第12話 竜の盟約
千年前――冒険者ライヴァンが初めて竜の一族と相対したとき、世界はまだ混沌とした"相互不信"の時代に呻いていた。
竜は空において地を見下ろし、人はその地を歩く。
それぞれの種族が互いの領域に触れられぬ、暗黙の境界線が敷かれていた時代。
だが、文明の拡大とともにその境界を意識する者が現れる。
やがて――互いの領域が重なりはじめた。
小さな衝突が、やがて大きな軋轢へと変わる。
空を舞う竜の影に怯える村人たち。
地を這う人間の営みに苛立つ竜たち。
双方の不信は日に日に募り、ついにライヴァンは立ち上がった。
ライヴァンは単身、竜王の住まう拠点へと赴いた。
そして――交渉の卓を囲んだ。
人と竜。
互いに譲れぬものを抱えながらも、滅ぼし合うことだけは避けねばならぬという共通認識のもと、七日七晩にわたる対話が続けられたという。
そのとき結ばれたのが――世界で最も古く、最も破ることの許されぬ三つの誓約だった。
───
■ 第一盟約:竜を攻撃してはならない
竜の鱗は山嶺より固く、その翼は嵐を纏い、その息吹は大地を焼く。
人の刃は届かない。
魔術ですら、竜の前では蝋燭の灯火に等しい。
だからこそ、この盟約は竜を守るためではなく――"無意味な戦いを防ぐため"に定められた。
決して勝てぬ相手に挑めば、待っているのは一方的な蹂躙のみ。
それは戦いではなく、ただの自殺行為だ。
人の命を無駄に散らさぬため。
竜に無用な怒りを抱かせぬため――決して勝てぬ相手に挑まぬための誓い。
それが第一盟約の真髄である。
■ 第二盟約:竜を従えてはならない
竜は力の象徴であり、その力は人間社会の均衡を瞬く間に粉砕する。
もし、ある国の王が竜を従えたとしよう。
その瞬間、他のすべての国家は恐怖に震え、軍備を整え、同盟を結び、対抗策を練る。
疑心暗鬼が渦巻き、緊張が高まり、やがて――戦争が始まる。
たった一頭の竜を巡って、世界全体が炎に包まれる。
歴史が証明している。
強大すぎる力を一国が独占したとき、世界は必ず戦火に沈んだ――一国の野心が、世界全体の破局に至ることを避けるための誓い。
それが第二盟約である。
竜は誰のものでもない。
ゆえに、誰もが竜の前で対等である。
この均衡こそが、千年の平和を支えてきた礎なのだ。
■ 第三盟約:竜が地につくことを禁ずる
これは人への制約ではなく――"竜自身が自らに課した掟"である。
竜は地を穢れと見なし、空こそが身を置くべき場所だと誇りをもつ。
彼らにとって、地に降り立つことは屈辱以外の何物でもない。
空を飛べぬ者たちが這いずり回る、塵と泥にまみれた世界。
竜はそれを蔑み、忌避し、決して自ら降りようとはしない。
ゆえに彼らは、自ら望まず地につく状況――すなわち墜落を、何よりの屈辱とする。
もし竜が地に墜ちれば、それは竜自身の誇りが砕かれたことを意味する。
そして――誇りを傷つけられた竜の怒りがどれほどのものか、それは誰にも読めない。
かつて一度だけ、ある愚かな領主が罠を仕掛け、竜を地に墜とした記録が残っている。
その領地は三日後、跡形もなく消え去った。
地図からその名が消えるまでに、わずか七十二時刻――この盟約が破られたとき、どれほどの怒りが空を覆うかは計り知れない。
───
三つの盟約は今日まで千年間、竜と人類の世界をかろうじて保ってきた"均衡の礎"である。
冒険者であれ、王族であれ、商人であれ農民であれ――この世界に生きるすべての者が、等しくこの誓約に縛られている。
守らなければ命と国を失う危険を孕む。
否、命だけでは済まない。
場合によっては、一族郎党、国そのものが灰燼に帰す。
――この世界で最も重い約定である。
それが、竜の盟約。
千年前に結ばれ、今もなお世界を縛り続ける、不可侵の掟。
───
時は遡る。
それは、カイレッドの一行が竜王宮に到着した際のことだった。
竜王宮の外苑は、竜王祭の準備で慌ただしく動いていた。
白亜の大理石で造られた回廊には陽光が柔らかく差し込み、床に刻まれた金線の文様が燦然と浮かび上がっている。
職人や侍従が忙しなく行き交い、荷車を押し、装飾品を運び、指示を飛ばし合う。
その喧騒の中心に――一人だけ、立ち姿からして気品の違う人物がいた。
「――そこの荷車、もう少し壁際へ寄せていただけますか」
声が響く。
よく通る声。
しかし柔らかいのに、不思議と逆らえない重みがある。
「配置が一尺ずれると、装飾全体の均整が崩れます。左右対称の美を損なえば、祭の格式そのものに傷がつく――ご理解いただけますね?」
その声に、荷車を押していた職人たちが慌てて動きを止めた。
振り返ったカイレッドの視界に入ったのは、白銀の髪を後ろで束ね、金縁眼鏡をかけた壮年の魔術師だった。
年齢は五十を過ぎているように見えるが、背筋はぴんと伸び、その立ち姿には一片の隙もない。
深緑のローブには金糸の刺繍が施され、胸元には竜王宮顧問の証である竜紋章が輝いている。
その指示は簡潔で、どこか"宮廷の規律そのもの"を感じさせる厳しさがある。
それでも、職人たちは反発するどころか深く頷き、即座に作業を修正する。
文句ひとつ言わず、むしろ感謝の言葉すら口にしながら――信頼されている。
命令ではなく、"正確な判断"として受け入れられている。
その背後で、王宮兵たちが一斉に姿勢を正す。
「クラウン顧問!」
がちゃり、と鎧が鳴る音。
敬礼の動作が揃っている。
訓練された兵士たちですら、この人物の前では自然と背筋を伸ばさずにいられないのだ。
呼ばれた名に、ティアナがわずかに息を呑む。
セフィラスですら――普段は誰に対しても堂々としている彼ですら――思わず低く囁いた。
「(やべぇ……この人、竜観測院の頂点に近い人だぞ)」
「(え、誰なんです?)」
「(レヴェリス・クラウン……竜王宮首席顧問にして、竜観測院の最高責任者の一人。この国で"竜のすべて"を管理してる組織のトップだ)」
「(……うわぁ)」
カイレッドは思わず息を呑んだ。
こんな大物が、こんなところで準備の指揮を執っているのか。
それだけでこの竜王祭がどれほど重要な行事なのか、嫌というほど伝わってくる。
レヴェリスは彼らの反応にわずかに眉を上げたが、すぐに静かに微笑んだ。
「そんなに畏まらなくて結構ですよ」
柔和な声。
だが、その声には不思議な説得力がある。
優しいのに、どこか威厳が滲んでいる。
「ですが――礼を払い、筋を通すというのは、この王宮で働く全ての者が守るべき矜持です。地位や立場に関わらず、です。覚えておいて損はありません」
柔和な声なのに、どこか誇りと規律の匂いが混じっている。
ティアナが自然と背筋を伸ばすのも無理はなかった。
この人の前では、だらしない態度など取れる気がしない。
レヴェリスの視線が、ゆっくりと一行に向けられる。
金縁眼鏡の奥の瞳は深く、穏やかでありながら――すべてを見通すような鋭さを秘めていた。
「君たちは……冒険者一行ですね?」
カイレッドたちはどうしていいか分からず、慌てて互いに顔を合わせる。
レヴェリスは静かに頷き、視線を一行の装備に這わせた。
そして、少しの間。
「オルムルド村の魔術師、ヴェルナー殿のパーティ、とお見受けします」
「えっ、分かるんですか!?」
思わずカイレッドが聞き返すと、レヴェリスはわずかに目を細めた。
まるで、「当然でしょう」と言いたげな表情で。
「観測とは、目に映るものだけを見ることではありません」
静かな声。
しかし、その言葉には長年の経験と鍛錬に裏打ちされた重みがあった。
「"積み重ねた訓練"が視界を広げてくれるのです。君たちの歩き方、武具の扱い、荷物の配置、魔力の流れ方……見ればおおよそ察しがつきます」
決して嫌味ではない。
事実を淡々と述べただけ。
だが、その所作や言葉の端々に、長年宮廷の中心に立ってきた者特有の品格と厳しさがにじむ。
カイレッドは思わず息を呑んだ。
この人、やばい。
ただ見ただけで、自分たちの出自も素質のことも見抜いてる。
しかもそれを当然のことのように語っている。
これが竜王宮の頂点に近い者の実力か――。
「遠路はるばる、王都へようこそ」
レヴェリスが穏やかに微笑む。
「まずは旅の疲れを癒やしましょう。控えの間を整えてあります。どうぞ、こちらへ」
そう言って、彼は優雅な所作で手を差し伸べた。
レヴェリスが案内する竜王宮の内部は、金と青を基調とした壮麗な装飾で満ちていた。
天井から垂れる天蓋には、精緻な竜の刺繍が施されている。
壁一面には竜紋装飾が刻まれ、魔力を帯びた宝石が埋め込まれている。
それらが陽光を受けて、きらきらと輝いている。
冒険者向けとは思えない上質さだ。
いや、そもそもこんな部屋に案内されること自体が異例なのではないか。
「こちらに薬草茶を」
レヴェリスが侍従に告げる声は柔らかい。
「身体を温め、魔力の濁りを取り除きます。長旅の疲れには、これが一番です」
「は、はい!すぐに!」
侍従が慌てて駆けていく。
その指示は、厳密で無駄がない。
一切の曖昧さがなく、聞いた者が迷うことのない明瞭さがある。
一連の振る舞いは丁寧だが、どこか凛として揺るぎない。
"王都の秩序を守る者としての誇り"が、その立ち振る舞いの全てに宿っている。
「……すごい人だな」
カイレッドが思わず呟くと、セフィラスが小さく頷いた。
「ああ。あの人こそ、竜王宮の格式そのものだ」
ヴェルナーやブリクスもこれに同意するように頷く。
レヴェリス・クラウン。
竜王宮首席顧問にして、竜観測院最高責任者。
この国の"竜に関するすべて"を統括する、まさに頂点に立つ人物。
その存在感は、圧倒的だった。




