6話 殿下、距離がちょっと近すぎませんか?
「婚約破棄してください」なんて言葉を口にしてしまった自分を、今になって全力で殴りたい。
あれから、気まずさ全開の空気の中、散歩は続行中だった。
殿下は歩調を緩めることなく、なぜかぴったりと僕の隣を歩いている。
(……いや、近い。近いんですけど!?)
肩が触れそうな距離。なのに無言。足音だけが並んで響く。もう、空気が痛い。
あんなに怒っている様子だったのに、どうしてこんな距離で歩くんだろう。
そんなことを考えていたせいか、足元への意識が完全に抜けていた。
「あっ――」
石畳の段差につま先が引っかかり、体が前に傾く。
転ぶかも――と思ったところで、肩が強く引き戻された。
「……気をつけろ」
気づけば、殿下の手が僕の肩を支えている。
思ったより力強くて、思ったより――近い。
「す、すみません……!」
慌てて体勢を立て直そうとしたのに、なぜか手は離されなかった。それどころか、そのまま肩を支えられた状態で、再び歩き出す。
(……あれ?支えるの、もう終わってよくないですか!?)
殿下は何も言わず、当然のように僕の肩に手を置いたまま、歩き続けていた。
怒っているはずなのに。
距離を取られるどころか、むしろ縮まっている。
(な、なにこの状況……落ち着かない……)
庭の門を抜け、廊下に戻った頃には、僕の背中は汗でじっとりしていた。
そのまま食堂に着くと、長いテーブルの中央に料理が並べられていた。
香ばしいパンの香りと、湯気を立てるスープの匂いが漂ってくる。
(あ……美味しそう……)
さっきまでの気まずさが、胃の奥からじわじわと薄れていくのを感じる。誰だって、空腹には勝てない。
「……ここに座れ」
短い指示とともに、殿下が自分の隣の椅子を指していた。
「……はい」
広い食卓なのに、当然のように隣。僕はぎこちなく腰を下ろした。
「いただきます……」
スプーンを持つ手が震える。緊張のせいだ。
けど、ひと口スープを飲んだ瞬間――
(あっ……おいしい……)
野菜の甘みがじんわりと広がって、体の芯に染み渡る。
ああ、なんて幸せなんだろう。さっきまでの気まずさも、不安も、いつの間にか遠くへ追いやられていた。
それに、たくさん歩いたせいか、余計に美味しく感じる気がする。
「……歩いたあとは、味の感じ方が変わるだろう」
殿下の声が、すぐ隣から落ちてくる。
「は、はい!なんというか……全部、二割増しくらいでおいしいです!」
正直な感想を言うと、殿下は一瞬だけこちらを見て、ほんのわずかに息を吐いた。
「……そうか」
それ以上は何も言わず、静かに食事を続ける。僕の皿が空きかけると、殿下が給仕に目配せをして、次の料理が運ばれてきた。
(……え?)
あまりにも、ぴったりすぎる。まるで、僕の食べる速さを見計らっていたみたいな……。
(……いやいや、さすがに考えすぎだよね)
殿下が、僕のペースに合わせて気を遣うなんて。
「午後も動く。しっかり食べておけ」
「えっ、あ、はい!」
僕は素直にフォークを取り、再び料理に向き合った。
(……殿下、怒ってるんだと思ってたけど)
横顔は相変わらず冷静で、感情は読めない。けれど、さっきから妙に世話を焼かれている気がして、首を傾げる。
(……そうでもない、のかな?)
たぶん。うん、そういうことにしておこう。
今は昼食がとてもおいしいし、午後のことは――お腹いっぱいになってから考えればいい。
そう思いながら、僕はもう一口、パンをかじった。
午後は、殿下に連れられて王宮内を少し歩いた。
魔獣討伐の説明を受けたり、訓練場を遠目に眺めたり――色々案内してもらったはずなのに、正直あまり頭に入ってこなかった。
ただ一つ、気になったのは――殿下が、やけに近いこと。
人が多い場所では、自然と前に立ち。少しでも段差があれば、当然のように腕を取られる。
(……もしかして、僕ってそんなに足元おぼつかない?)
不思議に思いつつも、特に深く考えなかった。
夕刻。
高い天窓の向こうで、空がゆっくりと藍色に染まり始めていた。昼よりも静かな食堂には、柔らかな灯りが落とされ、長いテーブルの上にはすでに夕食の準備が整えられている。
(わあ……夜の王宮ごはんも、やっぱりすごい)
昼より灯りが落ちた食堂は、なんだか大人っぽい雰囲気だ。並んだ料理まで昼とは違って見える。思わず目を輝かせていると、すぐ隣で椅子が引かれる気配がした。
「……ここだ」
「は、はい」
返事をしながら腰を下ろす。また殿下の隣だけれど、不思議と昼ほど心臓はうるさくならなかった。さっきまでずっと一緒に歩いていたせいか、距離の近さにも少し慣れてきている。
(……殿下って、基本的に隣に座るんだな)
そう思うことにして、気持ちを落ち着ける。
料理が並び、僕はまずスープに手を伸ばした。湯気と一緒に立ち上る香りに、自然と肩の力が抜ける。
(あ、これ、好きなやつだ)
一口含むと、温かくて優しい味が広がった。食べることに集中すると、周りの空気も穏やかに感じられてくる。
「お前は……酒は飲めるのか」
不意に投げられた問いに、スプーンを止める。
「へ?あ、えっと……嗜む程度には」
正直に答えると、殿下は小さくうなずいた。
「そうか」
殿下はそのまま視線だけで侍従に合図を送る。ほどなくして、淡い琥珀色の液体が入ったグラスが二つ、音もなく置かれた。光を受けてきらめくそのお酒は、見るからに上等そうだ。
「王都近郊で採れる果実を使った酒だ。甘口で飲みやすい」
「へぇ、すごく綺麗な色ですね」
「飲んでみろ」
すすめられるまま口をつけると、まろやかな香りが広がった。ほんの少し酸味があって、後からじんわりと体が温まる。
「……おいしい」
自然と笑みがこぼれる。
すると、殿下が少しだけ眉を動かした気がした。初めて見る表情だ。
(……あれ?今、殿下、ちょっと優しい顔したような?気のせい?)
グラスをもう一口。
食事も、驚くほど美味しい。肉の旨味も、スープの香りも、酔いのせいかどこか夢の中みたいにふわふわしていた。
「……顔が赤いな」
「そ、そうですか?ちょっとぽかぽかしてきたなーって」
「飲み過ぎるな。夜、倒れられても困る」
「……よ、夜?」
殿下はナイフとフォークを静かに置き、こちらへ視線を向けた。深い青の瞳が、揺れる蝋燭の灯を映して、ひどく澄んでいる。
「夕食のあと、お前の部屋に行く。話がある」
「……へっ?」
一瞬、酔いがすっと引いた。
でもすぐにまた、胸の奥がどくんと跳ねて、熱がぶり返す。
(……話?話って、何の……?)
ぼんやりした頭で考えかけて――そこで、はっとした。
(……あ、そういえば……)
僕、昼間に……婚約破棄、とか……言ったような。
遅れて思い出した事実に、背中を冷たいものが走る。
しかも殿下、あのとき——確か、怒っていた。
(もしかして……その話……?いや、絶対そうだよね……!?)
そう思った瞬間、心臓が一気にうるさくなる。
怖いのに、なぜか視線を逸らせない。殿下の瞳は、感情を読ませないまま、じっと僕を捉えていた。
「……何か、問題があるか?」
低く落とされたその声に、背筋がぴたりと伸びる。
「い、いえ……ありません……」
僕は反射的に首を振り、こくこくとうなずくしかなかった。
――ああ、これ。
絶対、穏やかな話じゃない。
酔いの熱と、不安と、わけのわからない高鳴りが混ざり合って、胸の奥が落ち着く気配は、まるでなかった。
部屋に戻ると、ばあやさんがにこやかに出迎えてくれた。優しい笑顔に、少しだけ肩の力が抜ける。
「お食事もお酒も、お口に合いましたか?」
「あ、はい……すっごく美味しかったです……」
「それはようございました。お風呂も沸いておりますよ」
「ありがとうございます……」
ばあやさんに促されるまま浴室へ向かい、服を脱いで湯船に身を沈める。途端に、全身を包むお湯の熱に、思わず小さく息が漏れた。
「あぁ……気持ちいい……」
肩まで浸かると、昼間からの緊張や、訳の分からないどきどきまで、ゆっくり溶けていく。
(ご飯もおいしかったし……お酒もちょっと飲んじゃったし……)
湯の熱で白く霞んだ視界の向こうを、ぼんやり見上げた。
(今日は……なんかいろいろあったような気がするけど……)
ゆっくりと息を吐き、目を閉じる。心も体も、すっかり緩みきっていた。
お風呂から出ても、湯上がりの肌がまだぽかぽかしていて、髪を拭きながらベッドに潜り込む。
「はぁ……幸せだなぁ……」
柔らかい寝具に包まれて、思わず目を細めた。
(なんか……大事なこと、忘れてる気がするけど……まあいっか……)
ふわりと意識が溶けかけたそのとき――
コン、コン、と扉がノックされた。
「……ルイス」
低く落ち着いた声――殿下だ。
(あ、忘れてたのこれだ……!)
慌てて体を起こす。けれど、湯上がりと酔いのせいで体がほかほかして動きが鈍い。
扉が静かに開く音がして、月明りの中に立つ殿下の姿が見えた。
その瞳が僕を見て、一瞬――ほんの一瞬だけ、息を止めたように見えた。
「……入るぞ」
殿下の声が、いつもより少し低く聞こえる。その音が胸の奥でくすぐったく響いて、僕はわけもわからず息を呑んだ。
(え、えっと……なんか、部屋、急に暑くない……?)
自分の頬が熱いのは、お酒のせいか、それとも――
夜の静寂がゆっくりと部屋を包む。緊張と酔いと、なぜか心臓の鼓動だけが大きく響いていた。
――どうしよう。僕、本当にこのあとどうなるの?




