第30節 イブくん、帰ってよし!
8時30分、一番遠くの投票所の荒崎町内会館チームが無事に受付を終えると、町内5投票所の投票函が開票台の上に並んだ。期日前投票分と合わせ、全部で6函。
全ての準備に問題がないことを確認し、開票事務従事者全員が開票台に配置されていることを見届けると、開票管理者の海老夫がハンドスピーカーを通して叫んだ。
「開票、開始!」
テーブルクロスを掛けた開票台の上に靴を脱いで上がっていた6人の職員が、その場で投票函をさかさまにして票をばら撒く。
その後、空になった投票函を抱えたまま体育館入口前方に座る立会人席の前を歩き、函の中に残票がないことを確認してもらうと、手際よく函を畳み競技場の隅に積み上げる。
開票台の周囲の職員が、まるでバーゲンセールのワゴンに集まった主婦の群れのように、先を争って票を開き始めた。
イブもまわりに負けないよう、急いで票を拾う。
投票用紙は二つ折りにして投票函に投入されるけれど、形状記憶性能のある用紙なので、投票函の中で多くは開いた状態になっている。
開票事務従事者が手にとる段階ではすでに開いていて、閉じた紙を改めて開く手間がなく、分別処理の時間が早い。
開票台の上に置かれた模造紙には、2人の立候補者氏名と白票・疑義票と書かれた枠があって、それぞれの枠の中に徐々に票が積まれていく。
その積まれ具合を見ながら、青木が職員の移動を命じた。
役職者もヒラも敬称略、全員呼び捨てだ。
「転送係、歩夢、鯛双!」
「ハイッ!」
呼ばれた2人は大きな声で返事をすると、分別台の上から選挙専用の転送用容器を1つ取り、開票台の模造紙の上からそれぞれの票を拾い上げていく。
その容器は、40センチほどの四角い板の上にいちごパックを2つ並べて固定したもので、歩夢が牛目票と白票を、鯛双が原票と疑義票をそれぞれのパックに入れて運んでいった。
競技場の舞台に向かって右側の分別台の上に原の票が積まれ、左側の分別台の上に牛目の票が積まれていく。
白票と疑義票は審査係の机に運ばれた。
時間の経過とともに、開票台の票が減り、分別台の上の票が増えていく。
再び青木が叫んだ。
「分別係、A子、B子!
計算係、武藤、尾藤!」
A子とB子は、それぞれの分別台に積まれた票を1枚1枚めくって混票がないことを確認すると、おおむね100枚程度の厚みにして隣りの計算係に引き継ぐ。
計算係は、それぞれ1台ずつの紙幣計数機を担当して、きっちり100枚ずつの集計を行う。
計算は、必ず表で1回と裏で1回の合計2回行う決まりだ。
100枚が確定すると、仕切紙を表に足して青輪ゴムでまとめる。
再度目検で混票がないことを確認すると、開票立会人席に持参し、確認を受ける。
両陣営から選出された開票立会人と開票管理者の確認が終わると、彼らの机の5メートル先に置かれた長机の上、候補者氏名が書かれた三角プレートの手前に、500枚ごとに赤輪ゴムでまとめたうえ並べられるのだ。
時間の経過とともに、それぞれの氏名プレートの前の赤輪ゴムの山が、ひとつふたつと増えていく。
有権者6千人の投票率が60パーセントなら、3,600票。
赤輪ゴムの山が4つ積まれれば2千票となり、勝ちが確定だ。
午後9時を回ると、開票台の上はすっかり空になった。
「開票台、撤収!」
青木のかけ声によりテーブルクロスがはがされ、ひとつの島に寄せ集められていた長机がそれぞれ畳まれて倉庫に格納されていく。
分別台の上に置かれた計算前の票とは別に、白票と疑義票の束が審査係の机で判定を受けていた。
白票は裏に氏名が書いてある場合もあるので、注意して両面を見る。
疑義票は、「〇〇ガンバレ」など候補者氏名以外の文字が記載されていれば他事記載で無効になるけれど、投票人の意思を尊重すべく、なぐり書きでも読めるものは読む方針だった。
とはいえ、立会人に回付された段階で判定誤りや混票が指摘されたら、それこそ最悪の事態だ。
慎重に慎重を期して、審査係が有効無効の判定をしていた。
午後9時半を過ぎると票の分別がほぼ終わったため、青木は、庶務係と審査係以外の事務従事者を解散させた。
9時40分、牛目のプレートの前に赤輪ゴムの票の4つめの束が積まれると、牛目陣営の立会人がうなずき、椅子に深く座りなおした。
同時に、左側のギャラリーから大きな拍手が起きる。
しかし、しばらくすると、原の赤輪ゴムの票も4束になった。
「よっし!」
原の立会人が拳を握り、今度は、右側のギャラリーから歓声があがった。
「ええっ?」
牛目の立会人が慌てて腰を上げると、浅く座り直した。
積まれた票を見ると、それぞれの赤輪ゴムの山が確かに4個あるのはわかるものの、端数の青輪ゴムの束がどちらがどれだけ多いかは微妙だ。
最も難しい最後の疑義票の束を稔係長が持ち、審査係メンバー全員を従えて立会人席を回りながら質問に答えている。
念を押すように、牛目陣営の立会人が太い声で質問した。
「按分票は、ないんですね?」
両候補の票数をメモした集計表を左手に握り、右手に鉛筆を持った立会人が眼鏡をずりあげて睨んだ。
稔が胸を張る。
「今回は、按分票は、ありません」
町会議員選挙などと違って候補者氏名が同姓や同名ではないから、どちらにも読めるという票はなかったのだ。
その答えを聞くと、彼は鉛筆を置き、静かに席を立って出口に向かった。
2階ギャラリーの左側から大きなため息が漏れる。
続いて原陣営の立会人が、座ったまま開票管理者に頭を下げて礼を言った。
2階ギャラリーの右側からは割れんばかりの拍手だ。
カメラのストロボが幾度も光る。
最終集計は、次のとおりだった。
原一候補、2,299票。
牛目誠候補、2,112票。
投票率は70パーセントを上回り、近年まれにみる高い投票率だった。
「ご苦労様」
海老夫が審査係の島に戻ってきた稔の肩を叩いた。
その夜10時から、国道沿いの原の選挙事務所で当選報告会が開かれた。
この時間にもかかわらず、集まった支援者が150人。
家の中に入りきらないため、玄関前で立ったままの集会だ。
すっかり声の枯れた原がゆっくり登壇し、支援者に礼を述べた。
「深井町始まって以来の町長選挙でした。とても苦しかった。
でも、皆さんの理解と支援を得られ、こうして再選してもらうことができた。心から、お礼を申し上げたい。
中でも、『来ぶらり』と『少防所』の政策立案をしてくれた佐藤イブさんには、大変感謝している。
これがなかったら、勝つことはできなかった」
原がイブを呼び寄せ、皆に紹介した。
大歓声と拍手の中、右に左にと繰り返し頭を下げるイブ。
正式な祝勝会は後日として、とりあえず陣中見舞いの酒を開けて、紙コップで乾杯だ。
原が、胸の内ポケットからイブの辞職願を取り出して渡した。
「ほれ、返すよ」
「まあ、こんなところで、蝶々」
慌てるイブ。
「ずっと胸に持っておった。
覚悟というのかな。明日がない、そう思えば、今日すべきことをやりきる、そういう覚悟が持てる。
不安がなかったと言えば嘘になるが、選挙運動中ずっと気持ちを強くもつことができた。お守りみたいなもんじゃった。
ありがと」
そう言うと、伸びあがり、爪先立ちしてイブの左の頬に口づけした。
驚くイブ。
久々の唇の感触に、体の真ん中がポッと熱くなった。
「セクハラか?」
心配してきく蝶々。
「いいえ!」
笑って答える。
「年の差婚も、めずらしくないですから」
「おおっ、その気になってくれたか!」
そばで聞いていた原の妻が夫の脇腹を突つく。
紙コップに酒を注がれながら多くの支援者からお褒めの言葉をもらったので、イブもかなり飲んでしまった。
人混みを離れて頬を冷やしていると、スマホが鳴った。
ショートメールを開くと、万汰からだ。
「当選、おめでとう。遅い時間に悪いけど、少し時間取れる?」
蝶々を探すと、支援者と大盛り上がりで、もうしばらくはお開きになりそうもない。
イブは、支援者の群をかき分けて原に近づくと、おずおずと言った。
「蝶々、今夜は少し疲れましたので、先に失礼してもよろしいですか?」
脇にいた妻が先に返事をした。
「あなた、こんな時間まで職員の方を拘束しちゃダメよ。役場も働き方改革の最中でしょ?」
おでこを叩く原。
「おお、そうじゃ。イブくん、帰ってよし!
また明日、今後のことをゆっくり話そう。午後1時に町長室に所長と稔くんと一緒に来てくれればいい。
本当に、ありがとう」
頭頂部がすっかり薄くなった頭を下げる。
イブは、奥様に最上級のお辞儀をしてその場を後にすると、万汰に返事を書き、指定の大漁亭に向かった。




