティの傷を癒やしたあの光。あれはこの城の防壁さえも一時的に揺るがすほどの純度を持っていた。死にかけの身で、無意識にあれだけの出力を見せる者が、偽物なわけがないだろう」
アルヴィドは一歩、ベッドに歩み寄った。
彼の大きな手が、リアナの額にそっと触れる。
冷たい手だと予想していたが、その掌は驚くほどに温かかった。
「お前の魔力は、この凍てついた我が国の土壌を解かす鍵になるかもしれん」
彼の言葉が、冷え切っていたリアナの心に、小さな灯火を灯した。
必要とされている。
道具としてではなく、彼女自身の力そのものを見て、評価されている。
その事実に、視界がじわりと熱くなった。
「……私を、ここに置いてくださるのですか?」
「ルティに命の恩人を追い出せば、二度と口を聞かぬと脅されているからな。それに、私はソルスティスの王子の顔に泥を塗る機会を、逃すほどお人好しではない」
アルヴィドの口元が、わずかに皮肉な笑みの形に歪んだ。
それは優しさとは呼べないものかもしれない。
だが、今のリアナにとっては、どんな甘い言葉よりも信頼できる言葉だった。
彼は翻ると、扉の方へと歩き出した。
「まずは体力を戻せ。食事が運ばれてくるはずだ。話はそれからだ」
バタン、と静かに扉が閉まった。
残されたのは、再び丸まって眠り始めた白い神獣と、リアナの体温で温まったシーツの感触だけだった。
リアナはそっと、自分の胸に手を当てた。
そこには確かに、新しい物語が動き始める予兆のような、確かな鼓動が刻まれていた。




