9話 殿下、お茶会って最高ですね!
「ルイス様、本日は殿下の婚約者として、初めてのご社交でございますよ」
ばあやさんの声が妙に真剣で、僕は鏡の前で思わず姿勢を正した。
王族の婚約者としての正装――ということで、今日は深い青の礼服を着せられている。
肩から胸にかけて銀の刺繍が入っていて、きらっと光るボタンが眩しい。普段の服より窮屈だけど、ばあやさんが満足そうにうなずいたので我慢することにした。
「殿下は本日、公務で外出のためお付き添いできませんので、お一人での参加となりますが……」
「今日って、どんな集まりなんですか?」
「午後のお茶会でございます。……主催は、レティスリア様」
主催の名前を聞いても、いまいちピンと来ない。それよりも、僕はお茶会という言葉にときめいていた。
(お茶会って名前からして、きっとお茶やお菓子も出るよね。楽しみだなぁ)
「ルイス様……レティスリア様は、その……殿下の、かつてのご婚約者でして」
側で髪を整えてくれていた若い侍女さんが、少しためらうように声を落とした。
「はぁ、そうなんですね」
「ですから、無理に参加する必要はないのですよ」
一瞬、意味が分からず瞬きをする。
「えっ!?行きます!絶対行きます!」
僕が大きな声で返すと、侍女さんたちは一斉に目を丸くした。僕、何か変なこと言っただろうか。
だって、殿下の元婚約者レベルの人のお茶会だなんて、絶対美味しいお菓子が出るはずだ。なにがなんでも行くべきだと思う!
王城から馬車で十五分ほど。
到着したのは、美しい庭園付きの大きな館だった。
玄関ホールには色とりどりの花が飾られていて、いい香りが漂っている。少し緊張しながら足を踏み入れると、入り口に立っていた使用人が、非の打ちどころのない所作で頭を下げた。僕も慌てて背筋を伸ばし、丁寧に会釈を返す。
案内されたサロンに入ると、すでに十人近くの令嬢たちが座っていた。中央の席にいるのが、おそらく主催者のレティスリア様だ。
淡い水色のドレスにゆるやかな巻き髪。微笑みを浮かべているけれど、その視線はどこか冷たい印象がある。
「まあ、王太子殿下のご婚約者様が、わざわざ足を運んでくださるなんて。お忙しいのに恐縮ですわ」
その声にはほんのり棘があるように感じたけれど、僕は気にせずぺこりと頭を下げた。
「いえ、暇だったので!それに、こんなに素敵なお菓子がたくさんあるなんて、来て良かったです!」
元気よく言った瞬間、サロンがしんと静まり返った。ぽかんと口を開けた令嬢たちをよそに、僕はティースタンドへ目を輝かせる。
三段重ねの銀皿には、色とりどりのケーキやパイ、サンドイッチが並んでいる。まさに夢の光景だ。
「……ほほほ。殿下のご婚約者様は、とても正直なお方なのですね」
レティスリア様が薄く笑ったけれど、その声が少しひきつっているように感じる。
紅茶が注がれ、ひと通り全員のカップが揃ったところで、レティスリア様が優雅に微笑んだ。
「どうぞ、召し上がってくださいませ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の意識は完全にアップルパイへ吸い寄せられた。表面の焦げ目はつやつやと輝き、香ばしい匂いがたまらない。
(絶対おいしいやつだ……!)
「いただきまーす!」
「あらまあ、庶民のような食べっぷりですこと」
隣の令嬢がくすくすと笑いながら言う。
「殿下のお心が庶民趣味に染まらないといいですわね」
……話しかけられているのかよくわからなかったけれど、僕はもうアップルパイを口に入れていた。
「……っんん……!このパイ、表面がさくっとしてて中のリンゴがとろける……!これ作った人、天才ですね!」
「…………」
周囲が、すっと静まり返る。
「……ルイス様、そのアップルパイ、お気に召されたのかしら?」
レティスリア様が、なぜか引きつった笑顔で尋ねる。
「はい!最高です。これ、ぜひ王城の厨房にもレシピを伝えてほしいです!」
「……ええ、考えておきますわ」
紅茶の香りが漂う中、微妙な沈黙が落ちた。僕はようやく空気が変だと気づき、首を傾げる。
(……あれ?もしかして、まだケーキの番じゃなかったとか?)
でも次の瞬間、焼き菓子が並んだお皿が目に入って、そんな考えはどこかに吹き飛んだ。
「わあ、クッキーもある!一種類ずつ食べていいですか?」
「ええ……お好きなだけどうぞ」
丸いの、四角いの、粉砂糖がかかってるの……。なんて夢のような光景だ。
「いただきます」
さくっと噛むと、ほろほろと口の中でほどけて、バターの香りが広がった。
「おいしい……!レティスリア様、これ全部手作りですか?」
「い、いえ……職人に作らせておりますわ」
「へえ、すごい!とても腕のいい職人ですね!」
その時、少し離れた席の令嬢が小声で言ったことが聞こえた。
「まあ……殿下の婚約者様がこんなに食べ物がお好きだなんて意外ですわ。食べる様子を殿下がご覧になったら、どう思われるのかしら?」
くすり、と控えめな笑い声が周囲に広がる。僕は首をかしげながら、正直に答えた。
「殿下?えっと、殿下はいつも僕の隣で一緒に食べてくださいますよ」
その瞬間、周囲の令嬢たちが一斉にぴたりと動きを止めた。フォークが皿に触れて、小さく澄んだ音を立てる。
「い、い、一緒に……召し上がっていますの?」
レティスリア様の笑顔は固まったまま、声だけが上ずっていた。
「はい。昨日も、その前の日も。パンが固いと、切ってくださいましたし……」
思い出しながら続ける。
「スープも、僕が熱そうにしてたら『少し冷めてから飲め』って言ってくださって。あと、食べるのに夢中になってると、ちゃんと飲み物を勧めてくれます」
レティスリア様はぱちぱちと瞬きをすると、口を開いた。
「ま、まあ、殿下はお優しいこと……」
「はい、優しいです」
僕が元気よくうなずくと、令嬢たちはどこか複雑そうな顔で視線を交わす。
「あ、そうだ、この前の夜もすごく優しかったです」
「よ、夜……!?」
レティスリア様の頬がぴくりと引き攣った。
「寝ようとしたら殿下が部屋に来て、全身マッサージしてくれたんです。急に体中触られて最初はビックリしちゃったんですけど、後でマッサージだったんだなーって気がついて……えへへ、優しいですよね」
「――っ!?」
椅子ががたん、と音を立てた。隣の令嬢が真っ青な顔でひっくり返り、彼女の侍女が慌てて支える。
「お、お嬢様っ!」
「えっ!?大丈夫ですか!?」
僕は慌てて椅子から立ち上がった。
「えっと、こういう時は冷やすといいと思います!この前僕が酔った時、殿下が冷たいタオルを頭に乗せてくれたのが気持ちよかったので……」
侍女たちが「ひっ」と息を呑む。役立つ情報だと思ったのに、なぜか反応が微妙だ。
「い、いえ!お構いなく!こちらで対処しますので!」
慌てて止めに入る侍女の声に、僕は素直にうなずいた。
「じゃあ、せめて肩を貸しますよ!僕がよろけた時もいつも殿下が肩を支えてくれるので――」
「もういいですルイス様!!」
別の令嬢が涙目で叫んだ。
えっ、僕、何か悪いことを言ってしまったんだろうか。
周囲はなぜか沈黙に包まれている。令嬢たちは口元を引きつらせながら微笑みを保ち、侍女たちは「どうかもう話しかけないで」という顔をしていた。
――なるほど、さすがは貴族の方々だ。
こういう時は自分では動かず、侍女たちに任せるのが正しいのかもしれない。取り乱さず、冷静に振る舞えて立派だと思う。僕も見習わないと。
場の空気がようやく落ち着きかけた頃。
廊下の向こうから、誰かが走ってくるのが見えた。
「レ、レティスリア様!!大変です!!」
レティスリア様の従者が、顔を真っ青にして駆け込んでくる。カップの中の紅茶が波打ち、全員がぴたりと動きを止めた。
「何事ですの!?今お茶会の最中でしてよ!」
「そ、それが――、アルディン殿下が、こちらにお見えです!!」
「……は?」
レティスリア様の優雅な笑顔が、ぴきりと音を立てて凍りつく。
一拍遅れて、他の令嬢たちの悲鳴のような声が上がった。
「な、ななな、殿下が!?このタイミングで!?」
「本日は公務のはずでは……!?」
「え、殿下?」
僕はきょとんと首をかしげた。
今、令嬢が言った通り、アルディン殿下なら今日は公務で来られないはずだ。
もしかして、お茶会に参加したくなったのかな?
こんなに美味しいお菓子がいっぱいなら、確かに来たくなる気持ちはわかる。
「と、とにかく周りを整えて!急いで!」
レティスリア様が半ば叫びながら立ち上がる。
――なんで皆、そんなに慌ててるんだろう。
すると、廊下の方から、重く低い声が響いた。
「ルイス!ここにいるのか?」
あ、殿下、ほんとに来ちゃった。




