第31節 イブさんも、ひとり?
閉店時刻は過ぎていたけれど、玄関脇に万汰のいつものママチャリが止めてある。
「こんばんは。おじゃまします」
内側に下がった暖簾が透けて見えるガラスの引き戸を開けて中に入ると、左側の奥の座卓で万汰が独りでしおれている。
目が合うと言った。
「遅い時間にごめん」
全く意気消沈していて、手酌で熱燗を呑んでいる。
女将さんがいつもの前掛け姿で調理場から現れた。
「まあ、2人とも、選挙、お疲れ様でした。
どんな激しい試合も、終わった後はノーサイドよね?」
「おばさん、うまいこと言うなあ、、、」
本当に感心したらしい。
「イブちゃんも熱燗?」
「はい。でも、お腹が空いたので、何か食べれる物、ありますか?」
女将さんが脇腹を叩いた。
「よし。板さんに言って、特製ちらし寿司を作ってもらいましょう。
裏メニューね」
「ありがとうございます!」
ガッツポーズのイブ。
イブが座敷に上がり対面の座布団に座ると、お猪口を渡しながら万汰が言った。
「イブさんがうらやましい。いつも元気で、明るい。
それに比べると、ぼくは全くだらしがない」
返事をせずに万汰のお猪口に注ぐ。
「ぼくは、もう嫌になった。議員なんて、辞めようかと思う。
議会の中でどんなに頑張っても、歳上の先輩たちは動こうともしない。空回りばっかりで、疲れた。
ジャマイカに戻って、子供たちとサッカーボールを蹴ってる方がどんなに楽しいか。
別れ際に、子供たちから『必ず帰って来てね』って言われてたんだ」
目が赤い。万汰も寝ずに頑張ってきたのだ。
イブが注ぐと立て続けにあおる。
「何か食べましょ。空きっ腹にお酒は良くないわよ」
そう言って、湯豆腐とモツ煮を調理場に向かって頼む。
「ところで、万汰くんは、お父さんと2人暮らしだったっけ?」
一瞬、間が空いた。
「あ、ごめんなさい。プライバシーに立ち入っちゃったわね」
「いいんですよ。町の皆が知ってることですから」
万汰が徳利から自分で注ぎ、一口あおる。
「ぼくが中学1年、妹が5年生のとき、父と母は離婚しました。
ことあるごとに、2人してよく喧嘩してた。
いいかげんにしろって、ぼくが怒鳴ったこともある。でも、変わらなかった。
家の中がいつも冷たくて、妹と2人でいることが多かったんだ。
お父さんは、奴隷のように働かされる会社を辞めて絵を描くことで生きていきたかったらしいんだけど、それを、お母さんは必死になって止めてた。
お母さんはぼくが小さい頃から働いていて、遅く帰るときは、ぼくが妹の世話をしてたんだ。
お腹が空いたけど、でも、2人でいると楽しかった。
妹は、優しい、いい子なんだ」
イブが静かに自分のお猪口に口をつける。
「お父さんが1人でしばらくニューヨークに行き、帰ってくると離婚しました。
お父さんは、絵描きとして生きていける自信が得られたんでしょうね。
でもお父さんが描く抽象画なんて誰も好きになれなかったし、お母さんも全く評価してなかった。
そんな絵が日本で売れる訳がない、生活できるはずがないって。
このままだと共倒れになるからって、お母さんは妹を連れて家を出て行ったんです。それ以来、ぼくはお父さんと2人暮らしをした。
妹が『お兄ちゃんと離れたくない』って泣いたんだ。それを無理矢理、お母さんが手を引いて連れて行った」
空のお猪口にイブが注ぐ。
「父は、退職金で買ったキャンピングカーに乗って日本全国を旅しています。旅をしながら絵を描いてる。
パソコンとタブレットで絵を描いて、ニューヨークの画廊に送って、買ってもらってる。
毎週10枚絵を描いて送る契約で、約束を守ると金曜日の夜に400ドル振り込まれる。
1週間分の生活費として足りそうな気がするんだけど、でも、ぼくが議員になったのを知ってからは、時々金を貸してくれって、言ってくるようになった。
今日も昼間、親父からショートメールがきた。
『5万円、何とかならないか?』
なりますよ。しますよ。借金してでも工面する。
『いつか返すから』って言うけど、ぼくは『返さなくていい』って言ってる。返せない日々が続くと、ぼくに連絡できなくなると思うんだ。
でもさ、ふらふら旅行しながら絵ばかり描いてないで、そろそろ老後の事でも考えろよ!」
「そう、言ったの?」
また、お猪口に注ぐ。
「いや、言えない。
あんな父親でも、たった1人の家族なんだ。親父は、ぼくが見捨てたら孤独死しちゃう」
ため息をつく万汰。
「あなたは、きっといい子だったのね? お母さんから愛されたいと、ずっと願ってた。
お父さんとも別れたくなかったけど、結局1人になってしまった」
万汰が静かに笑った。
「イブさんも、ひとり?」
お猪口に注がれると、イブがへこりと頭を下げる。
「そう。逸見に帰ればお父さんもお母さんも妹もいるけど、帰らない。
わたしは、自分で自分の道を歩きたい。
自分勝手なのかもね。
わが家はみんな、自分勝手なのよね、きっと」
万汰が静かにお猪口に口をつける。
「考えてみると、不思議な思い出がいくつもあるんだ。
なんであのとき、あんなことをしたんだろうって。なんで、せっかく自分のことを好いてくれている同級生に、自分から別れようなんて言い出したのか、自分でも不思議なんだ。
いつもいいとこまで行くんだけど、なぜかそこで止まってしまって先に進めなくなる。泣かれて困ったけど、自分でも説明ができなかった。嫌いになったわけでもなかったのに。
きっとイブさんが言うように、自分でも気付かずに母親の影に縛られていたのかもね」
うなずくイブ。
「わたしも、お父さんの影に縛られている、きっと。
でも、しょうがないのよ。お母さんはあなたにとって一番最初の女性だし、お父さんはわたしにとって一番近い男性なんだから。
どんなに嫌ったって、記憶と心の隅から出ていってくれない。
出て行ってくれないなら、そのままそこに座らせておけばいいのよ。小さいまま」
空のお猪口を見つめている万汰。
女将さんが料理を持ってきた。
「ちらし寿司は、もうちょっと待ってね?」
「ああ、楽しみです!」
笑顔で女将さんが戻っていくと、万汰の右隣りにある座布団にお尻を移したイブが、頬を近づけて小さな声で言った。
「わたしも、父親のことではいつも困っています」
イブの体からラベンダーの石鹸の香りがした。
万汰が知っている女性の匂いといえば、母親の汗の匂いだ。
保育園は登園が一番最初で、お迎えは一番最後だった。
皆が帰った後、待っていることに疲れて園長先生の膝の上で寝てしまうことが多かった。
ようやく迎えに来た母親に万汰が駆け寄ると「ごめん、ごめん」と言いながらきつく抱きしめてくれた。その時、母親の温かい胸から匂ってきたのは酸っぱい汗の匂いだった。
汗は頑張って働いてきたことの証しだから、母親を責めることはできなかった。
イブから伝わってくる石鹸の香りが鼻の奥まで届いた。
鼻をすする万汰。
イブがお猪口に注ぐと、万汰がヘコッと頭を下げる。
「そういえば、万汰くんも八景キャンパスだったよね?」
「うん。家から一番近かったし、青海学院大学は昼夜間開講制だったから昼間の仕事と両立しやすかった」
学部も学年も違うけれど、2人とも同じ大学だったのだ。
広い学食の片隅でイブがお昼のエビ塩ラーメンをすすっていた時、壁に掛かった時計を気にしながら万汰もそこで何かを食べていたのかもしれない。
大学祭の平潟祭の時、数あるテントの中からヨット部の出店のタコ焼き屋にひとつ買いに来ていたのかもしれない。
イブが中庭のオリーブの木の下で空を眺めながらのんびりアイスクリームを食べていた時、冷房の効きが悪い図書館の書架の林の中で慌てて資料を探していた時、窓の外に小雨が降るチャペルの中でパイプオルガンを聴きながら指を組んでうつむいていた時も、近くに万汰がいたのかもしれない。
大教室があるフォーサイト・ビルの長い長いエレベーターに駆け込んだ時、狭い箱の中に1人でいた痩せた学生が万汰だったのかもしれなかった。
「万汰くん、議員、辞めちゃダメだよ」
酔って言っている声ではなかった。
「えっ?」
万汰がお猪口を置く。
イブが注ごうとすると、お猪口の口を自分の右手の指先で塞いだ。
「どうして?」
イブが万汰の目を見ながら言った。
「だって、あなたは、あなた1人じゃない」
「親父のこと?」
笑いながら否定する。
「違うよ。あなたは500人なのよ。
あなたは、あなたに投票した深井町の500人の住民の、思いの塊じゃないの。
あなたが右と決めれば、その500人が右と決めたことになるのよ。あなたが消防署って叫んだ時、その500人が消防署って叫んだのよ。
それは、間違ってない」
女将さんが、静かにちらし寿司を持ってきた。
「おばさん、丼ぶりだけ、もう1つくれる?」
「了解!」
笑顔で胸を叩く。
帰る背中にイブが追加注文をした。
「アカザエビのお味噌汁、ある?」
「あるわよー!」
女将さんがガッツポーズだ。
「図書館だって、間違ってない。方法論の違いだけじゃないの?
今は、万汰くんの力が必要なの。
未来塾で、そう、みんなで『来ぶらり』と『少防所』を運営してくれたらいいじゃないの!」
万汰が笑顔になった。
「そうだ、そのとおりだ。
自分たちの未来を自分たちで作る、自分の人生を他人任せにしない。
これだよね?」
「万汰くん!」
イブが万汰に抱きついた。
髪の毛からシャンプーの爽やかな香りがする。
万汰は、ゆっくりとその匂いを嗅ぐと、イブの背中を抱きしめた。
柔らかい。母と同じ、柔らかい背中だった。
そのまま、耳元でイブに囁いた。
「ぼくと、付き合ってくれませんか?
やっと、母親でない女性を愛せる気がします。
あなたなら、きっとぼくは愛し続けることができる、そんな気がする」
イブが体を起こしてうなずくと、そのタイミングで女将さんが空の丼ぶりとアカザエビの味噌汁を2つ持ってきた。
お椀から飛び出したアカザエビの両手が、ハサミでVサインをしている。
「これで、本当のノーサイドだわ!」
お椀を見て、3人して笑った。
その夜、万汰は自転車を大漁亭に置いたまま、秋谷のアパートまでイブを送って行った。




