#69 霧縫ノエ II
アルムが突如として行方不明になってから戻ってきてからというもの、弟の顔つき……というか物事に対する姿勢のようなものが変わったと私は感じていた。
そしてフゲン兄さまからもあっさりと一本を取った日の夜半──ノエとアルムは、奥座敷の閨にて並んで正座して待つ。
あらかじめ言付けられた内容通りに、お香を焚いた室内に布団を準備し、一晩は保つ行灯がほのかに灯っていた。
「……ながいね、ノエ」
「もう来るよ」
私は遠く近付いてくる足音を、既に耳で捉えていた。
その過敏とも言える聴音域こそが、私が霧縫の家に縛られるようになった最大の天賦。
「待たせたねぇ、二人とも」
香油の匂いがわずかに漏れる陶壺を、小脇に抱えた大伯母が私とアルムの前に座った。
「これより"房中術"について教える」
『はい、大伯母さま──』
私とアルムの声が重なって返事をする。
「忍びの使うそれは、相手を籠絡──支配する術と心得んさい。標的と褥を共にして短期間で信頼を得ること、情愛を利用してあらゆるモノを引き出すこと、生殺与奪を掌握すること」
「知ってる! ハニートラップだ」
「はに……とら?」
聞きなれない発音で知らない単語を発したアルムに、私は疑問符を投げかける。
「大陸の言葉だよ。連邦東部の」
「アルムはなんでそんなの知ってるの?」
「んえっ!? ……っと、一座のだれだったかな~~~? に、聞いたことあるんだ」
アルムともそれなりに過ごしてきた。だから様子がおかしいのもわかる。
しかし怪しいと見つめる私とは違い、大伯母はアルムのことは特に気にせず話を続ける。
「ノエ、アルム──二人にはまず、南州の流儀に則った本来の房中術から始めてもらう。服を脱いで布団へ行きなん」
アルムはなんの躊躇もなく裸になり、私は気恥ずかしさを押し殺し──弟の手前、平静を保つ。
義弟が着ていた服もまとめて綺麗に折りたたみ、正座し布団の上で向かい合った。
「手を伸ばし、ゆっくりと触れぃ」
「っ……」
「わっ……」
アルムも雰囲気に呑まれているのか、お互いの手が絡むだけでひどく敏感に反応する。
「そうやって、ゆっくりと体と体をくっつけてゆけぃ」
「ん……」
「かっは、くすぐった……」
ゆっくりと肌と肌が触れ合う面積が増えていき、むず痒さはやがて──気持ちよさへと変わっていく。
「そのまま止めぃ」
布団の上で寝転がるように抱き合った形のまま、指示のままに動きを止めた。
「房中術とは陰と陽の合一にあり。呼吸を整え、体だけでなく心を繋ぎ、互いに同調する。気を循環させ、魔力を調整し、意識を高め合う」
『……』
私とアルムは静止したまま、額と鼻がくっつく距離で見つめ合う。
「集中せぃ。息を感じ、肌を感じ、気を感じ、心を感じよ」
「ノエ、あったかい」
「しずかに」
互いにささやくように、額を突き合わせる。
やがてどちらともなく目をつぶり、唇と唇が少しずつ触れ合う。
具体的なやり方はわからずとも、本能がお互いを求め合う。
「調和することで、心身が健全に保たれる。力を外へ散らすことなく、二人の間で巡らせるんよ」
ぼやーっとした、まるで夢の中にいるかのような感覚。
愛おしく、幸せに、気持ちよく、満たされ、溢れだしそうで……溢れないまま、回っていくような──
「相手のしたいことを察し、応える。それは闘争を含め、あらゆることに通じる」
何分か、何十分か、何時間か、何日も……ずっとそうしていたような──曖昧なまま過ぎていく。
「良さそうやの、ではそろそろ実践に移るとするかぃ」
大伯母は香油を少しずつ塗って、私とアルムの全身へと行き渡らせる。
心も体も時間も、何もかもが希薄なまま──私とアルムはさらに深みへと落ちるように──意識が昇っていくのだった。
◇
人払いがされた練武場にて、私と父ドウゲンは神妙な面持ちで対座していた。
「これより継承の儀を始める」
「はい、父上。よろしくお願いいたします」
私と父の間には、一本の小太刀──"音々霧丸"が木台の上に置かれていた。
「霧縫家の開祖・シンゲンより代々継承されてきた由緒ある小太刀。此れなるはただの刃にあらず」
「その真価は、音にあり」
応じるように答えた私は、手慣れた動作で音々霧丸を抜刀する。
その瞬間"私と父にだけ聞こえる音色"が、練武場内に残響した。
「尋常なる者の耳には聞こえぬ」
「されど意識には作用せしめる。音々霧丸を自在に扱い、すべからく霧中へと誘うべし」
抜いた小太刀を納刀する、その際にもまた私と父だけにしか聞こえない音が鳴った。
「うむ……寄る年波で衰えはじめた我の耳にも、しかと届く洗練された音なり」
特別に造られた小太刀を、特殊な鞘走りによって抜いた時と納めた時、常人には聞こえない高音が発せられる。
それを繰り返すことで聞きし者を幻惑し、最終的には意識を途絶させることも可能となる。
「では、参ります──」
その場で立ち上がった私は、"霧縫流・小太刀勢法"の型を一つずつ演舞していく。
小太刀の技はどれもが音々霧丸を用いることを前提としており、実戦の流れの中で何度も鳴らし幻惑するのが精髄となっている。
私は小太刀勢法の"奥伝"までを披露し、着地までを華麗に終えた。
「霧縫流・小太刀勢法──これにて了です」
呼吸を整えながら口にし、父ドウゲンは手を4度ほど叩いて拍手をする。
「美事。この時この場をもって音々霧丸はおぬしのものだ、ノエ」
「拝領いたします、父上」
音々霧丸と小太刀勢法を併せて、真なる意味で扱うのに必要なのが、初代当主と同じく音を聞き分けて調整する為の聴覚。
天性の才能とたゆまぬ修練あってこそ可能とする、霧縫の家伝であり象徴。
「もう一本──この"血喰童子爪"は霧縫家の当主の証ゆえ、受け継ぐのはテンゲンとなるが……」
「承知しています」
父ドウゲンは自らが持っていた小太刀を抜いた。
それは過去に北州を荒らして回った巨鬼、"血喰童子"が討伐された折に小指の爪より造られた刃。
その妖しげに濡れる刀身を見つめてから納め、私へと真っすぐ視線を向ける。
「されど霧縫の技の本分はその"音々霧丸"にあること、努々忘るるな。ノエ、新たな代に継承するその日まで精進し続けよ」
「はい、父上。これよりは我が身と同等に扱い、次代へと継いでいくことをここに誓います」




