7話 殿下、どうしてこうなったんですか?
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
殿下はゆっくりと歩み寄ってくる。寝間着姿の僕は、布団の上で身を固くしたまま、声をかけるタイミングを見失っていた。
「……具合はどうだ」
「へ?ええっと、元気です……少し、酔ってますけど」
「顔が赤い」
「お、お風呂のせいも……あるかも」
殿下は小さく息を吐いた。怒っているわけでは無さそうだけれど、相変わらず感情は読めない。
次の瞬間、殿下は卓の方へ向かい、何かを手に取った。戻ってきたその手には、冷たい水で絞ったらしいタオルがある。
「……少し、冷やせ」
そう言って、ためらいもなく、そのタオルを僕の額にそっと乗せた。
「ひゃっ……!」
思わず声が漏れる。ひんやりとした感触が心地よくて、じんわり熱が引いていくのが分かった。
「少し、楽になるだろう」
「あ、ありがとうございます……」
戸惑いながらお礼を言う。タオルを置く殿下の手つきは、思っていたよりもずっと丁寧で――優しかった。
……近い。さっきよりも、ずっと。
ほんの少し距離が縮まっただけで、胸がきゅっと締めつけられる。心臓の音がうるさくて、タオルの冷たさよりそっちの方が気になってしまう。
「お前のことを、少し誤解していたかもしれん」
ぽつりと落とされた言葉に、思わず顔を上げた。
「え?」
殿下の青い瞳が、静かに、まっすぐこちらを見ている。
「昼のことだ。……逃げるような態度を取らせたのは、俺の言い方が悪かった」
「そ、そんな!僕の方こそ――」
慌てて否定しかけた瞬間、殿下の指が唇の前に伸びた。
「……もういい。謝るのは俺の方だ」
低い声が、やわらかく空気を震わせる。その声を聞くだけで、なんだか体の奥がくすぐったくなった。やっぱり、まだ酔ってるのかもしれない。
少しの沈黙。
けれど次の瞬間――殿下の瞳が、鋭く光った。
「……だが、ひとつだけ。勘違いするな」
「……え?」
目が合った瞬間、息が止まった。
静かな炎のような熱を帯びた視線。
「俺は――婚約を破棄するつもりなどない」
「……え?」
「お前を手放す気はない。どんな理由を並べられても、誰が何を言おうとも、だ」
まるで宣言のように言い切られ、心臓が跳ね上がった。
「で、でも、だって僕なんか……!」
「なんか、などと言うな」
殿下の声が一段低くなり、ベッドがわずかに軋む。
気づけば、殿下の両手が僕の肩を押さえていた。
「……どうしても、婚約を破棄したいと言うなら」
「……っ?」
「既成事実でも作ってやろうか」
至近距離で、熱を押し殺すような声が落ちる。
「えええっ!?」
心臓がどくんと跳ねた。なんだかよく分からないけど、とんでもなく大変なことを言われた気がする。
逃げようとしたけれど、殿下の腕が強くて動けない。近すぎる距離に、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「で、殿下っ……!落ち着いてください!お、お身体、熱いですよっ!?」
「……同じ酒を飲んだからな」
「えっ、それって……まさか変な成分でも……!?」
「入っていない」
「じゃあ、なんでこんなに心臓がドキドキ――」
「……それは、別の原因だろう」
殿下の気配が、さらに近づいた。視線を上げるより早く、頬に影が落ちる。
次の瞬間、唇にやわらかな感触が触れた。
「……っ」
考える暇もなく、短く触れるだけのキス。なのに、胸の奥が一気に熱くなって、頭が追いつかない。
離れたと思ったのも束の間、殿下の手がそっと僕の背に回った。
指先が服の上から、ゆっくりと、確かめるように動く。
肩口から背中へ。張りつめた筋をなぞるみたいに、押されて、ゆるめられて。
「……っ、で、殿下……?」
何をされているのか分からない。触れられるたび、体がびくりと反応してしまって、余計に恥ずかしい。
「力が入っているな」
低い声が、すぐ耳元で落ちる。肩に置かれた手に、少しだけ力が込められた。
じん、と鈍い痺れが浮かび上がるような、不思議な感覚。近すぎる距離と、意味が分からない触れ方に、胸がいっぱいになる。
「……っ、ま、待って……」
声が震えた瞬間、視界が滲んだ。ぽろり、と一粒、頬を伝って落ちる。
その途端、殿下の動きが止まった。背中にあった手が、はっとしたように離れる。
「……すまない」
低く、噛みしめるような声だった。殿下は少し距離を取り、拳を握りしめて視線を伏せる。
「……行き過ぎた。怖がらせるつもりはなかった」
さっきまでの熱が嘘のように、空気が静まった。僕は慌てて袖で目元を拭き、首をぶんぶん振る。
「ち、違っ……その……っ」
言葉がうまく出てこない。ただ、心臓だけが、まだ速く鳴っている。
「もういい。今日は……何もしない」
そう言って、殿下はゆっくりと体を離した。そのまま僕の隣へ横になり、そっと胸元へ引き寄せる。
鼓動が近い。殿下の心音が、自分のものと重なって、少しずつ落ち着いていく。
「……ん、殿下、温かい」
「お前が火照っているだけだ」
「ふふ……そうかも」
そのやり取りのあと、言葉はもう続かなかった。ただ、腕の中の温もりだけが確かで、安心できた。
まぶたがとろんと重くなる。眠りに落ちる直前、殿下の指が髪をなでる感触がした。
――怖いことはしない。
その言葉のとおりに、殿下の腕は優しく、ほどけないまま僕を包んでいた。
ふわふわして、あったかい。
(……ん……?)
夢の続きみたいな心地よさに包まれて、しばらくそのまま目を閉じていた。柔らかくて、ぬくもりがあって、なんだか安心する。
(気持ちいい……なんだろう、このあったかさ……)
夢と現実の境目みたいな場所で、意識がゆっくり浮かび上がってきた。ぼんやりと目を開けて――すぐに固まる。
――目の前に、殿下の顔。
「……っ!?」
心臓が跳ね上がった。驚きすぎて変な声が出そうになり、慌てて口を押さえる。
(ちょっ……待って。これは……え?ええと……)
静かな寝息が耳に届いた。どうやら殿下はまだ眠っているらしい。
そろそろと布団から抜け出そうとして――気づく。
殿下の腕が、僕の腰に回っていた。
(~~~~っ!?)
声にならない悲鳴を上げながら、慎重に身を引こうとすると、殿下の腕がぐっと力を増す。
「……動くな」
寝起き特有の少しかすれた声が、耳のすぐそばで響いた。
「で、殿下っ!?あの、もう朝です!離してっ……!」
必死に訴えると、殿下は小さく息を吐く。
「……ああ、朝か」
殿下はまだ眠たげな目のまま、至近距離で僕を見つめてきた。いつもより無防備なその表情に、なぜか息が詰まる。
「……よく眠れたか」
「そ、それは……まあ、はい……」
「ならよかった」
そう言って、額を僕のこめかみに軽く寄せてきた。
(いや、近い近い近い!)
もう限界、と声を上げそうになった、その時。
「失礼いたしますよ」
扉の向こうから、聞き慣れた声。
「――っ!?」
反射的に、殿下の胸へ顔を埋めてしまった。
「……あらあらまあまあ」
ばあやさんの楽しそうな声に、余計に顔を上げられなくなる。
「よくお休みになられましたね」
「い、いやっ……!これはその……!」
慌てている僕をよそに、ばあやさんは淡々と続けた。
「さあ、朝食の準備が整っておりますよ」
「……朝食?」
その言葉を聞いた瞬間、僕はぴくっと反応し、顔を上げる。胸のどきどきも、頭の中のもやもやも、全部その一語に持っていかれた。
(そうだ、今は……今は朝ごはんのことだけ考えよう)
「――わーい、朝ごはん!」
わざとらしいほど、明るく大きな声を出す。
殿下の腕がどうとか、距離が近いとか、なんか妙に心臓がうるさいとか。そういうのは、全部いったん後回しだ。
すると、殿下が小さく息を吐き、ゆっくりと腕を離した。
「……切り替えが早いな」
「えへへ……だって、朝ごはんですよ!」
何を言っているのか自分でもよく分からないけれど、言い切ってしまう。
ばあやさんが、くすっと上品に笑った。
「ふふ。よろしゅうございますね。さあ、お着替えをなさって。すぐにご案内いたしますよ」
「はいっ!」
返事だけはやたら元気にして、僕はベッドから飛び降りた。
背中に殿下の視線を感じた気がしたけれど――考えない。
(朝ごはん。朝ごはん。朝ごはん……)
心の中で唱えながら、ささっと身支度を整える。昨日もすごかったし、今日もきっとすごいはずだ。
扉の前で一度だけ振り返ると、殿下はすでにいつもの落ち着いた表情に戻っていた。さっきまで一緒に寝ていたなんて、嘘みたいに。
「……行くぞ」
「はい!今行きます!」
元気よく答えて、僕は食堂へ向かう。
さっきまでの出来事を思い出さないように、意識は完全に朝食モード。
(今日は何が出るんだろう……パンに、スープに、それから……)
そうしているうちに、自然と足取りも軽くなっていた。
――やっぱり、朝ごはんは最強だ。




