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第20話 二つの異質

 森の空気が、突然──沈んだ。


 ピリトの背毛がぞわりと逆立つ。


 ムササビ特有の敏感な魔力感知が、狂った針のように震え続ける。


「……っ……か、カイレッド……」


 その声は震え、言葉にならない。


「どうした、ピリト?」


「……あれ……ヤバい……ッ。あんな圧力どうやって……何かが……逃げないと……」


 ピリトは自分でも理解できていないほど怯えていた。


 彼の耳は後ろに伏せられ、尻尾が丸まり、今にも逃げ出しそうだった。


(何だ……?今まで感じた魔物とも、魔法使いとも違う……圧が……桁違いだ)


 カイレッドも息を呑んだ瞬間──


 バシュッ!!


 前方の茂みが爆ぜ、炎の奔流が森を割った。


「ッ!!」


 三人は反射的に左右へ跳ぶ。


 炎は巨大な鞭のように大地を薙ぎ、木の皮を焼き、空気を焦がす。


 が──次の瞬間、その炎が霧散した。


「何だ!?誰の魔法──」


 ティアナが叫びかけ──視界が、唐突に開けた。


 炎が焼いた草木の向こうに、それはいた。


 まず目に入ったのは──岩壁に張り付くように逃げる男。


 マルシェル。


 そのマルシェルが──岩壁に背を押しつけられ、顔を蒼白にしていた。


「ひ……ひい……来るな……来るなって言ってんだよォ!!」


 そして、その目の前には。


 銀髪の男。


 冷たく、機械のように無音で動く男。


 レオン。


「ま、待て!!来るな!!《守護壁シールド──三重展開!!》」


 マルシェルの前に、淡い光の膜が三層も重なり、高位の守護魔法が岩壁のように構築された。


 ティアナが息を呑む。


「三層……!?あれを破るには、相当の魔力が──」


 しかし。


 レオンは──殴らない。

 蹴らない。

 壊さない。


 ただ。

 無言で、ゆっくりと。


 マルシェルの胸に手のひらを置き。


 そのまま──防壁ごと、押した。


「や……やめろ……やめろォォォ!!」


 ギギ……ギギギギ……ギリ……ッ……


 あり得ない音が森に響く。


(嘘……防壁を……壊してるんじゃない……? 圧力で……そのまま押し込んで──)


 ティアナの背筋が凍りつく。


 防壁は耐えているのではない。


 ただ押し込まれているだけ。


 岩壁との狭間で、逃げ場を奪われているだけ。


「ひっ……ぎゃあああああああああああ!!」


 その悲鳴が──潰れた肺から漏れたような音に変わった瞬間。


 ブチュゥ!……バギュゥッッ!!


 マルシェルの身体が、岩壁と防壁の間で破裂した。


 レオンは何も言わない。

 一言も発さない。


 ただ押しただけで、生命が一つ消えた。


 かつてマルシェルだった肉片が、木の幹に飛び散る。


 あたたかい赤い血が、雨のようにパラパラと落ちる。


 足元を奔る細い川は──血であった。


「っ……!!」


 ティアナは顔を押さえた。


 吐き気が込み上げ、目を背ける。


 ピリトは完全に震え、目を覆っている。


 ムササビの小さな肩が痙攣していた。


 カイレッドは──動けなかった。


 怖い。


 心臓が暴れ、喉が締まるほど怖い。


 だが。


 彼は一度も、レオンから視線を逸らさなかった。


(……なんだ、こいつは……)


 レオンは無言で血を払うと──ゆっくりと首を巡らせた。


 その瞳が、カイレッドたちを捉えた。


「……ッ」


 ティアナの体が跳ねる。

 ピリトの尾が固まる。

 カイレッドの喉が鳴った。


 ただ見られるだけで、筋肉が強制的に固まるような圧。


(ちがう……あれは魔力でも殺意でもない……存在そのものの差だ……)


 レオンの歩調が、こちらに向かう。


 ひと息ごとに、森の風が止まる。


 足音が地面を震わせる。


 ティアナは息を呑み、ピリトは泣きそうにし、カイレッドは──拳を握った。


 血の雨が止み、静寂が満ちる。


 レオンは、ミンチ状のマルシェルだったものを見下ろし、そのままゆっくりとカイレッドたちへと振り返った。


 瞳は無機質。


 何の感情も映っていない。


「…………」


 数秒の沈黙。


 森の空気が張り詰め、風すら止まったようだった。


 やがて──レオンの口がわずかに動く。


「──コイツらの仲間か?」


 低く、掠れた声。


 しかしその響きには、圧倒的な威圧が宿っていた。


 ティアナは震えを抑えきれず、ピリトは尻尾を丸めてカイレッドの足にしがみついていた。


 カイレッドは、短い答えを搾り出した。


「……知らない」


 レオンはその返答に、興味を示した様子もなく。


 ただ、ほんの一瞬だけ彼の瞳の奥が動いた。


「…………そうか」


 それだけ言って、背を向けた。


 岩壁から離れ、森の暗がりへ戻ろうとする。


(……行くつもりだ)


 安堵がほんのわずかに胸によぎった──その瞬間。


 カイレッドの口から、声が漏れた。


「ウルフをやったのは……君じゃないだろう」


「カイレッド!!?」


 ティアナがはっと息を呑んだ


「や、やめろ何を言ってる!!」


 ピリトは叫びながら、尻尾をバサバサと振り乱す。


(バカか!? よりによって今聞く!? なんで刺激するんだカイレッドのやつ!!)


 カイレッドに攻撃意図はなかった。


 背を向けたレオンの後ろ姿へと──知覚を伸ばした。


 あの異常な筋肉、光を帯びる血管、重さを無視した動き。


 それらが何に由来するのか。


(……わかるはずだ。この距離なら、情報の癖くらいは感じ取れる……)


 ほんのわずか。


 まるで背中に触れる前の指先のように──ごく弱い知覚の糸を、彼に伸ばした。


 次の瞬間。


 レオンの肩が──ピクリ、と揺れた。


「──────」


 何の予備動作もなく。


 空気が裂けた。


 レオンの姿が、消えた。


「っ……!!」


 カイレッドは反射で飛び退く。


 地面が抉れ、そこにレオンの足が突き刺さる。


 たった一歩。


 その加速は視界から完全に消えていた。


 ティアナとピリトが悲鳴を上げる。


「ひ──ッ!?」


「うわぁあ!!」


(速い……! 僕が知覚を伸ばした瞬間……反応した!?)


 レオンは無表情のまま、拳を振るう。


 ドゴォォッ!!


 カイレッドは腕で受けたが──身体ごと吹き飛ばされた。


「が、ッ……!」


 後方の木に激突し、幹が折れかける。


 拳の衝撃は、金属ではなく岩盤から殴られたような重さ。


 威力だけでなく、質量の塊に叩かれたような感覚。


 レオンは詰める。


 一歩で、距離がゼロになる。


 カイレッドは地面を蹴り、転がるように避けた。


 直後──レオンの手刀が木を撫でた瞬間。


 ズバァァァッ!!


 大木が斜めに切断され、ずれ落ちた。


(木が……触れただけで……!? いや……手刀の軌跡……音が割れる……速すぎる!!)


 レオンの瞳が、獣のように狭まる。


 カイレッドは息を呑む。


(……来る)


 レオンが地面を蹴った。


 破砕音とともに、彼の姿が真横から迫る。


 カイレッドは本能で身体をひねり──バァンッ!!


 肩を掠めただけで、皮膚が裂け、血が飛んだ。


(くそっ……!読めない……身体が追いつかない……!)


 ティアナが叫ぶ。


「カイレッド!!」


 ピリトは震えながらも、声を振り絞る。


「に、逃げ……逃げる!! 勝てない!! 本気で!!」


(わかってる……でも……)


 レオンは動きの癖がない。

 一切の無駄がない。


 完全な戦闘生物。


 カイレッドは歯を食いしばった。


(……僕の知覚に反応した。もしや……知覚そのものを敵意と判断したのか?)


 考える余裕すらない。


 レオンが拳を握る。


 その筋肉が膨張し、青い光が血管を走った。


「…………」


 森の空気を裂くように、レオンが消えた。


 その姿が完全に視界から飛んだ瞬間──カイレッドは反射だけで地面に身体を投げ出した。


 直後、頭上を──


 ドッッッ!!


 質量の暴力がかすめた。


 大地が凹み、拳一つで土が火花のように散った。


(速い……! 脚の踏み込みが見えない……!)


 そして、声もなくレオンが振り返る。


 瞳孔も揺れず、ただ殺す相手を見ているだけの目。


 彼は身体を沈め──次の瞬間、爆ぜた。


 ザシュッ!!


 音が追いつく前に、カイレッドの腹部へ拳が届く。


 その瞬間。


 ガキイィィィィン!!


 カイレッドはレオンの拳の側面にスゥルガーの牙を突き立てる。


 しかし、その攻撃はわずかに拳の軌道を逸らしただけで、レオンの皮膚にすら傷をつけることは叶わない。


 カイレッドの脇腹にレオンの一撃が入る。


 ピキシッッッッ!!


 短剣にビビの入る音、そして何かが裂ける音が同時になり不協和音を響かせる。


 重力の方向がおかしくなるほどの衝撃で、カイレッドの身体が吹き飛んだ。


「っぐあ……ッ!!」


 カランッ!!


 衝撃に思わず手から武器が離れる。


 カイレッドは、受け身も取れずに地面を転がる。


 肺の中の空気が全部抜ける。


 視界が揺れる。


 レオンは追撃のために地面を踏んだ。


 その足が土を押すと、地面が凹む。


 筋繊維の膨張と共に血管が青く発光し、全身の密度が一気に増した。


「……っ!」


 カイレッドは起き上がる暇もなく、知覚でギリギリ攻撃方向を読む。


(右……!)


 だが反応が遅い。


 レオンの手刀が横から迫る──


 スパァァン!!


 木の幹ごと、腕の幅だけ切断された。


 その軌道に入っていたら首か胴体が落ちていた。


(避けただけで全身が痺れる……こいつの動き、全部が殺すためだけに組まれた最短距離だ……!)


 レオンが無表情で前進。


「…………」


 その一歩で地面がめくれ、根が露出する。


 腕を振り上げ、拳を握る。


 腕がわずかに膨張し、皮膚の下を青光の血管が奔る。


 まるでエンジンが点火したような変化だった。


「……来る……!」


 カイレッドは両腕をクロスして防御姿勢を取る。


 レオンの拳が落ちた。


 ドガァァァッ!!!


「……ッぐ……ぉぉあああ!!」


 衝撃が腕を無理やり曲げ、地面ごと身体が沈む。


 骨が軋む音がした。


(腕……折れて……いや、まだ……!)


 耐久強化していても、限界が見え始めていた。


 レオンは表情一つ変えない。


 ただ、淡々と。


 敵を殺すための動作を続ける。


 腕を引き、再び握り込む。


 肩の筋肉が蠢き、青光が血管にねじれながら走る。


 その姿は、武器を装填する兵器そのものだった。


「────終わりだ」


 初めて口にした意思のある言葉。


 カイレッドは地面に沈んだまま、逃げる余裕がない。


(くそっ……動け……! 筋力が……反応が……追いつかない……!)


 レオンの拳が、頭へと振り下ろされる。


 止めの一撃。

 殺すための一撃。


 空気が震えた。


 レオンの拳が、カイレッドの頸動脈を正確に狙った軌道のまま迫る。


(……終わった──)


 その瞬間。


 スッ……と、拳がわずかに軌道を逸らした。


 まるで、寸前で“理性が勝った”ように。


 だが実際に起こったのは──理性の勝利ではなく、“別の暴走”だった。


「……っ、ぐ……あぁ……!」


 レオンの顔が歪む。


 瞳の奥で、殺気とは別の色──混乱とも葛藤ともつかない光が揺らめいた。


 次の瞬間。


 ドゴォッ!!


 レオンの拳が、カイレッドではなく──自分自身の左肩を粉砕した。


「な……っ!?」


 突然の行動にカイレッドの頭は混乱する。


 拳の入った箇所、肩の筋繊維が破裂し、青白く光る血管が数本、電線のように千切れて火花を散らす。


 バチバチバチッッ!!


「う、うわ……!な……何して……!?」


 ピリトが後ずさる。


 レオンは答えなかった。


 両腕が震える。


 筋繊維が制御不能に膨張し、皮膚の下で獣の心臓のように脈打つ。


 そして──


 ドゴッッ!!


 自らの腹部を殴りつけた。


 衝撃で土が吹き飛び、大地に円形の穴が刻まれる。


 肉が裂け、露出した繊維質が青い稲光のように明滅する。


「……ぁ……あああアアアァァァッ!!!」


 その叫びは、痛みでも恐怖でもない。


 “内部で暴れる何か”を押し止めるような、必死の抵抗だった。


(……これは暴走……!? いや違う……抑え込んでる……? 自分自身の力を……!)


 カイレッドの背筋が凍る。


 レオンの背中が破裂しそうなほど盛り上がる。


 青白い発光が血管に沿って走り、体中で火花のように散った。


 ズギャアアアッ!!


 右拳で自分の太腿を殴り抜き、地面ごと粉砕する。


 その度に骨の砕ける音、筋肉が裂ける湿った破裂音が響いた。


「カイレッド……逃げっ……!お願い……!」


 ティアナの声は震え切っていた。


 ピリトは完全に腰を抜かし、尻尾を畏怖で逆立てている。


 レオンの暴走は加速する。


 もう戦闘ですらない。


 破壊による自己抑制。


 壊れる前に、壊す。


 そんな、説明しようのない異様な行動。


「……お前ら……」


 血に濡れた顔で、レオンが彼らの方を向いた。


 しかしその瞳は──戦意でも殺意でもない。


 ただ一つ、警告だけを宿していた。


「……“今の俺”に……近づくな……巻き込む……前に……消えろ……」


 そう言って、また自分の胸を殴りつける。


 骨が折れ、青い血脈が爆ぜ、地面が陥没した。


「カイレッド!行くよッ!!」


 ティアナが腕を掴み引いた。


「……っ、ああ!」


 その声でカイレッドもようやく現実に戻る。


 三人は全力で後退し──最後に、背後でもう一度あの轟音が響いた。


 レオンが胸を殴りつけて倒れ伏す姿を、遠目に見たのが最後だった。


 カイレッドは息を切らしながら呟く。


「……あれは……“敵”とかそういう次元じゃない……ただ……あまりに強すぎる……」


 震えるティアナの手が、カイレッドの袖を掴む。


 ピリトは涙目で震えながら言った。


「……化け物……じゃないのか……あんなの……」


「わからない……今は、距離を取るしかない……」


 三人は森の奥へと逃げ込んだ。


 言葉もなく、ただ必死に足を動かして、木々をかき分けて、森の暗がりを抜けていく。


 少ししたところで、カイレッドは呟いた。


「……でも、多分だけど、あのウルフを殺したのは彼じゃなかった。だとしたらどうして僕たちを……それに、敵意はあの一瞬だけだったような……」


 カイレッドが言う。


「そんなこと言ってる場合じゃないよぉぉ!! 殺されてたかもしれないんだよ!」


「ほんっとうに、さっきのは言わなくてよかったのに!!」


 ピリトとティアナが同時にキレた。


「……ごめん」


 二人が同時にため息をつく。


「とにかく、今は目的のことだけを考えよう。危険があるなら尚更。魔装置の復活を急がないと」


 ティアナは、先ほどまでの出来事を忘れるように、手の中の守種の楔を再度握りしめた。


 そのままさらに森を進むと、空気が少しずつ変わっていった。


 湿った土の匂いが薄れ、光が差し込み、鳥の声が遠くから聞こえるようになってくる。


「……森を、抜けた……?」


 ティアナが立ち止まる。


 目の前には、穏やかな草原と、その奥に広がる──ピリトの一族が暮らす大樹の集落が見えていた。


 枝が絡み合い、巨大な樹洞の中に家屋が点在し、木の橋が高所を繋ぐ美しい空中集落。


 ピリトが胸に手を当て、安堵と懐かしさで笑う。


「……着いた。ここが僕の……僕たちの、故郷だよ」


 三人の背後、森の奥からは一切の気配が追ってこない。


 暴走の余韻だけが、まだ遠くから揺らめいていた。

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