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殿下、いつでも婚約破棄してくださって大丈夫です!  作者: krm


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8/15

8話 殿下、こんなに一緒で大丈夫ですか?

食堂の扉が開いた瞬間、香ばしい匂いがふわりと広がった。

「……わあ……」

何度見ても、やっぱり圧倒される。長いテーブルの上に、所狭しと並ぶ朝食。焼き色のついたパン、湯気を立てるスープ、ふわふわの卵料理に、彩りのいい果物。朝だというのに、料理の気合いが違う。

(ああ、朝ごはん……朝ごはんだ)

考えることは、それだけでいい。

椅子に座ると、殿下も当然のようにすぐ隣に腰を下ろした。殿下は一度、料理に視線を落とし――

「……冷める前に食べろ」

短くそう言ってから、静かに手を合わせた。

「あ、は、はい……いただきます!」

慌てて真似をして手を合わせる。

まずはスープに手を伸ばし、一口。その瞬間、思わず肩の力が抜けた。

「……あぁっ、おいしい……」

温かくて、やさしくて、体の奥に染みていく。昨夜のことも、目が覚めた時のドキドキも、全部溶けていく感じがした。

パンをちぎり、卵をのせて、また一口。気づけば、完全に自分の世界だ。

「……気に入ったようだな」

ふいに、横から低い声が落ちてくる。

「はい!すごく!」

即答すると、殿下は小さく息を吐き、皿の一つをこちらに寄せた。

「これも食べてみろ」

「え、いいんですか?」

「ああ。遠慮する必要はない」

そう言われたら、もう遠慮なんてできない。僕は素直にフォークを伸ばした。

「んーっ、幸せです」

思わず漏れた声に、殿下は何も言わなかったけれど。横目で見ると、ほんのわずかに目元が緩んでいる――ような、気がした。

(気のせいかな)

でもまあ、そんなことよりも、今は目の前のご飯が最優先だ。

「……まだ食べられるな?」

「もちろんです!」

即答すると、殿下は静かに給仕へ目配せをした。次の皿が運ばれてくるのを見て、僕は思わずにやける。

(朝ごはん、最高……)

こうして、僕の思考は完全に食べ物に支配されたまま、穏やかな朝の時間はゆっくりと流れていった。


朝食を終えると、殿下は席を立ち、そのまま僕の方を見た。

「このあと公務がある。ついて来い」

「あ、はい……」

深く考える間もなく、返事をする。

気づけば、また隣を歩かされていた。

王宮の廊下を進むと、行き交う人たちが次々に動きを止める。その視線が、殿下ではなく僕に向けられていることに気づいて、胸の奥がわずかにざわついた。

殿下は足をふと止め、淡々と告げる。

「こちらはルイス。俺の婚約者だ」

その一言で、空気が変わった。文官たちは一斉に姿勢を正し、騎士たちは表情を引き締める。僕は、つられるように頭を下げた。

「は、はじめまして……」

返ってきたのは、丁寧すぎるほどの挨拶だった。

「これはこれはルイス様。お噂は伺っております」

「今後とも、よろしくお願いいたします」

(……噂?)

胸の奥で、嫌な予感がむくりと顔を出す。でも、殿下は特に気にした様子もなく、また歩き出してしまった。

その後も同じことが続いた。会議室でも、報告の場でも、視察先でも。

「こちらはルイス。俺の婚約者だ。俺が同席を許している」

紹介されるたび、周囲は納得したようにうなずき、僕を見る目が変わっていく。

(……え、これ、そんなに大事なことなの?)

殿下の隣に座らされ、発言は求められないけれど、席は常に用意されている。

その状況が、じわじわと怖くなってきた。

(……なんでこんなに当然のように隣に置かれてるんだろう?)

そんな不安がずっと頭に浮かんでいた。


やがて、最後の用件が終わり、殿下が立ち止まる。

「今日はここまでだ」

その一言に、肩の力が一気に抜けた。長かった一日が、ようやく終わったのだと実感する。

(……つ、疲れた……)

「よく付き合ったな」

労うような声に、反射的に首を振った。

「い、いえ……そんな……」

部屋へ戻る廊下を並んで歩きながら、殿下の横顔をそっと盗み見る。相変わらず落ち着いていて、感情の読めない表情。何を考えているのかは、やっぱり分からない。

(……なんだか今日一日、完全に婚約者として扱われてたような……)

気のせい、だと思いたい。

そう言い聞かせても、胸の奥に残る小さな違和感は消えなかった。

「ほら、段差だ」

廊下と中庭を繋ぐ石段に差しかかったところで、殿下が自然と僕の腰に手を回す。

「あ、すみません……」

なんだか、これももう自然になりつつある。

殿下の隣を歩く、この距離。

最初は落ち着かなかったはずなのに、いつの間にか、それが当たり前になりつつある。

(……あれ?)

そう気づいた瞬間、少しだけ背筋が寒くなった。

まるで、知らないうちに囲われて、逃げ場がなくなっていくみたいで。

――嫌な予感、のはずなのに。

なぜか、不思議と温かさも混じっている。

そんな曖昧な感覚を抱えたまま、僕の長い一日は、静かに終わった。

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