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第19話 戦壊者(ウォーブレイク)

 六花館を後にした時、陽はまだ傾き始めたばかりだった。


 夢の残響が、カイレッドの胸の奥底で鳴り続けている。


 あの見知らぬ声。


 あの不可解な違和感。


 それらは消えることなく、むしろ時間とともに鮮明さを増していくようだった。


(……気にしても仕方がない。今はティアナたちとの合流だ)


 石畳を踏みしめる足音が、王都の喧騒に紛れていく。


 カイレッドは意識的に深呼吸をして、胸の違和感を奥へと押し込んだ。


 冒険者ギルド近くの石橋──その欄干が、約束の場所だった。


 遠くから、栗色の髪を風になびかせる女性が手を振っているのが見える。


 人混みの中でも一際目立つ、快活な動き。


「カイレッド! 遅いよ!」


「悪い、ちょっと……妙な人に捕まってて」


「また変な人に懐かれたの?」


 ティアナは呆れたように肩をすくめてみせたが、その瞳は楽しげに輝いている。


 彼女の肩には、小さなムササビ──ピリトがちょこんと乗っており、むにっと頬を膨らませていた。


「やっと会えた〜。 カイレッド、今日はお菓子持ってる〜?」


「……お前、第一声がそれなのか」


「ピリトは甘いものが生きる糧です!!」


 小さな拳を突き上げて叫ぶピリトに、ティアナがくすくすと笑う。


「ほら、ピリト。そんなこと言わないの」


 そう言いながら、ティアナはカイレッドへと視線を向けた。


「……で、準備はできた?」


「もう全部終わってる。出発しよう」


 こうして三人は王都を後にし、森へ向かう長い旅路へと踏み出した。


***


 王都を離れると、道は一気に原野へと変わる。


 強い日差しが容赦なく肌を焼き、乾いた風が草原を駆け抜けていく。


 遠くで揺れる草の海は、まるで緑の波濤のように地平線まで続いていた。


 焚き火がぱちぱちと弾け、火の粉が夜空へ舞い上がる。


「あと四日くらいかな。ピリトの一族の森までは」


 ティアナが地図を広げながら呟く。


 月明かりに照らされた地図には、王都から森までの長い道のりが描かれていた。


 日を重ねるごとに、景色が変わっていく。


 湿度が増し、土の匂いが濃くなる。


 道端には巨大な葉を持つ見慣れない植物が生え、奇妙な苔が岩を覆い始める。


 鳥の声も耳慣れないものへと変わり、森が近づいていることを告げていた。


「……森が近いな」


「わかるの?」


「感覚が……というより、空気が違う。温度の流れ方が変わってる」


 カイレッドの言葉に、ティアナは嬉しそうに微笑んだ。


「カイレッド、少しわかってきたんだね。知覚で捉える"魔力の流れ"が」


「魔力……なんだな、これ」


「うん。ピリトの一族が住む森は、魔力の質が独特なんだよ。普通の森とは、根本的に違うの」


 ピリトが胸を張る。


「ぼくの故郷だからね〜! 空気からしてひと味違うよ!」


 軽口を叩き合いながら、三人は森の入口へと続く道を進んでいく。


 やがて、森が姿を現した。


 霧が立ちこめ、木々が空を覆い隠す。


 森に一歩踏み入れた瞬間、ひんやりとした魔力の風が肌を撫でた。


「……ここが」


「ピリトの故郷、"メリルの森"だよ」


 ティアナの声は柔らかく、どこか誇らしげだった。


 ピリトは枝の上へひょいっと跳び、両手を広げた。


 そのときだった。


 空気が……わずかに震えた。


 風でもなく、魔力でもない。


 何か大きなものが──森の深部で動いた感覚。


「……ティアナ、今、感じたか?」


「うん。魔力の"流れ"が……」


 ティアナの眉が険しく歪む。


 魔力を感知する能力に長けた彼女が、ここまで表情を曇らせるのは珍しい。


 ピリトは肩の上で耳をぴくりと震わせた。


「嫌な感じ。森の音が、不安がってる……」


 その瞬間だった。


 ──ガサッ!!


 茂みの奥から、低い唸り声が響く。


「来る!」


 ティアナが杖を構え、カイレッドが前に出る。


 反射的に戦闘態勢を取った二人の前に──飛び出したそれは、木の樹皮のような毛皮をまとった狼。


 樹狼ウッド・ウルフ


 しかし、動きがおかしい。


 足取りは重く、体側から黒ずんだ魔力の煙が漏れ出していた。


 まるで、何かに侵食されているかのように。


「……一匹だけ? おかしいよ……!」


 ピリトが警告するようにささやいた。


 ウッド・ウルフは本来"群れの魔獣"だ。


 単独で冒険者に突っ込むなど、よほどの事態が起きていない限りあり得ない。


 群れから離れるということは、それだけで異常事態を意味している。


 だがその狼は、躊躇なくカイレッドめがけて飛びかかってきた。


「……悪いけど、止まってもらう!」


 カイレッドの腕が唸り、拳が狼の突進を横へ逸らす。


 狼は木の根へ激突し、崩れ込みながらもまた立ち上がろうとする。


「カイレッド、見て! 傷が……」


 ティアナが息を呑んだ。


 狼の体側には、斜めに切り裂かれた深い裂傷。


 だが、肉が氷のように白く焼け、周囲に焦げ跡まである。


 自然界の爪や牙では、こんな傷はつかない。


「……これ、魔法でつけられた傷だよ」


「やっぱり……」


 カイレッドは拳を握りしめた。


 魔獣同士の小競り合いでもできる傷ではない。


 人為的な魔力がはっきり残っている。


 ウッド・ウルフは最後の力を振り絞るように、唸りながらティアナへ一歩踏み出したが──


 ドサッ……


 そのまま崩れ落ちた。


 魔力が抜け落ち、体が乾いた樹皮のように硬直していく。


「……死んじゃった」


 ピリトが小さく呟く。


 ティアナは傷口を丁寧に観察し、眉を寄せた。


「これ……刃物じゃない。魔力そのものを刃の形にした"魔力斬撃"……」


 三人の間に、重い沈黙が落ちた。


***


 メリルの森の奥──静かな木々を震わせるのは、魔獣の唸りではなかった。


「おい、そっち逃げたぞ! 囲め囲めぇッ!」


 怒鳴り声と笑い声が混じり合う。


 四人組の魔法使いが、森を蹂躙するように駆けていく。


"マルシェル隊"


 近隣で悪名高い、ならず者魔法使いパーティだ。


 彼らが追い立てているのは、小型の亜獣の群れ。


 樹猿ウッド・モンキーが木上に逃げようとした瞬間──


「《断裂フォース・スラッシュ》」


ヒュッ!


 隊員のシェドナが空を引き裂き、見えない刃が樹猿の足を切り落とす。


 悲鳴とともに落下する小さな体。


「き、きゃッ……!」


 グルーガが笑う。


「ハハッ!シェドナの"無音の刃"は最高だな!」


 シェドナは肩をすくめる。


「血が飛ばない分、後片付けも楽でしょ?」


 デューンは何も言えず、ただ俯いた。


(……こんなの、絶対ただの狩りじゃない……)


 マルシェルは飄々と手を叩き、全員をまとめる。


「よし、次はどうする? この森の魔獣、弱すぎて退屈なんだよなぁ」


「隊長、あっちにウッド・ウルフが……ですが集団だと厄介やなつらです」


「いいから追うんだよ。狩れれば何でもいいだろ?」


 マルシェルの声には、残虐さしかなかった。


 グルーガが拳に青白いフォースを纏い、倒れた樹猿へ歩き出す。


「じゃ、仕上げだ。《衝撃インパクト》で吹き飛ばすぞ──」


 その瞬間。


 ──ズシン。


 地面の深部から、鈍い振動。


「……ん? おい、いまの聞こえたか?」


「気のせいじゃない?」


 シェドナが涼しい顔で返す。


「森って、見えない魔獣が歩き回るのよ。いまのもその類でしょ」


 しかし、デューンの顔は真っ青だ。


(……違う……魔獣の足音じゃない……なんで分からないんだこの圧が……異常……)


 グルーガが樹猿を蹴り転がし、拳を構え直したその時──


 ──ズ……ン。


 今度は確実に、"歩く音"だった。


 しかも、明らかに人間の質量ではない。


「……おい、お前ら。静かにしろ」


 マルシェルが目を細める。


 森の奥から、風を押し返すような圧が迫ってくる。


 枝葉が震え、鳥たちが一斉に逃げ惑う。


「なんだこれ……魔力じゃねぇ……生物そのものの……重さだ……」


 グルーガの声が震えた。


「面白くなってきたじゃない」


 シェドナは笑みを浮かべるが、瞳だけは一切笑っていない。


 デューンは本能で悟った。


 ──これは、森の頂点捕食者じゃない。

 ──何か、もっと別の進化を遂げたものだ。


 やがて、影が揺れる。


 その"異質な"影は──マルシェル隊の視界へ、静かに踏み込もうとしていた。


 影が一歩、森の薄闇から現れた。


 最初に見えたのは──青白く脈打つ血管光だった。


 細い光の線が、黒い肌の上を規則正しく走る。


 歩くたびに淡く強く脈打ち、まるで内側に"生きた雷"が流れているようだ。


「……なんだ、あれ……?」


 グルーガの声がかすれた。


 枝葉を掻き分けて現れたのは、見るからに武装も防具も持たない、裸足の青年の姿。


 だが、その身体は人類の形をしているというのに、まるで進化の方向を誤ったような異質な完全体だった。


 全身の筋繊維は太く、しかししなやか。


 青く光る血管は、衝撃を伝えるかのように鼓動し、両腕は静かに下げているだけなのに、視界が圧される。


 レオン=ヴァルガン。


 マルシェル部隊の前に突如として現れた男の名だった。


 彼は《戦壊族ウォーブレイク》と呼ばれた、いにしえの戦争期に“古代文明オルム=ディアが生み出した破壊兵士”の最後の生き残りである。


 魔法文明に対抗するためだけに設計された種族だったが、戦争終結後、危険視された戦壊族は世界から姿を消し、今では歴史の片隅に名前が残るだけとなった。


 レオンはその“最後の存在”でありながら、戦いも支配も望まず、ただ大地を彷徨う孤独な放浪者である。


 彼は敵でも味方でもない。


 ただ――世界のどこにも属さずに歩く、“災害の生き残り”である。


 風が吹くと、レオンの髪がふわりと持ち上がり──ぱち……ぱち……と淡い火花が散る。


 静電気などというレベルではない。


 存在そのものが、周囲の空気を変質させている。


「あ、あいつ……人間か?」


「いや、違う。類人魔獣……いや、もっと……」


 デューンが本能で震えた。


(近づくほどに……いや呼吸だけで周囲の圧が変わるなんて……化け物じゃないか……!)


 レオンは一言も発しない。


 ただ、死んだ樹猿、裂かれたウッド・ウルフの痕、抉れた地面とフォースの残滓を無言で見ていた。


 マルシェルは勘違いした。


「……ククッ。はは。おい、お前ら見たか? これ、珍しいぞ」


 マルシェルの瞳がいやらしく歪む。


「新種の類人魔獣だ。俺たちで討伐して売り払えば──とんでもねぇ金になる」


 シェドナが口元を舐めた。


「……いいわね。標本としても価値が高そう」


 グルーガは拳を鳴らす。


「やっと楽しめそうだ。へへ……!」


 ──その瞬間。


 レオンの瞳の色が、かすかに光った。


 怒りでも憐れみでもない。


 ただ冷徹な判断だけがそこにあった。


 彼は見ていた──森の生態を乱す異物を。


 殺戮を娯楽に変える、魔獣以上に醜い害獣を。


「じゃ、今度は──俺の魔法で……」


 グルーガが踏み出した瞬間。


 ズッ。


 レオンが、消えた。


「……あ?」


 次の瞬間には──グルーガの視界の中心に、レオンの拳があった。


「──────っ!?」


 衝撃音すらない。


 殴るという動作が生じる前に、拳がグルーガの胸郭を捻じ曲げ、背中へ突き抜ける。


 骨が砕ける音だけが森に落ちた。


 グルーガは目を見開いたまま、まるで操り人形の糸が切れたように倒れる。


 シェドナの顔から血の気が引いた。


「あ、あんた……!」


「……動くな」


 レオンがそこで初めて、そして短く一言だけ発した。


 その声は、冷たい鉄のように無慈悲だった。


「《断裂フォース・スラッシュ》!!」


 恐怖のままシェドナは手を振り、空間を裂く"見えない刃"を五射放つ。


 空気が抉れ、木々が横一文字に切り裂かれる。


 だがレオンは──首をわずかに傾けただけだった。


 刃が彼の頬をかすめた──ように見えた。


 次の瞬間には、シェドナの背後に立っていた。


「あ、あれ、ま──」


 言葉が終わる前に。


 レオンは彼女の手首を掴み──フォースの魔力核ごと圧し潰した。


「ぎゃあああああッッ!! 手が──手がぁああ!!」


 シェドナの悲鳴が森に響く。


 レオンは答えない。


 ただ静かに、もう片方の腕に手を伸ばし──肩に触れた次の瞬間。


 ボキィッ。


 背骨ごと折り曲げる。


 シェドナの身体は、音もなく崩れた。


 森に、静寂が戻る。


 生き残っているのは──マルシェルとデューン、そしてレオンだけだった。


 マルシェルは──部下二人がレオンに瞬殺されたその光景をたった一度見ただけで、結論を出していた。


(ムリだムリだムリだ!! 勝てるわけねぇ! あんなもん……魔獣でも人でもねぇ!)


 彼は震える腕で地面を押し、即座に逃走に移った。


 倒れた部下へ救助の言葉など一切ない。


「た、隊長っ! 置いていかないで……!!」


「勝手に死ねッ!! 俺の邪魔すんな!!」


 マルシェルは振り返らず叫んだ。


 部下の命を盾にすることすら惜しんだ。


 盾になるには弱すぎる。


 時間稼ぎにもならない。


 そんな価値すらないと判断した。


 一方そのころ──背後ではデューンが、最後の抵抗を見せていた。


 力魔法をまとった拳。

 膨大なフォースの圧力。


 確かに、かつてなら脅威だったその力は──レオンの指先ひとつで、弾かれた。


 そして。


 容赦のない手刀一撃で胸骨を粉砕され、地に落ちた。


 命が消える瞬間、デューンが呆然と吐いた最後の言葉は──「たい……ちょ……逃げ……た……?」だった。


 その声が聞こえたかどうかも、マルシェルには関係ない。


 彼は、木々の間を狂ったように走り抜ける。


「ぜぇ……ぜぇ……! 俺の方が速い……! あんな怪物でも……森じゃ迷うだろ……!」


 必死に自分を鼓舞し、希望という名の幻覚に縋る。


 だが、その希望は──次の瞬間、粉砕された。


 前方の木陰。


 静寂の中、黒い影が立つ。


 レオンだった。


 そこにいた。


 呼吸の音ひとつない。


 土を踏む気配すらなかった。


 自然すら彼の侵入を察知できなかったような存在の断絶。


「ひ……ひあああああああああああああああッ!!」


 マルシェルは喉の奥から裏返った悲鳴をあげた。


(な、なんで……どうして……なんで前にいる……!? どこから……!? どうやって……!?)


 理解不能。


 否定すらできない。


 思考を破壊される。


 そして、災害が一歩、歩み寄る。

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